神様の向こう側(第11話)
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拓が突然、和也の家にやってきたのは、4月に入って最初の土曜日だ。和也はバイクをガレージから出し、磨いているところだった。
「お父さんのバイク、久しぶりに見たな」
Vストローム650の黒い車体に触れながら、拓がやわらかな口調で言う。
「そうかもな。拓はバイクに乗らないから、見せる機会もないし」
「でも、俺が見てもいいデザインだと思うよ。どこか行くの?」
「そういう訳じゃないけど。走るのにいい季節だから、いつでも出せるように磨こうと思って」
本当は、沙希を後ろに乗せるつもりだからだ。彼女のバイクは手続きや整備を経て、ちょうど1週間後に納車を迎える。和也はその日、沙希をバイクショップまで送る際、車ではなくVストロームに乗せようと思っていた。久しぶりに運転するなら、事前に他のバイクの後ろに乗って、感覚を取り戻しておいたほうが良い。
断られたら、嫌われたら、そのときはそのときだ。
沙希の、みちなり食堂でのアルバイトは昨夜で終わっている。和也も顔を出したかったが、ささやかな願いは叶わなかった。夕方になって会社の経理システムがトラブルを起こし、遅くまで対応せざるを得なかったからだ。
「あのさ」
拓はバイクから手を離し、照れくさそうに話し始めた。
「俺たち、結婚しようと思って」
「そっか。いいと思うよ」
夕飯の献立を聞いたような和也の反応に、拓のほうが驚いて父を見る。
「お父さん、反応めっちゃ薄くない?」
「今さら驚くことでもないだろ。ちえみじゃないって言うなら別だけど」
「それは大丈夫、ちゃんとちえみだよ」
そっか、拓とちえみも結婚か。和也は涼しい表情の下で、魔法にかけられたような気分になっていた。高校生だったふたりが、いつの間にか家庭を築くまでに成長していたんだな。
「でも急に結婚なんて、子どもができたとか?」
「そうじゃないけど、自然に話が出たって感じ」
拓のやわらかい笑い方は、京香に似ている。あまりにも早く旅立った彼女が残した、大切な形見。和也が独りぼっちにならなかったのは、京香がいなくなった深すぎる寂しさを、拓と分担し合えたからだった。
「なあ、拓。俺もいま、好きな人がいてさ」
そして和也は、声をこぼすようにそう口にしていた。
「えっ、お父さん彼女いるの?」
「つきあってるわけじゃないよ、俺の片思い」
「……俺、なんて答えればいいのかわかんないや」
拓の表情が、笑顔から困惑に変わる。彼のイメージの中で、父はいまでも母の隣にいるのだろう。結婚すると聞かされた和也が、高校時代の拓を思い出したように。
「ごめん、変な話して」
拓が見せた表情に、和也まで戸惑ってしまう。話してはいけなかったのだろうか。
「大丈夫だよ、謝ることでも悪いことでもないし。俺、2年くらい前かな、氷川のおっちゃんに言われたことあるんだ」
「何を?」
「お父さんは確かにおっさんだけど、独り身のまま終わるには少しだけ若い。だから、いつか好きな人ができることがあったら、親孝行だと思って受け入れろって」
「あいつ、そんなこと言ってたのか」
まったく、氷川には敵わないな。脳裏に浮かんだ親友のしたり顔に、和也は白旗を揚げたい気分だった。
「よくわかんないけど、氷川のおっちゃんの言ってたことは正しい気がするんだ。だから、お父さんに好きな人がいても、俺は何も言わないよ。でも」
「でも?」
「お父さんに好きな人がいるって言われて、俺、今まででいちばん実感したよ。お母さんはもう、神様の向こう側に行っちゃったんだなって」
「神様の向こう側、か」
これも、氷川のおっちゃんの受け売りだけどね。もう一度やわらかく笑う拓の表情が、和也にはいつになく大人びて感じられた。
