未来?100年後?……まず“明日の当たり前”が欲しい👣
「未来への想いを語ってください」と言われた。昭和100年の節目に「次の当たり前を考えましょう」という企画らしい。とても立派である。こういうお題を見ると、空飛ぶ車、完全自動運転、AI医療、地球環境、世界平和など、いかにも未来っぽい言葉を並べたくなる。
だが、私の中の未来担当大臣は、その会議室にまだ到着していなかった。なぜなら、今夜の晩ごはんすら決まっていないからである。そんな男に100年後を語らせるのは、補助輪つき自転車で火星へ行けと言うようなものだ。
そもそも100年後である。私はもうこの世にはいない。縁側で「わしが若いころはスマホという板を指でなぞっておった」と語る妖怪になっている可能性がある。そんな壮大な未来より、今の私が欲しいのは、もっと足もとの革命である。
朝、布団から出て一歩目を踏み出した瞬間、踵が「おはようございます」と鋭利な挨拶をしてこない未来。しゃがんだだけで膝が町内会長みたいに「ちょっと待った」と立ちはだからない未来。重い荷物を持つ前に腰へ事前申請を出さなくてもいい未来である。
若いころ、身体は無言の家来だった。走れと言えば走り、跳べと言えば跳んだ。ところが40代になると、身体は急に労働組合を結成する。踵支部、膝支部、腰支部、歯茎支部、老眼支部が次々と決起し、「待遇改善を求める」とプラカードを掲げ始める。私はただ靴下を履きたいだけなのに、膝支部がストライキを起こす。スマホを読むだけなのに、老眼支部が「距離を取れ」と要求してくる。未来どころか、日常がすでに内戦状態である。
だから私の願う未来は、空を飛ぶ車ではない。それより、私自身が少しでいいから地面から浮ける身体でありたい。黒染めをした風呂場を妻に見つかっても、世界大戦に発展しない家庭内平和も欲しい。薬を飲んだか忘れて、机の前で名探偵みたいに推理しなくて済む記憶力も欲しい。身に覚えのない筋肉痛が、差出人不明の郵便物みたいに届かない明日も欲しい。
昭和から令和までの間に、世の中の当たり前はずいぶん変わった。誰かの「こうなったらいいのに」が、少しずつ形になってきたのだろう。
ならば、私の小さな願いも、未来会議の隅に置いておきたい。100年後の人類がどうなっているかは、専門家に任せる。私はまず、明日の朝、布団から立ち上がり、踵と膝と腰の許可を取らずに歩きたい。そしてできれば、ほんの少しジャンプして、何事もなかった顔で着地したい。未来とは、案外そのくらい低空飛行で始まるのかもしれん。

