1999年頃の台北の語学学校はインドネシア華人生徒がものすごく多かった。
インドネシアのスハルト大統領独裁政権時代末期、1997年にインドネシア南カリマンタン州バンジャルマシンで、1999年には西カリマンタン州サンバスで大規模な暴動があり、1998年5月、インドネシアの首都ジャカルタを中心に暴動が各地で発生(学生の反政府デモがきっかけ)し、経済的格差への不満からインドネシア華人(中国系インドネシア人)が標的にされる華人排斥暴動(華人女性に対する集団強姦事件など、非人道的な被害も報告されている)に発展した。そして、2001年2月、中部カリマンタン州で発生した民族暴動は土着のダヤク系住民による残虐な首狩慣行が突然の復活をし、ダヤク系住民と敵対する移住民マドゥラ人の500人以上がダヤク系住民に襲われ、生首が狩られ、ダヤク系住民が犠牲者の血や肉を食べたり、生首を槍の穂先に串刺しにし、パレードをしたり、道端に展示したりしたという事件が起きている。このような状況の中、11万〜15万人のインドネシア華人が海外に脱出したと言われている。
この混乱から子供を台湾へ逃して、中国語を身につけさせ、仕事を探させたり、大学などへ進学をさせる家庭も多かった。(1967年から1998年までインドネシアでは中国語学習が禁止されていた)
当時、僕が通っていた語学学校もいっきに数百人もの生徒が増えて、その殆どがインドネシアからだった。まだ10代後半という歳頃の女子が多かった。男子学生もいたが多くが見た感じガラが悪そうで、グループで行動し学校の休憩室や外の公園などでたむろしている場合が多かった。その様子を見て、日本人学生はちょっと怯えているような時もあった。 休憩室がインドネシア華人の男子学生ばかりになると、休憩室から出ていく日本人学生もいた。僕が一人で休憩していると、僕の周りによくインドネシア華人の男子学生たちが集まってきた。僕はこの語学学校へ来る前に行っていた別の語学学校でもインドネシア華人学生が多く、彼らとは仲良くやっていたし、慣れていた。また、僕は片言の客家語が話せたので、彼らに面白がられていた。彼らの多くは客家系の華人だったからだ。
彼らの多くは中国語ができなかったが、カリマンタン出身者は客家語や潮州語ができた。家庭内で使っていたからだ。10代の子たちは台湾がどういう所か全く知らずに来ていた。語学学校の休憩室で騒いでいた女の子たちに先生(客家系台湾人)がまだ中国語が通じないと思ったらしく、客家語で注意したら、皆んな目を丸くして驚いて、黙ってしまった。何で台湾人の先生が自分たちの言葉を話せるんだろうと思ったようだった。
ここの語学学校の中国語教師は客家系台湾人が多かった。それで、僕は休み時間を利用して、先生たちに客家語を教えてもらっていた。実はこの学校の前に通っていた語学学校でも客家系の先生に客家語を教えてもらっていた。
僕は潮州語がわかる人は台湾語もある程度わかることは日本で生活をしている頃から知っていたので、潮州系の子達には台湾語で話しかけていた。すると何で日本人なのに私たちの潮州語が話せるの?と驚かれた。当時、僕が行っていた学校には広東系インドネシア人や福建系インドネシア人はほとんどいなくて、2、3人としか知り合わなかった。福建(閩南)系の子は客家系の子達のためにアパートの台湾人大家との間に入って通訳を買って出ていた。広東系の子はいつも学校で一人でポツンとしていた。
客家系インドネシア華人や潮州系でも客家語が話せるインドネシア華人は客家系台湾人の大家から部屋を借りたり、客家系台湾人の店でアルバイトをしている子たちが多かった。父親が福建(福州)系で母親がフランス系ドイツ人だった子は欧米人と一緒にいることが多く、インドネシア人のグループからは離れていた。顔つきが西洋系だったので、皆んなからインドネシア人とは思われていなくて、たまにインドネシア華人学生に突然インドネシア語で話しかけて、驚かせていた。
台湾生活が長くなってくると、潮州語が話せる子たちは潮州語が台湾語と似ていることに気づき、買い物やタクシーに乗った時、台湾人に直接潮州語を使う子も多くなった。僕は彼らと一緒に行動している時、台湾人店員に彼らの言葉はわかるの?と聞くと、台湾人ではないと思うけど、なぜか言葉は大体何を言っているかわかる!と言っていた。また台湾語に興味を持ち、台湾語を身につける子も多かったように思う。夜8時台の台湾語連続ドラマを毎日熱心に見ている子たちもいた。中国語ドラマよりわかりやすかったからだろう。
当時の僕が付き合っていた彼女もインドネシア華人で彼女の父親は中国からの移民一世の潮州人、母親は客家系の二世だった。それで潮州語も客家語も話せた。知り合ったばかりの頃は彼女は中国語は全く話せず、僕に英語で話していた。それに対して僕は台湾語で話していた。潮州人は台湾語がある程度わかることを知っていたからだ。それで僕は台湾語を使って、彼女から簡単な潮州語や客家語を教えてもらっていた。でも半年も過ぎると、彼女はあっという間に中国語を身につけ、僕より上手に話せるようになっていた。台湾語と潮州語はよく似ているので、僕はどっちがどっちだったかわからなくなり、混乱することも出てきた。台湾人の知人に街で偶然会った時などに、うっかり潮州語で挨拶してしまうこともあった。台湾人には「チョックゥボーコアティオリィ!(久しぶり!)」と言うべきところを「ヒョックゥボートィティオルェ!(久しぶり!)」と言ってしまっていた。
彼たち、彼女たちは台湾に所謂外省人(第二次世界大戦後すぐに中国などから台湾へ移住した住民)として、また華僑(戦後、しばらく経ってからの移住)として台湾へ移住した親戚がいて、その親戚に時々会いに行っていたり、親戚の家に世話になっている子もいた。友人の一人は珍しいケースでお父さんがインドネシアへ移民した台湾人だった。それで台北に住む祖父母の家に住んだ。だから彼は台湾語も話せた。
語学研修生としてのビザが切れて(学費を払い続けないとビザは切れる)、不法滞在を続けるために客家人が多く住む地域に逃げて、工場に住み込みで働いたり、客家語、台湾語が理解できる強みを生かし、警察の外事課の係員に賄賂を渡して、偽造の居留証を手に入れたりしていた。そもそも本名のインドネシアパスポート以外に違う名前で作ったインドネシアパスポートも持っていて、使い分けている子もいた。インドネシアでも賄賂を渡せばそういうことができたし、日本や台湾のような戸籍制度がないから、家族関係や家系のことなどはごまかせたのだろう。
語学学校への留学の外国人は申請して短時間のアルバイトなら認めてもらう方法もあったが、誰もそんな面倒なことはせず不法就労をしていた。日本人や西洋人は日本語教師や英語教師の不法就労ぐらいしかなかったが、インドネシア人たちは台湾人の話す客家語や台湾語もわかる場合が多く、言語問題のハードルも低く、親戚もいたりして、台湾人の中に深く入りこむ術があったので、様々なアルバイトを見つけることができた。
彼らは中国語の習得が本当に早かった。元々英語がかなり話せたり、客家語や潮州語が話せる子も多かったので、半年語学学校へ通えば、バイトができる程度の中国語がすぐ身についた。中には台湾人とあまり違わないほど発音がきれいな子もいて、こういう子たちは接客のバイトができた。
僕の彼女は台北から香港にいる親戚の家に2週間遊びに行っただけで、旅行で使う簡単な広東語を身につけてきて、台北へもどったら、1週間ぐらい、ついうっかり広東語を使ってしまっていた。僕にも広東語で話した。
彼らは子供の頃から多言語社会で生活していたから、耳で聞くだけで外国語や異民族の言葉を身につけるのは得意なのかもしれない。ただし、漢字の習得は困難だったようだ。もちろん大学などへ進学したら、漢字も身につけていたのだろうが。僕の彼女は中国語会話は僕より上手になったが、漢字は簡単なものしか読み書きができなかった。
当時語学学校にいた他の日本人や外国人はこういう状況に気づいていなかったと思う。華人排斥暴動があったから台湾へ来たということは知っていたとしても、インドネシアから来ていた若い子達の言語にまつわる事情や生活は知らなかったと思う。僕自身が台湾語と客家語、潮州語に興味があったから、知り得たんだと思っている。
