神様の向こう側(第10話)
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「じゃあ沙希ちゃん、そのバイク買ったんだ」
火曜日の夜、小さな蕎麦屋の座敷席。定休日ぐらい俺もお客になりたいと、氷川が和也を夕飯に誘った。
人気店だけあって、平日の夜だというのにほぼ満席だ。彼らが注文した天ざる蕎麦はなかなか出てこない。
「そう、オレンジのスーフォア」
「スーフォアって何?」
「CB400 SUPER FOURって、よく自動車学校の教習車になってる400ccのバイク」
「ああ、あの何の変哲もないただのバイクか。レースに使うコテコテのバイクもいいけど、ああいうシンプルなのも確かにカッコいいな。沙希ちゃんには、そのほうが似合う気がするよ」
「うん、確かに似合ってた。くすんだパール入りのオレンジで、すごくきれいな色だし」
良かったら納車のとき、また一緒に来てもらえませんか? バイクを選んだ日の別れ際、和也は沙希にそう頼まれていた。納車の際は、自分でバイクを受け取りに行かなければならない。
沙希を店へ送ることと、スーフォアに乗って帰宅するまで付き添うこと。完全な車社会のこの街では、家から店までの交通手段が必要だった。それに以前と同じ車種とはいえ、ひとりで初めてのバイクで帰るのも心細いだろう。
「悪いことじゃ、ないんじゃねえの?」
氷川の唐突な言葉が、和也の短い物思いを遮る。
「ん、バイクが? まあ確かに、いまは女性ライダーも増えてるし、いいと思うけど」
「そうじゃなくて。和也さあ、めっちゃいい顔してるよ。今」
「……はい?」
訊き返してはみたけれど、氷川が何を言いたいのか、和也には手に取るようにわかる。
彼らは何と言っても、30年以上つきあってきた親友同士だ。和也が抱き始めた恋心など、表情だけで見抜かれても不思議ではないし、否定してごまかしても無駄だろう。
「沙希ちゃん、就職先が決まったって聞いた?」
「聞いたよ。氷川の店のバイトはもうすぐ終わりで、5月から調剤薬局で働くって」
「ってことは、おまえが沙希ちゃんに振られても、その後のことを考えなくていいってことだ」
確かに。沙希がみちなり食堂のバイトを辞めれば、連絡を取らない限り、顔を合わせる機会さえなくなってしまう。下手に恋心を知られて、沙希との関係が気まずくなったとしても、会わない時間が水に流してくれるはずだ。
……でも。
「惚れたんなら、そのまま沙希ちゃんに好きだって言ってみろよ」
「何言ってんだよ、彼女はまだ30だし、俺らはもう50前のおっさんだぞ。気持ち悪いって思われて終わりだよ」
「そんな嫌悪感を持ってたら、そもそも一緒にバイク屋なんか行かねえだろ」
蕎麦、まだ来ないかな。気恥ずかしさを逃がしたくて、和也は厨房をちらりと見る。残念ながら、のれんが動く気配はなかった。
「俺はさ、中学時代から和也の人生を見てきたよ。おまえが京香ちゃんと知り合ったときは、お互いに好きだって言いだせないのが周りにバレてて、みんなでくっつけてやったよな。その後はずっとつきあって、社会人になって結婚して、拓が生まれてさ。そういうの、ずっと見てた。京香ちゃんが、神様の向こう側に行っちまったときも」
普段は大雑把な氷川が、これでも言葉を選んで話している。
「確かに俺らはおっちゃんだけど、老後までにはまだ長い時間があるんだ。恋心の一つや二つ、出会ったって不思議でも恥ずかしくもねえよ」
「だけどさ、20近い歳の差があるひとを好きになったところで、振り向いてもらえないだろ。芸能人じゃあるまいし」
「芸能人だって和也だって、顔を超絶シンプルに描けば、へのへのもへじになるんだよ。そんなに大きな差はねえだろ」
「何だよ、そのめちゃくちゃな理論」
神様の向こう側。氷川は、京香がいる世界をそう表現した。やわらかい言い方だけれど、生きているすべての者を固く拒む世界。
「氷川、いつから気がついてた?」
「和也の気持ちに? それはあれだよ。おまえが沙希ちゃんのこと、すごく目のきれいな人だって言ったとき」
「それ、初めて会った日だよな」
要するに、一目惚れしていたということか。和也自身はまだ、自分の気持ちに気付いていなかったけれど。
「……ありがとな」
「改めて和也にそう言われると、なんか居心地悪いな」
厨房ののれんが動き、彼らが注文した天ざる蕎麦が運ばれてきた。めっちゃ美味そう、と氷川が嬉しそうに言う。こんな表情は昔から変わらないなと、和也は温かいものに包まれた気持ちで、楽しげに笑う氷川を見ていた。
