空區地車の力学152.【望郷編】お墓参り(4)濠のある巨大前方後円墳
◆街から噴水が消える!?
高度成長期には、地下街などに噴水や水の流れる施設が沢山あった。私が足しげく通った取引先の工場にも噴水はつきもので、噴水前のベンチでお弁当を食べる工員をよく見かけたものだ。しかし、やがて水は止められ、いつしか解体されている。
関西では、ホワイティうめだの「泉の広場」では、かって水が流れる泉があったが今はない。学生時代には難波・虹のまちの「噴水広場」でよく待ち合わせをしたものだ。此花区にある下水道科学館の屋外にあった巨大水鉄炮も無くなった。水を利用した施設は心を和ませてくれるが、建設費が高くつくだけでなく、維持費もかさむため、減少傾向にある。

木々や芝生、噴水や泉などができ人々の憩いの場所となっている
◆濠がある陵墓は我が国だけ?
世界3大陵墓のひとつである「クフ王のピラミッド」には濠はない。しかしピラミッドの巨石を運ぶために水路(運河)はつくられた。ピラミッドが完成したあとも水路や港はすぐに壊さず使われたようだ。
同じく世界3大陵墓に数えられる「秦の始皇帝陵」にも濠はないが、建築に際し水路はつくっている。ただし運搬用ではなく、墓室を水害から守るための排水用として使われたようだ。
私の敬愛する考古学者・森 浩一氏によると、水を張った濠のある古墳は世界でも珍しく、日本でもどこにでもあるのではなく、天皇陵の多い奈良と大阪に集中しているという。
私は神功皇后関連の奈良や大阪にある前方後円墳を重点的に巡ったが、天皇陵には少なくとも一重の濠がある。古市古墳群にある「応神天皇陵」には二重の濠が、百舌鳥古墳群にある世界3大陵墓のひとつである「仁徳天皇陵」にいたっては三重の濠がある。
古市古墳群にある「津堂城山古墳」は、二重の濠が日本で初めて採用された古墳と考えられている。現在は開発で濠が埋められたり、一重の濠しか見えない古墳でも土の中に二重目の濠の跡が判明するケースも多い。

戦国時代には、その濠を使い、古墳を城塞化した武将も多い。例えば織田 信長は、古市古墳群にある第15代 応神天皇陵である「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」を「誉田城」につくり変えた。畠山 義就(はたけやま よしなり)は、同じ古市古墳群にある「安閑天皇陵」を「高屋城」にした。古墳を守る濠は、戦国時代には城を守る堀となったのだ。

◆水の循環を形成する陵墓の濠
ピラミッドや始皇帝陵の建設と同様に、前方後円墳の建設時は土や石、埴輪などを運ぶ水路として濠が必要だったと考えられるが、完成後は盗掘から被葬者を守る城壁の役割を果たしていたと考えられる。
しかしピラミッドにも始皇帝陵にも、陵を守るための濠はない。ピラミッドは高さ8m、厚さ3m以上の壁に囲まれ、中への入り口は1箇所しかなかったという。また始皇帝陵にも濠はなく二重の城壁(土塀)を張り巡らし、守りに備えた。土を盛る城壁に比べ、古墳の濠は建設時だけでなく、水を維持するための高度な土木技術が必要になる。

仁徳天皇陵の濠の水は、日本最古のダム式ため池として知られる「狭山池」から水路でつなぎ水を引いていた。水路の距離は直線距離で約9.3km(実際はもう少し長いと考えられる)もある。
仁徳天皇陵の濠から「水の道」は時代と共に引き継がれ、狭山池➔仁徳天皇陵の濠➔堺の環濠➔大阪湾という水の循環により堺(百舌鳥)の街を発展させていった。環濠(かんごう)とは、集落の周囲に濠をめぐらせ防御に備えたり、灌漑用水として田畑へ水を供給するためにつくられたり、あるいは運搬手段としてつくられるなど時代や地形・環境により目的は様々だ。畿内では、大阪府堺や平野、奈良県橿原市今井町などが有名で、堺では環濠クルージングが観光スポットになっている。

◆濠は誰がつくったのか?
仁徳天皇陵の濠の水は狭山池から引かれたが、狭山池の堤は土の間に植物の枝葉を挟み込み決壊を防ぐ「敷葉(しきは)工法」が使われており、当時の中国や朝鮮半島の最先端技術を使っていることが判明している。
最先端技術をもたらしたのは中国や朝鮮半島からの「渡来人」であり、渡来人の知恵を古墳の建設に活かしたのが「土師(はじ)氏」だと考えられている。土師氏は、もとは土器や埴輪をつくる専門集団「土師部(はじべ)」を率いていたが、やがて古墳の建設もヤマト王権から担っていくことになる。

土師氏は埴輪や土器の大量生産を通じて、土質分析や測量・図面作成・工程管理などの技術を確立し、さらに渡来人から学んだ土木技術によりやがて巨大古墳の建設を請け負ったと考えられる。古墳建設を行ないながら土木技術集団「土師部(はじべ)」を全国に派遣し、農地開拓やため池・水路づくりという地方のインフラをつくると共に、ヤマト王権の力を拡大していくエンジンとなった。土師部が住む場所は「土師」という地名で呼ばれるようになり、土師の地名は奈良や大阪にとどまらず全国に散見するようになった。

左後ろに見えるのが三輪山
日本で最初につくられた巨大前方後円墳は奈良県桜井市にある「箸墓(はしはか)古墳」といわれている。下図は私の敬愛する考古学者・森浩一氏の「記紀の考古学」からの引用であるが見事に河道でつながっている。古墳をつくる時にその材料となる資材の運搬のための運河や濠の造営にも土師氏の技術が遺憾無く使われていると考えられる。

箸墓古墳は、宮内庁により第7代 孝霊天皇の皇女の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」のお墓に治定されている。下記写真の左後ろに見えるのが三輪山。三輪山には大物主神(おおものぬしのかみ)を祭る大神神社(おおみわじんじゃ)がある。大物主神は倭迹迹日百襲姫命の旦那といわれている。

一方で、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が箸墓古墳であるという研究者も多い。しかし国文学者・土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日ー1998年6月11日)氏は、箸墓古墳をつくったのが土師氏であることから「土師墓が箸墓になった」と主張している。本ブログでは土橋先生に1票!

(大阪湾環境データベースより)
古墳時代の大阪の地図からもわかるように、河内平野(大阪平野)には海水が入り込んでいた。河内湾→河内潟→河内湖→河内平野という変遷は土木技術がもたらした。現在の大阪の街は、まさに土木技術ありきで生まれたのだ。
河内湖に水路を作ったのが、第16代 仁徳天皇。日本書紀によると、度々洪水の起こる河内湖の水を大阪湾に抜くために「堀江(ほりえ)」を開削した。「難波堀江」といわれ、現在の大川(おおかわ)だという説が有力だ。
難波堀江は、水害を防ぐと共に運河としても利用され、現在の京阪京橋駅辺りには「八軒家浜(はちけんやはま)船着場」もつくられ、江戸時代には三十石船の港として栄えた。
また日本三大祭のひとつである天神祭の7月25日本宮で「船渡御(ふなとぎょ)」と「奉納花火」が行なわれる川で、大川は古代より人々の生活を支えている。

