エッセイ【鬼と、かきたらず】
彼は消防長だった。
組織のトップ。
かつては、警察本部で捜査を指揮した男だった。
知り合いの刑事は、彼の名を聞くと、顔をしかめて言った。
「あの鬼……」
どうも。
たび.です。
あたしの文章には、ときどき「余白がある」と言っていただけます。
ありがたいことです。
ただ最近になって、少々、疑問が生じてきまして。
登場人物の気持ちは、読者に考えてもらう。
物語の意味は、読者に委ねる。
ラストの解釈は、読者にそっと差し出す。
これ、あたしが途中でほっぽらかした仕事を、読者のみなさまへ無償で業務委託していたんじゃないか。
余白なのか。
業務委託なのか。
なんだか、よく分からなくなってまいりまして。
先日、みやびさんの『私の文章修行のお話。』という記事を読みました。
そこには、優れた文章を真似ることから学び、自分の表現を育ててきたというお話が綴られていました。
文章は、誰かの言葉に触れ、真似て、考えて、少しずつ身についていく。
なるほどなあ、と思いました。
そして、ふと考えたんです。
あたしは、いったい誰の文章を真似てきたのだろう。
あたしには、noteで多大な影響を受けるクリエイターさんが三人います。
紹介しようかと思ったけれど、やっぱりヤメた。スキすぎて悔しいから(笑)
そして、違う。
あたしが最初に文章を教えられたのは、その三人ではなかった。
真似たというより、叩き込まれた。
はるか昔。
前職の消防で出会った、あの鬼に。
消防には、火災の原因を調べる仕事がある。
燃えた建物を調べ、関係者から話を聴き、その内容を供述調書として残す。
彼がもっとも厳しかったのは、その調書だった。
本来なら、平職員の作成した調書を、組織のトップが一枚ずつ直接確認することなど、ない。
だが、彼は見た。
調書を提出する。
突き返される。
書き直す。
また、突き返される。
「これは、本人が見たことなのか」
「その時間は、何を根拠に特定した」
「火が出たと言うが、炎を見たのか。煙を見たのか」
一語ずつ。
一文ずつ。
曖昧な部分は、容赦なく削られていく。
書き直すだけでは済まない。
確認が足りなければ、もう一度、話を聴きに行く。
同じ人のところへ、二度、三度と足を運ぶ。
当然、先方はうんざりする。
こちらも、うんざりする。
それでも彼は、やり直しを命じた。
同じ人から何度も話を聴くと、内容が少しずつ変わることがある。
記憶の曖昧さか。
自分を守ろうとする心か。
彼は、その変化まで見ていた。
彼が繰り返し口にした基本方針は、ただひとつ。
「法廷で、絶対に負けない」
火災調査の書類は、ただの記録ではない。
法廷で争われれば、曖昧な一語が突かれる。
根拠のない推測ひとつで、調書全体の信用が崩れる。
だから、書かれているすべての文言に、根拠がなければならない。
誰が言ったのか。
何を見たのか。
どこまでが事実で、どこからが推測なのか。
彼は、それを徹底した。
曖昧な一語は、相手に渡す刃になる。
推測は、調書全体を崩す穴になる。
見ていないことを書かない。
聞いていないことを書かない。
本人が語っていないことを、こちらの想像で補わない。
彼は、それを部下にも、相手にも、そして自分にも求めた。
すべては、法廷で争われても崩れない調書を作るためだった。
火災があるたび、調書が完成するころには夜が明けていた。
あの鬼の声は、消防を辞めた今も、あたしの文章の後ろに立っている。
「それは、本当に書いていいのか」
「本人は、そこまで語ったのか」
「お前の想像を、事実のように置いていないか」
今も背後から、問い続けてくる。
登場人物が悲しかったと書く前に、本当に悲しかったのかと立ち止まる。
愛していたと書く前に、本人はそこまで語ったのかと考える。
言葉にならない感情を、作者の都合で決めつけてはいないか。
そうして、言い切れない一文を削っていく。
あたしは、読者さまを信じている。
書かなくても、届くことがある。
一文を削ったあとに残る静けさから、登場人物の気持ちを受け取ってくれる人がいる。
もちろん、伝わらないこともある。
何も届かないまま、読み終えられることだってある。
それでも、恐れない。
すべてを説明して、想像する楽しみを奪いたくない。
物語の最後に残したものを、読者さまへ渡したい。
こうして、あたしの文章は少しずつ書き足らなくなっていった。
鬼は、もういない。
すでに鬼籍に入った。
それでも、文章を書くたびに思い出す。
「事実を書け」
「推測を書くな」
「一語たりとも、法廷で争われる隙を残すな」
夜空を見上げる。
感謝など口にすれば、きっと鼻で笑われる。
だから、祈る代わりに、今夜も一文を削る。
あの人に突き返されない文章を書くために。
その先にいる読者さまへ渡すために。
そうして出来上がったものが、少し足りないとしても。
どうも。
書き足らずの、たび.です。
Special Thanks
このたび、記憶の底から鬼を召喚するきっかけをくださった、みやびさんの『私の文章修行のお話。』
本文補足
※ 消防での正式名称は「質問調書」です。本稿では、当時の消防長が用いていた呼称に従い、初出を「供述調書」と表記しています。
以下余白
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