好きと暮らすは別
共同生活の適性は、だいぶ前に死んだ。
これはもう、ほぼ確信している。
でも、そう言うとたいてい返ってくるのが、
「好きな人ができたら変わるよ」
という、定番のひと言だ。
はいはい、恋の魔法ね、と思う。
でも今の私は、好きと暮らすは別である。
そこ、一緒にしないでほしい。
もう魔法にさえかからないお年頃だ。
好きな人ができる可能性は、ゼロじゃない。
会いたいなと思う相手ができる可能性だって、なくはない。
でも、だからといって
「じゃあ一緒に暮らそう」
にはならない。
むしろ、好きならなおさら暮らさなくていい気がする。
会いたいときに会う。
一緒にごはんを食べる。
楽しく話す。
じゃあね、と言って、それぞれ自分の家に帰る。
今の私には、それが最高である。
だってもう、人と暮らすのしんどい。
咳ひとつ。
足音ひとつ。
テレビの音ひとつ。
それだけで、静かにイラッとする。
心が狭い。
それは知ってる。
でも、狭いものは広がらない。
若いころは、好きなら一緒にいたいと思っていた。
でも今は違う。
好きだから毎日一緒にいたい、ではなく、
好きだから生活は混ぜたくない、なのである。
恋の敵は、だいたい生活だ。
脱いだら脱ぎっぱなし。
使ったら使いっぱなし。
やったらやりっぱなし。
靴下はそのへんに落ちてるし、食器は下げないし、テレビはつけたまま寝る。
そういう小さなだらしなさの積み重ねで、恋はあっという間に現実になる。
恋愛は、案外こういうところで死ぬ。
しかもやっかいなのは、
自分のだらしなさは、わりと快適だということだ。
脱いだ服をそのへんに置いていても、
あとで着るつもりだったのよ、と思う。
洗い物を後回しにしても、今はその気分じゃないだけ、で済ませる。
でも、これが相手になると急にダメになる。
なんで片づけないの。
なんで今やらないの。
なんでそれをそこに置くの。
自分には甘いくせに、相手には厳しい。
書いていて嫌な女だなと思うけど、たぶん本当だからしょうがない。
要するに私は、自分のだらしなさは「快適」で、
相手のだらしなさは「ストレス」なのだ。
だから私は、好きでいるために暮らしを分けたい。
こう書くと夢がない。
でも、生活にはもう失敗したくない。
好き。
でも別々に帰りたい。
今の私には、それがいちばんしっくりくる。
そして、一番平和だ。
