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『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』感想


『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』、読了。


 突然愛する人が「脳死」と判定されたらどう思うだろうか。

 本書は縊死しようとして自ら首をくくって脳死となった次男・洋二郎と、それに向き合う家族との11日間を描いた手記であった。父の回想を中心に洋二郎が好んだ詩や小説、音楽などの話や、洋二郎の日記や彼が書いた小説などからの引用がなされ、彼のどこか薄暗くも美しい感性が全体を包んでいるように感じた。

 恥ずかしながら「脳死」と「植物状態」との明確な違いを考えた事がなく不勉強であったため、以下に引用させていただく。

 「脳死とは、脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態です。回復する可能性はなく元に戻ることはありません。
 薬剤や人工呼吸器等によってしばらくは心臓を動かし続けることはできますが、やがて(多くは数日以内)心臓も停止します(心停止までに、長時間を要する例も報告されています)。
 植物状態は、脳幹の機能が残っていて、自ら呼吸できることが多く、回復する可能性もあります。脳死と植物状態は、全く違うものです。欧米をはじめとする世界のほとんどの国では「脳死は人の死」とされ、大脳、小脳、脳幹の全ての機能が失われた状態を「脳死」としています。イギリスのように、脳幹のみの機能の喪失を「脳死」としている国もあります。日本では、脳死での臓器提供を前提とした場合に限り、脳死は人の死とされています。」  

日本臓器移植ネットワーク

 植物状態は回復する可能性もあるが、脳死では元に戻ることはないそうだ。脳死でも人工呼吸器などを使えば、数日から2週間ほどは心臓を動かすことができるらしい。作中では、家族が洋二郎に寄り添うなかで見た、丁寧な医学的プロセスを踏んだうえで脳死判定が出る様子が父・柳田氏の視点から描かれた。その描写を通して、人ひとりの人生、延いては家族をはじめとした周囲の人生を決める判定を出す医療現場の動きや、それを固唾を呑んで見守る家族の姿が想像できた。

 25歳で儚くなった洋二郎は、十数年前から心を病んでいたという。本記の中で、彼が何度も死にたいと口にしていたことを柳田氏が伝えてくれた。私も洋二郎と同じく、安定剤を飲んで日々を過ごす身である。

「死んでしまいたい」
「死ぬのが怖い」
「死にぞこなうのは嫌だ」

…彼を襲っていたであろう希死念慮が自分と重なった。洋二郎は実行した。私は実行していないだけだ。

人の死とは、何か。
どこからが、人の死なのか。


 けして長くはないが、これまでの人生で私も何度か考えた事がある。私は、「身体的な死(身体の機能の停止)のその先に、社会的な死がある。人に存在を忘れ去られた(記憶や記録から消えた)時が本当の人の死である」ということではないかと思う。

洋二郎はカフカを読むのと同じように、ガルシア=マルケスのこの作品についても、自分を作品の内部に同化させ、自分の実存をかけて、読んだので、ブエンディーア一家百年の営みが、マコンドの町全体とともに消滅し、人間の記憶から消えてしまうという結末を、心底から「これは恐いことだ」と何度も語ったものだった。

『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』

 洋二郎も同じように考えていたらしい。この考えの延長として、洋二郎は自己犠牲に思いを馳せていた。
 対人緊張・対人恐怖が強くて社会との繋がりが弱かった洋二郎は、「誰にの役にも立てず、誰からも必要とされない存在」となっていることを悩んでいた。そんな洋二郎が「密かな自己犠牲」として選んだのが「骨髄移植バンク」への登録だった。骨髄移植は、提供する側にもリスクがある事が知られている。もちろん洋二郎も承知の上の決断であった。
 
 脳死と判定されてから、洋二郎の身体の機能が落ちていくのを目の当たりにした家族は、洋二郎の意思である骨髄移植ができないか医師に相談する。結果として、この数日間では適合するレピシエント(移植を受ける人)が見つからず、洋二郎の骨髄移植は実施されなかった。しかし、担当医が洋二郎の意思を受け継ぐが如く、自身もドナー登録をしたのである。彼の意思はけして無駄ではなかったと私は思う。

 私自身もドナー登録について興味があり調べたことがあるが、身体的なリスクだけでなく、入院期間が必要なことや、SNSの情報で休暇は自分で確保する(会社員であれば、有給休暇を利用しなければならないところもある)ものときいて、有耶無耶にしてしまっていた。今回の読書を機に再度視野を広げてみれば、現在、私が所属する職場では提供手術や検査についてドナー休暇が認められているらしいことがわかった。
 私は服薬中であるため骨髄ドナーとして登録することは難しいらしいが、この「密かな犠牲」について知っているだけでもいいのかもしれない、とも思った。少しでも興味を持った人と出会った時に私がこの知識を伝えることが、なぜだかひとつ、仕事のように思えた。

 さて、洋二郎の骨髄移植ができないとわかってその次に家族が考えたのは、洋二郎の腎臓を提供するということだった。医師に示唆されたこの道は生前の本人が決めていたこと以上のことであり、家族で時間をかけて話し合いをしたうえで、腎臓を提供するという答えを出した。「骨髄移植の代わりになる」と洋二郎も納得してくれるだろうとの考えだった。

 後に、医師より膵臓の提供を依頼される場面があるが、腎臓と同じように時間をかけて考えを整理する話し合いができないことを理由に断っている。愛する家族の身体から、本人の断りなくどの程度「自己犠牲」を抽出してやるか。それを考えるのはどれほど精神をすり減らす問題であっただろうか。

 兄・賢一郎が医師と移植コーディネーターに伝えた言葉がある。

「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に弟が参加するのを、医師は専門家として手伝うのだ、というふうに考えてほしいと思うんです」

『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』

 この言葉を目にした時、電撃が走った。臓器移植を扱ったテレビドラマのワンシーンを見るよりも、この静かな言葉が私の心を震わせた。提供者の意思の実現を、専門家が手伝う。持ったことのない視点であった。提供するにあたって納得いくまで考え、現場に立ち会った家族だからこそ出た言葉であると感じた。

 本記事の冒頭部分に記した、「愛する人が脳死と判定されたらどう思うだろうか」という己の問いには私は依然として応えることはできない。「悲しい」「無念」「あなたがどうして」…このような言葉を並べてみるが、どれもその場面に直面した人間の感情を表現することはできないだろう。私たちはさまざま考える、複雑な個体であるからだ。

 ここでタイトルに立ち返る。「犠牲(サクリファイス)」には、洋二郎が好んでいた映画監督アンドレイ・タルコフスキーの作品『サクリファイス(犠牲)』、そして洋二郎の密かな自己犠牲に加え、脳死をという現実を突き付けられた家族が短い時間での苦悩の果てに決断を迫られたという時間・心情の犠牲が込められているのではないか。けして、「洋二郎が臓器移植の犠牲となった」という意味ではないだろう。他ならぬ洋二郎の意思が、家族の心を動かしたのだから。

 ふと自分の免許証の裏を見る。項目に丸がついている。一番下に、過去の私が記名している。

1 私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。

私は、協力者として臓器提供に参加することがあるだろうか。私の犠牲は、誰かに届くことがあるだろうか。

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