誰も傷つけない笑い(笑)

 主にYouTubeのお笑い動画のコメ欄でちょくちょく見かけられる言葉。
「誰も傷つけない笑いだから好き。」
 このコメントを目にするたび、ぼくは傷つく。正確には、虫酸が走る。もっといえば、腹が立つ。〈誰も傷つけない笑い〉なんてあるわけねぇだろ、と。

 なるたけ人を傷つけない笑い、優しい笑い、マイルドな笑いが好きと仰るなら判る。鈍感すぎて数々の恋を一夜限りの仮初に終わらせてきたぼくでも、先鋭的な笑いに傷つくことはある。けれども、誰も傷つけない笑いなど絶対にありえない。断言する。絶対にありえない。

 一発ギャグならば、或いは誰も傷つけないと思うかもしれない。いや、さにあらず。

 「コマネチ!」はいまや本人公認だが、初めて世界的に認知された当時、コマネチはまだ未成年だった。当然はるか東の国で笑いのネタにされているとは、彼女含めたルーマニア人たちは夢想だにしなかっただろう。たとえば、競泳の岩崎恭子の水着姿がルーマニアで「イワサキ!」というギャグにされているとしたら、彼女や我々はどう思うだろう。全員が全員悦びはしないはずだ。いずれも今日ならば一部から未成年の性搾取とも捉えられ、国際的問題になりかねない。

 ザ・ぼんちの「メッシ!」だって、ぼくの大好きなギャグ、というか漫才の科白だが、本人やサッカーファンはどう感じるものか。

 伝説の深夜番組・内Pの番組最後を彩ったレッド吉田の名作ギャグ「ワシントン!」。その脈略のなさ、語気の力強さは、中一のぼくをして大いに笑わしめたが、考えてもみてほしい。アメリカ人からしたら、建国の父の名が無意味に絶叫され、属国もとい同盟国の日本人に笑われているのだ。多くの寛容な米国人はともかく、ガチガチの福音派などは、下手したら実力行使をも辞さないかもしれない。我々だって、「ジンジンジンジン神武天皇!」とか、「イートーマキマキ伊藤博文!」なんて言われたらーーあれ、あんまり誰も傷つけないかもしれない。でもきっと極右はブチギレるでしょ?

 ホリケンの「パラグライダー!」も、パラグライダー死亡事故の遺族には見るに耐えないだろう。

 とにかく、〈誰も傷つけない笑い〉などありえない。一応断っておくが、ぼくはビートたけし、ザ・ぼんち、レッド吉田、ホリケンが好きである。彼らを批難するつもりは陰毛の先ほどもない。

 長寿番組『笑点』は、穏やかな笑いの代表格かのように看做されがちだが、いやいやとんでもない。師匠を馬呼ばわり、最先輩を寄って集って「つまらない」と扱き下ろす、老人に向かって「ハゲ」「ジジイ」「死にかけ」「死亡」、その令夫人に対して「小汚ぇババア」と罵る。ましてや日曜夕方五時四十分頃から(一部地域除く)。かつては扇子で頭をぴっぱたく、座布団の上から突き墜とすなど、物理攻撃も激しかった。ぼくが〈子作り〉なる言葉を知ったのは、ほかならぬ笑点だった。むしろ先鋭そのものの番組である。

 『笑点』には、笑うに笑えない場面もままある。回答者時代の歌丸や六代目円楽がよくやっていた社会批判は、きちんと捻りが効いていればまだしも、ただ直球で言われるだけではつまらない。たとえば、六代目の「鯨料理にグリンピースを添える。」なんてのは洒落てるなぁと感心したものだったが、時期を問わず出てくる「たらい回しのお役所仕事。」「国民の声を聞け。」「国会議員は眠ってる。」みたいな回答は、早熟な小学生並みの批評にすぎない。観客の庶民感情に訴えるごくお手軽な媚と表してもいい。笑点を観て傷ついた公務員は少なくないのではないかと思う。

 一番酷かったのは、詳細は伏せるが、拉致被害者を揶揄するような回答である。同時期にめちゃイケでも似たような笑いが見受けられた。無辜の一般人、まして非近代的非文明国の国家犯罪の被害者を笑いの俎上に載せるなど、言語道断である。

 ーーとか何とか言っても、ぼくは『笑点』が好きである。Huluの配信含め、いまも毎回欠かさず観ている唯一の番組である。回答者の色がそれぞれで、供給量も膨大だから、その中に笑えない笑いもあるのはしかたない。ぼくがケラケラ笑った回答で、いたく傷ついたり、不愉快になった視聴者もいよう。

 『笑点』の出演者の本業であるところの落語も、なかなか過激である。滑稽噺でも、『らくだ』は人の死を心底悦ぶ噺だし、『黄金餅』など遺体損壊が目的の不道徳極まる噺である。比較的穏当な内容の『粗忽長屋』も、行き倒れの素性が結局判らずじまいの不気味さがある。生の高座は、本篇にも枕にも門外不出の毒が鏤められていたりする。やや時代が遡るが、談志家元の枕なんて偏見だらけ(しかし卓見が多い)である。

 改めて誤解なきように申し上げるが、右に実名を出した芸人は、全員好きだからこそ言及している。

 非古典の過激なネタで笑ったのは、ネット番組で鳥居みゆきが、当時流行っていた「ひぐちカッター」(いや、流行ってはいないか)を真似、左手首を切る仕草で「鳥居カッター!」と叫んだやつである。それこそモノホンの〈笑ってはいけない笑い〉だけど、ぼくは腹を抱えて笑った。高三のぼくは、通信制高校の同級生の前で鳥居カッターを披露し、大変な顰蹙を買ったものだった。

 久方ぶりに石橋貴明が保毛尾田保毛男に扮したとき、世間は炎上一色となった。ホモという言葉自体が言葉狩りされている時代には、当然そぐわなかっただろう。性的少数者の団体も抗議の声を上げた。少なくともぼくの周囲のゲイで怒ったり落ちこんだりしている者が見受けられなかったのは、単にぼくの交友関係の狭さのせいだろうけど、主にプンプンと憤っていたのは、ゲイでも何でもない、良心的リベラルを自負しているような層だったと記憶する。荻◯◯キとか。当事者じゃないのに批判の声を上げる問題意識、博愛精神は素晴らしいと思うが、要は、〈自分以外の誰かを傷つけるに決まっている笑い〉をお節介にも規定し、騒いでいたのだ(先述のとおり、ぼくも充分お節介側に該当するわけだが)。そもそもが、保毛尾田保毛男を観て傷ついた過去のある人は、石橋の出演する番組をまず観ないだろう。彼らは再び傷つかずに済んだかもしれないのである。それが「差別だー!」と大騒ぎされたせいで、古傷を痛めた可能性は否めない。勇ましく「誰も傷つけてはならない!」と絶叫する連中には、こういう観点がすっぽり抜け落ちている。己自身が焼夷弾となって被害を拡大している自覚がまるでない。同情される屈辱というものにも配慮がない。

 無論、この一件が契機となって、性的少数者がより過ごしやすい世の中になった効用は積極的に評価したい。何事にも産みの苦しみはつきものである。しかしながら結局は、「ゲイは保毛尾田保毛男に傷つく」という、サンプルもエビデンスも不確かな価値観が固定されてしまったのも間違いない。ぼくのように、保毛尾田保毛男で笑うホモ(ぼくはゲイよりもホモという言葉のほうが好きだし、しっくりくる。だからって、不用意にゲイをホモ呼ばわりしちゃ駄目ですわよ。キーッ! ってなっちゃう人もいるんだから)もいるという事例は、恐らく未来永劫埋もれたままだろう。多様性を突きつめれば画一的になるという、ずいぶん皮肉な話である。なお、かかる騒動について、ミッツ・マングローブは非常に冷静な反応を示しており、彼の見識には唸らされた。

 ちなみに、昨今では前時代のパワハラ的な笑いの権化として批難されつつあるとんねるずだが、タクシードライバーというコントは傑作である。

 〈誰も傷つけない笑い〉があると信じている手合が本当に望んでいるのは、〈自分やその周囲だけが傷つかない笑い〉に過ぎない。彼奴等は人が傷つくことに敏感なようでいて鈍感なのである。実際に敏感ならば、〈誰も傷つけない笑い〉などありえないと気づくはずである。もはや〈自分を傷つける笑い〉にさえ鈍感なのだ。いかに自分の掌が白くて汚れていないかを誇示したくしてウズウズするのに忙しく、ぼくごとき捻くれ者の冷笑をも予感できないのだ。

 かくいうぼくは、人を笑わせられたら嬉しいが、人から笑われるのには耐えられない自尊心の塊である。ただし、限定された空間に於いて、恥辱的状況に置かれ、特定の男から冷笑される分には吝かでない。いや、むしろ笑われたい! もっとぼくを見て! もっと蔑んだ目で! 嗤って! 嗤って!

 以上、ぼくの性癖の報告でした。 

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