【中編小説】金色の猫 第8話(全33話)#創作大賞2024
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水気の多い雪を踏みしめながら、いつもの公園へ向かう。スニーカーの底から冷たい雪水が染みて、薄くなった靴下を濡らした。踵の高いパンプスを履いた朝帰りの女が、反対の歩道をこわごわ歩いている。ふいにあの黒ぶちの猫が心配になり、俺は足を速めた。後ろのほうで情けない叫び声がして、振り返ると女が尻餅をついていた。
公園の入口に列をなした背の高い落葉樹も、真っ白に染まっていた。陽光にあたためられて溶けだした雪が、木枝から音を立てて落ちる。水滴が肩を濡らすのも厭わず、真っ直ぐ池の前にあるベンチを目指した。
早朝の公園は相変わらず閑散としている。白い先客が犇めき合うベンチの上に、俺は墨汁のような染みを見つけた。降り積もった懼れが心臓へ落ち、胸に重たい音がひびく。すぐさまベンチへ駆け寄り、白黒のやわらかな命を抱き上げた。
「よかった……」
まだそれはあたたかく、痩せた腹がしずかに上下していた。「ごめんな……」そこに鼻を摺り寄せ、声を潤ませた。猫はきっと俺をさがしにきたのだ。生まれてはじめての雪。墨染の空から冷たい銀の粒が振りそそぎ、見慣れた街がみるみる白に掻き消されていく。そのようすを一匹で凍えながら見ていたに違いない。
掌でベンチの上を払い、そこへ腰かけた。柳六花のブランケットを広げ、小さな猫をそっと包み込む。やさしく背中を擦ってやったら、腕の中で心地よさそうに目を細めた。掌へ当たる硬い背骨に、俺は爺さんのそれをおもう。
「大丈夫、大丈夫だからな」指先が震える。
スニーカーに溜まった雪水が足を冷やし、晴れているのにものすごく寒い。意識が白く霞んでいくのを、奥歯を強く噛み締めて耐えた。小さな猫が苦しそうに頭を上げ、俺の親指をぺろりと舐めた。ざらりとした愛しい感触。懸命に呼吸を続ける命の震えを全身で受け止めながら、俺はかじかむ両足に力を籠めて立ち上がった。
✴︎
透きとおった冬晴れの空の下、あたたかな陽射しが俺の絶望を照らしている。猫を動物病院へ連れて行くにしても、ポケットにはわずかな小銭しかない。俺にできないならだれかに頼るほかなく、思い当たったのがこの古書店の店主だった。店の開店時間は午前九時だが、店主は大抵七時から八時くらいまでにはいる。きっと間もなくやって来るだろうと考えていた。
しかしようやく店前へ辿り着いたら、固く閉ざされたシャッターに一枚の貼り紙が出されていた。雪水で滲んだ「年末年始休業のお知らせ」には「誠に勝手ながら、左記の日程を休業させていただきます」として、十二月二十九日から一月七日までが記されていた。勢いよくシャッターへもたれ、白い息を吐いた。金属が震える鈍い音が、しずかな朝の路地裏に響き渡った。
いったいどうしたらいいんだろう。店前のわずかな段差に腰をかけ、虚空を仰いだ。もうすっかり陽が昇ったというのに寒気が収まらず、気を抜くとがたがた震えてしまう。目鼻の奥がやけに熱い。そのせいで頭もぼんやりするし、泣きたくないのに涙も出そうになる。小さくため息をつくと、湿った舌が親指に触れた。猫だってやっと息をしているというのに、俺を心配してくれているのだろうか。
ふと手元にあったコンビニのカップを手にする。ここへ来る途中で、コンビニに寄り、お湯をもらったのを思い出した。それをお椀型にした掌へ乗せ、猫の鼻先へ差し出す。猫はそれをひとなめ、ふたなめしたあと、力尽きてブランケットへ沈んでしまった。掌に残った水を払い、痩せ細った背中を撫でる。しだいに弱くなる猫の呼吸音を聞きながら、悔しくてたまらなかった。
「ねえ、ちょっと君、大丈夫?」
白く濁った意識の彼方から煙草と香水の混じった気怠い匂いと、毛布のような低い声がする。それらは俺にたくましく働いていたころの母親を想起させた。——え……ねこ……? ——母親が食卓で缶ビールを片手に、棒状のチーズを食べている。割いて食べるのだと教えたら、爪の間に入るからと笑う。——お兄さん、このねこちゃん、君の? ——母親と買い物をしていると、よく恋人同士に間違えられた。「息子です」そう答えるときの、どこか誇らしげな横顔が恥ずかしかった。——って君、すごい熱! ねえ、お兄さん、ねえ! しっかり! ——額に添えられた母親の掌はひんやりと冷たくて、指先から甘い煙草の匂いがした。
