【中編小説】金色の猫 第10話(全33話)#創作大賞2024
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「だからお風呂はやめてシャワーだけにしなって言ったのに」
青いソファにもたれて浅い呼吸を繰り返す俺を見下ろし、神田琴乃はため息をつく。
火照った身体によく冷えたスポーツ飲料が染みわたり、たまらず声を漏らした。顎を伝う甘い汁を、首にかけたタオルで拭う。
「ああ、でも、生きてるって感じがする……」
「はあ?」琴乃の呆れ顔が視界で見切れる。彼女は俺の額と首筋に冷却シートを貼ってくれた。
頭に溜まった熱が吸収されていくのを感じながら、ソファの背もたれに後頭部をゆだねる。頬にペットボトルのくびれを沿わせ、「あああ、きもちいいい……」と目を瞑った。「もう」琴乃の憤慨する声が聞こえた。
それにしてもひさしぶりの風呂は最高だった。日雇い派遣のアルバイトが入っている前日などはネットカフェのシャワーを利用していたが、なにしろ狭いし利用時間が限られている。一日入っていないだけならまだしも、数週間の汚れを十五分で洗い流すのは至難の業だ。毎回洗い残しがあってすっきりしないまま、シャワールームを後にしていた。
琴乃の浴室はいい。ふつうより身体の大きな俺でも快適に使えるじゅうぶんな広さ。ほどよい水圧のシャワー。泡立ちのいいボディーソープとシャンプー。トリートメントまである……! こびりついた汚れを丹念に落とし、浴槽に肩まで浸かって冷えた身体をあたためた。結果、のぼせた。
俺は古書店の前で意識を失っていたところを、助けてくれた女の家にいる。
タクシーの運転手に行き先を伝えようとした俺を制し、彼女は「小竹向原駅にお願いします」と言った。タクシーで彼女について、わずかな情報を得た。名を神田琴乃といい、新宿にある高級時計店で働いているらしい。そこは、先輩ホストとよく行った有名店だった。「会ってたかもな」興奮気味に食いついたら、半年前までべつの店にいたと返された。
今朝はどうして池袋にいたのか尋ねたら、気まずそうにはぐらかされてしまった。スーツのわりに髪と化粧が適当だから、仕事終わりにだれかと飲んでいて朝帰りといったところか。「へえ」薄笑いを浮かべて彼女の顔を覗き込んだら、「なに」厳しく睨まれた。
キッチンからこうばしい出汁醤油の匂いと、野菜を刻む小気味いい音が聞こえる。大雑把に後ろで束ねた茶髪の長い髪。大きめの黒いパーカーから覗くかたちのいい脚。白いネイルが施された細く長い指。それらがすばやく動いてキッチンカウンターへ置かれた缶チューハイに触れる。スリッパの落ちる音がして、そこから真っ赤なペディキュアが現れた。爪先でふくらはぎを掻きながら酒を飲む後ろ姿は、俺に昔の母親を思い起させた。
「もう、食べられそう?」
振り向きざまの横顔に心臓が跳ね、狼狽えながら視線を逸らした。それが妙に気恥ずかしく、誤魔化すようにテーブルの上にあった体温計を手にする。
「え、なに、どっち。食べられるの?」
「え、ああ、はい。食べられます」同時に、額に翳した体温計のアラーム音が鳴った。
「何度?」琴乃は棚の扉を開け、小鍋を出す。
「三十七度四分……です」
「よかった、微熱ね」
にわかに速くなった鼓動が、耳の奥へ鳴り響いている。ふたたび呼吸が浅くなり、こころなしか身体も火照っているような気がした。「なんで敬語」琴乃の笑う声を、騒騒しい心音が掻き消す。ほんとうに微熱だろうかと、体温計をたしかめた。
汁が見えないほどたっぷりの具材とコシの強そうなうどんから、熱熱の湯気が昇っている。けんちん汁へうどんが入っているそれを、琴乃は当たり前のように「けんちん鍋焼きうどん」と呼んだ。けんちん汁と鍋焼きうどんは知っているが、はじめて食べると言ったら、大きな目が鍋へ落ちるほど見開いた。
琴乃の実家では熱が下がって食欲が出てきたら、母親が決まってこれを作ってくれるそうだ。「ああ、お母さんのが食べたくなっちゃった」目を細める琴乃の横顔を見て、彼女はきっと過不足なく愛を注がれて育ったに違いないと思った。
息を吹きかけながら食べる飯などひさしぶりで、舌の火傷すらうれしかった。よく味の染みた木綿豆腐、口内で溶ける大根、牛蒡のこうばしさ、葱の甘み、噛むほどに旨味が溢れる鶏肉、うどんの滑らかな喉越し、苦手な人参の青臭さですら有り難くおもえた。
汁を飛ばしながら勢いよく食べる俺を見て、「無人島から帰ってきた人みたい」琴乃は笑った。そうかもな、そう返したつもりが、「なに言っているかわからない」とまた笑われてしまった。
小鍋に残った汁まですべて飲み干し、満ち足りたおもいでソファへ寄りかかる。やがてキッチンから流し台に跳ね返る水音と、食器のぶつかり合う音が聞こえてくる。それがやけに心地よくて、俺は目を閉じて彼女の奏でる生活音に耳を傾けた。
呼ぶ声に振り返ると、琴乃が生成りの間仕切りカーテンの向こうから顔を出していた。お風呂へ入ってくるから、ここのベッドで先に休んでいてと言う。ソファでじゅうぶんだと答えたが、琴乃はなかなか譲らない。まだ熱が下がっていないのだからゆっくり休むべきだし、そもそも君の大きな身体がこの小さなソファに収まるわけがないと言い張った。もはや気遣っているのか無遠慮なのかわからない。やれやれと苦笑いで立ち上がり、彼女のもとへ向かった。
分厚いマットレスが疲れた身体をやわらかに受け止めてくれる。ふかふかの羽毛布団を肩まで引き上げたとき、甘く瑞瑞しい香りが鼻先を掠めた。俺が布団に包まるのを琴乃は満足げに見届け、「おやすみ」とカーテンを閉めた。
わずかに開いたその隙間から彼女の後ろ姿を眺めながら、俺は小さな子どものような気持ちでいた。ふとふくらはぎのあたりに熱を感じ、すぐそこに湯たんぽがあるのに気づく。ぬくもりが両脚からじんわりと全身へ行きわたり、目の奥まで湿った熱を帯びたように感じた。
どうして彼女はここまでしてくれるのだろう。琴乃が何かしてくれるたびに降り積もるなぜが、微睡の中でゆっくり渦巻いている。俺を見下ろす間接照明の淡い光に、いつか爺さんと見た朧月が重なる。俺は思考の水底を漂いながら、しずかに眠りについた。
