「5分で紹介」愛媛|「松山城」攻め
いざ!城攻めじゃあ!
全国各地にある城を攻めまくり、「天下統一」を目指すことにしたよ。
これは、そんな夢見がちな「足軽サラリーマン」の ”城攻め” の記録を5分で紹介する記事です!
こたびの戦で攻めるのは、愛媛県の顔『松山城』です。
松山市街の中心地、標高132mの勝山の上に聳える巨城です。その敷地は広大で本丸へは4つのルートがあり、ロープウェイまで完備されたお城です。
■松山城の攻めどころ■
①関ヶ原の合戦で活躍し、松山藩初代藩主となった「加藤嘉明」公が1602年から築城を開始して、何と完成までに25年もの歳月が掛かったほどの巨大な城です。
②天守は「現存12天守」の1つです。初代天守は1784年に落雷で焼失しましたが、10年後の1854年に再建され、現在にその姿を残しています。
③もちろん「日本百名城」(№81)に選出されています。
④天守は「三重三階・地下一階」で、天守・小天守・隅櫓を渡櫓で結ぶ「連立式天守」の代表格とも言える城です。この建物が麓から見上げると異様なほどの巨大さで威圧されます。
⑤天守と麓の二の丸を石垣で結んだ「登り石垣」が有名で、その長さなんと230mもあるそうです。
⑥城内にある21棟の建物が、国の重要文化財に指定されています。
⑦城内を歩いて天守まで行くルートと併せて、空中から城内を一望するロープウェイの2拓があり、初めてであれば是非ロープウェイをお勧めします。
⑧天守に登れば、松山市内を一望できるほか、遥か瀬戸内海までも見渡せる眺望が待っています。
⑨昔(当時)、堀の「金の亀」がいたとか、いないとかで、とにかく縁起が良いということで別名「金亀城」とも呼ばれています。
⑩ロストテクノロジーやオーパーツの類で噂されているのが、標高132mの高さにある本丸広場の「井戸」です。
直径2m、深さはなんと44mもあり、当時の技術では到底掘削や取水は不可能だったそうです。
では、さっそく城攻め行ってみましょう!


うん、ゆるい!




ロープウェイからは城内の様子が良く見えます。



別記事でも紹介しますが、夜景もすごいですよ。




山の上とは思えない、めちゃくちゃ広い空間です。何と南北に300m、東西幅が最大180m(サッカーグラウンド3つ分)もあるんですよ。

ここでも「よしあきくん」












意外と軽いんだなという感想。

これは嬉しい。











再び本丸広場を抜けてロープウェイへ。



味があって渋い!
(新しい車両もあります)
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雲に近い城
伊予の国は、海と山に挟まれている。
その中央に、ひときわ高くそびえる勝山があった。人が城を置くには高すぎる、と誰もが思った山である。
慶長七年(1602)。
関ヶ原の後、加藤嘉明は伊予二十二万石を与えられた。賤ヶ岳、朝鮮の役、関ヶ原――槍一本で生き抜いてきた男にとって、伊予はようやく得た「治める国」だった。
嘉明は平城を選ばなかった。
港を見下ろし、街道を押さえ、海も陸も監視できる場所。
「ここからなら、伊予すべてが見える」
彼が指したのが、勝山である。
築城は困難を極めた。
石も木も、人も、すべてを山上へ運ばねばならない。
だが嘉明は譲らなかった。
「城は、見下ろすためにある」
松山城は連立式天守を持つ。
大天守を中心に、小天守と櫓が連なり、戦う構えを崩さない。
その姿は、泰平の城というより、なお戦場を想定した城だった。
だが嘉明は、完成を見ぬまま伊予を去る。
幕府の命により会津へ転封され、松山城は未完の城として残された。
城を完成させたのは、蒲生忠知の後、松平定行である。
定行は城を整え、城下町を広げ、山の下に人の暮らしを集めた。
武の城は、政の城へと変わっていく。
それでも天守は高い。
標高約132メートル。
日本有数の高さを誇る山城でありながら、城下町と一体となった城である。
雲が流れ、霧が城を包む日、
松山城はまるで空に浮かぶ要塞のように見える。
この城は、
戦国を生き抜いた武将の視線と、
泰平を治める藩主の意志、
その両方を宿している。
松山城は、
「戦える高さ」を持ったまま、
「治める時代」を迎えた城なのだ。
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城内は広過ぎて、今回紹介し切れなかった数々の史跡や遺構もまだまだたくさんあります。急いで見て回っても軽く2〜3時間は掛かります。
現存12天守、愛媛の顔、「松山城」是非訪れてみてください。
「5分で紹介」松山城。終わりです。
石垣に刻まれた時間に、また1つ歴史の風を感じた日だったよ。
