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神様の向こう側(第2話)

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「ほんと、びっくりだよ。うちの孫が来月から通う保育園、拓の彼女が保育士をやってるとこなんだから」
 カウンターの向こうで、きゅうりのぬか漬けを小皿に盛りながら、氷川が少し早口で和也に言った。
「へえ、ひばり保育園に通うのか」
「拓の彼女が孫の先生になるなんて、冗談みたいだな。俺は拓のこと、あいつが赤ん坊の頃から知ってるのに」
 京香を亡くしてから、和也は少なくても週に2度は「みちなり食堂」で夕飯を食べている。オーナー兼調理師の氷川は、和也にとって中学時代からの大親友だ。今日は残業が長引き、顔を出すのがいつもより遅かったせいか、カウンター席も4卓のテーブル席も空いている。
「だけど拓は、彼女と結婚するつもりなんだろ?」
「その予定は聞かないな。同棲するときっかけを逃すって言うし、拓は働き始めてやっと1年だから、まだ結婚はないんじゃないかな」
「そっか、大学卒業と就職をきっかけに同棲を始めたんだったな。ちっちゃかった拓が高校の先生になって、女の子と暮らしてるなんて、俺たちも歳をとるはずだよな」
 言いながら、氷川は親子鍋のふたを開けた。醤油だしの香りが、湯気に乗ってふわりと立ち上る。空腹が強まる和也の前に、氷川は親子丼とみそ汁椀、ぬか漬けの小皿を順に置いた。
「うわ、美味そう。いただきます」
「美味そうじゃなくて、美味いんだよ。俺が作ったんだから」
 氷川は大雑把な男だが、料理だけは細やかに作る。丁寧に出汁を取ったり、肉の下処理をしたりするのが苦にならないと言うのだ。調理師は結果がすぐに出るから楽しいと、氷川が晴れやかな表情で和也に語ったのは、この食堂をオープンさせた日のことだった。
「うん、確かに美味い」
「だろ? とりあえず、飯が食えりゃ人間は死なねえよ」
「出た、その言葉すっかり口癖だな。でも、確かに言えてるよ」
 京香を亡くした後、和也の体重は2か月で10kgも減った。しかし、今はほぼ昔の体形に戻っている。彼の食生活にも人生にも、氷川の存在は本当に大きい。

 庭の隅に設えたガレージのシャッターを開けると、Vストローム650の黒いボディが、差し込んだ光を受けて輝く。カラスのくちばしのような顔つきをしたこのバイクは、1年前に和也の相棒になった。
 拓が家を出て、自分は独り暮らしになったのに、楽しみがなくては老け込むだけだ。そう考えた和也はガレージとバイクを買い、昔の趣味を復活させた。父親になったことを機に手放したバイクに、役割を終えて再び跨ったというわけだ。
 両手でハンドルを握り、シートを腰の右側で支えながら、愛機をガレージの外に出す。今日の目的地は決めていないから、気が向いたところで交差点を曲がろう。何も考えずにふらりと流す、ルートのないツーリングは和也のお気に入りだ。
 バイクはいい。独り暮らしの孤独感も、組織に所属している閉塞感も、走っている間は風の向こうに飛ばしていられる。その代わりに訪れるのは、大気と体の境目を忘れるような、むき出しの解放感。四半世紀ぶりに足を踏み入れた二輪の世界は、和也の心を確実に癒していた。
「行くか」
 シートに跨り、愛機のタンクをそっと撫でる。ヘルメットのシールドを下ろし、右親指でセルスイッチを押して、エンジンが呼吸を始める感覚を体で味わう。何とも言えず厳かな瞬間。
 初春の風が少し強めに吹いてきた。その意外な冷たさに、和也はネックウォーマーをあごの下で絞り直す。今日は南へ走ってみようかな、と頭の隅で考えながら。


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