見出し画像

【中編小説】金色の猫 第9話(全33話)#創作大賞2024

■物語を最初から読む

前話 | マガジン | 次話

読了目安時間:約6分(約3,000字)

 車輪と金属の擦れるような音、たくさんの人の話し声と忙しない足音、等間隔に刻まれる電子音……入り乱れる雑音に張りついた瞼をこじ開けると、真っ白い天井とカーテンが眼に入った。同時に男がはげしく嗚咽する声も耳に入り、俺は思わず顔を顰める。
 やがてシーツと布団の硬い手触りと鼻腔を刺激する消毒液の匂いで、ここが病院だと気づいた。左腕に繋がれたチューブの先を目で追えば、点滴バッグの中身はもう空だった。
 カーテンの隙間から白い影が見えたので声をかけようとしたが、喉の奥からわずかに音が漏れただけだった。ナースコールを探そうと身体を捩ったとき、カーテンが開いて恰幅のいい年配の看護師が顔を出した。
「あ、渋沢さあん、起きられましたねえ。ご気分いかがですかあ」淀みのない高音で歌うように問いかける。
「気分……あ、え、まあ、大丈夫……す」
「そしたら今、先生呼びますからねえ」
 看護師が手際よく点滴を片付けているようすを目で追いながら、俺はさっきまで腕の中にいたやわらかくて温かな存在を思い出していた。
「あ、あの、猫って、猫ってどこに」
 勢いよくベッドから起き上がり、肉厚な背中に早口で尋ねた。看護師がカートへ手をかけたまま、怪訝な顔でこちらを振り返る。「猫です。黒い、ぶちのある、猫」そう付け加えると、看護師はしばらく考えてこう言った。
「それなら、先ほどいらっしゃった女性の方がご存じじゃないかしら。彼女はお買い物に出ていらっしゃいますけれど……帰ったら聞いてみるといいですよ」
「付き添いって」言いかけたところで、カーテンがぴしゃりと閉まった。
 ふと横を見ると、丸椅子の上に青いキャップと薄汚れたコートが置いてある。手を伸ばしてそっとコートの下を覗いたが、もちろん猫はいない。ポケットから夏目漱石の『三四郎』と金色の猫が落ちる。ベッドから身を乗り出して拾い上げ、適当な頁にそれを挟んだ。
 ほどなくしてカーテンが開き、女の医師が入ってきた。刈り上げた襟足に思わず目を奪われる。どうやら感染症の類ではないらしく、ひとまず安心したものの、それよりも猫の行方が気になってならなかった。
 べつの若い看護師へ尋ねると、どうやらその「付き添いでいらっしゃった女性」は廊下にいるらしい。どういう女なのか尋ねたら、なぜか戸惑ったようすだった。病室から出てすぐの廊下に白い長椅子があり、そこへ女が三人並んでいる。思わぬ三択に頭を抱えていたら、やわらかな低い声に名を呼ばれた。
 声のしたほうを振り向けば、長い髪をひとつに束ねた背の高い女と目が合った。女は暗い赤のパンツスーツに、白茶のロングコートを羽織っている。親し気に名を呼ぶので知り合いかと思ったが、顔にまったく見覚えがない。
「あの……」口を開いたら、たちまち彼女に遮られた。「もう大丈夫なの? お医者さんはなんて? 熱は?」
 ひとつひとつ答えていたら、彼女がだれなのか知る前に出入口へ着いた。
 彼女は「お買い物」で、俺に靴を用意してくれていた。真っ新な青いスニーカーを紙袋から出し、俺が履いていたスリッパを愛想よく受付へ返す。足を通して紐を結べば、おろしたてのスニーカー特有の心地がした。かぶっていた青いキャップとおそろいの色にしたそうだ。どうして見ず知らずの俺にそこまでしてくれるのだろう。びしょ濡れの古いスニーカーを箱にしまう彫りの深い目元を見ながら、俺は首を傾げた。

✴︎

「保険証ないと医療費ってこんなにするんだね、びっくりーー」
 病院の駐車場を抜けて通りへ出ると、前を行く彼女が紙を見ながら笑った。そこでようやく金を払っていないのに気づく。しかしそれを請求されたところで、俺のポケットには小銭しかない。
「あ、ごめん、そういうんじゃなくて、ただの感想っていうか……気にしないで、ごめん」
 ちっとも悪くないのに謝る彼女を見てたちまちみじめになり、礼を言うべきなのに俯いてしまった。彼女は気に留めないようすで、紙をトートバッグへ滑り込ませる。「ここから駅までどれくらいだろう」のんびりとした調子で言い、スマートフォンを出した。
「まだ熱もあるから、歩くのしんどいでしょう。薬もらったらタクシー呼ぼうか」
 こちらを振り返ったとき、彼女のパンプスが側溝を滑る。大きく崩れた彼女の身体を後ろから抱き留めると、煙草と香水の混じった気怠い匂いがした。
「……なんで、そこまでしてくれるんすか」
 彼女から手を離して水溜まりに落ちたバッグを拾い、掌で水気を拭った。彼女が手を伸ばしたが、俺は首を横に振る。「けっこう重いな。なに入ってんだ」バッグを片手へぶら下げて笑った。
「君がねこちゃんを抱いてたから、かな」
「あ、そう、猫は!」勢いよく彼女へ詰め寄る。
「君を救急車に乗せてから、私がすぐに病院へ連れて行った。安心して」彼女の目尻に薄っすら皺が刻まれた。
 獣医師によれば、寒さと空腹で衰弱しているものの病気はないらしい。少しずつではあるが自力で食事もできるため、三日ほど入院すれば退院できるそうだ。「ただ、ひとつ君に謝らなければいけない……」彼女は瞳へ影を落とす。獣医師から引き取る覚悟を訊ねられ、思わずあると答えてしまったそうだ。
「だから退院したら、私の家で暮らしてもらうかも。ごめん」
「いいや、きっとそれがいいよ」
 どうせ俺のところにいても野良猫のままだ。なんといっても俺にも家がないのだから。あたたかな家、じゅうぶんな飯、よかったな、猫。胸のうちで呼びかけながら、少しずつ表情がこわばっていくのがわかった。彼女にそれを悟られないよう、俺はできるだけ視線を上げて歩いた。ビルの間から覗く青空に、はぐれた楕円形の雲が寂しげに浮かんでいた。
「あ、そうそう、いちおう言っておくとね、私は君のパートナーっていう設定だから、いい?」
 薬局の前へ着くと、彼女は凛凛しい目で俺を見上げた。
「え、なんで」
「救急車に乗せるのにそうしたから」
「ああ」彼女の言動が不自然だったのはそのせいか。「え、でもなんで」
「なんとなく……そうなった」
 ホームレスの受入れを拒否する病院があると何かで言っていたような気がして、咄嗟にパートナーだと嘘を吐いてしまったらしい。たしかに、縁もゆかりもない人の医療費を代わりに支払うと言われても、にわかには信じがたい。俺ですら未だに受け止めきれないのだから、他人だとわかればどういう反応をされるかわからない。俺は甘んじて設定を受け入れた。
 薬局で会計を目にして驚いた。通常の医療費の倍以上する額を、彼女は躊躇なく支払ってくれた。
 ナンバー入りしていない俺のようなホストにも、高い金を払ってくれる女はちらほらいた。当たり前のようにそれを享受していたが、ホストクラブが閉店してからは違う。ちやほやしてくれた数少ない女はたちどころにいなくなり、太かった風俗嬢のちなつでさえも督促状の山を蹴散らして去った。
 ちなつは歌舞伎町に恋をして、色情狂と憂鬱を纏い、きらびやかに淀んだ夜へ耽溺する日日を愛していた。彼女にとって俺はただの一銘柄にすぎず、ふだがなくなればたちまち塵芥同然になってしまう。すっからかんになってのこったのは、そういう取るに足らない自分だった。
 そして今、渋沢桂一しぶさわけいいちであることすらままならないというのに、この女は何を求めて俺に金を使うのだろう。
「タクシー呼んだから帰ろっか」
 駐車場に停まった黒いセダンを指す彼女を見て、また熱が上がってきたような気がした。

前話 | マガジン | 次話

■物語を最初から読む

いいなと思ったら応援しよう!