【中編小説】金色の猫 第7話(全33話)#創作大賞2024
読了目安時間:約4分(約2,200字)
喉がからからで腹も減っていた。駅構内のコンビニへ入ると、揚げ物のこうばしい匂いが食欲を誘う。しかし目的はあくまで八十四円の強炭酸水だ。誘惑に負けないようできるだけ迅速にそれを手にしてレジを通過した。
コンビニの脇にしゃがんでペットボトルの蓋を開ける。わずかに指先へ飛んだ水滴をコートで拭った。冷たい炭酸水が空っぽの内臓を刺激し、俺は大きく身震いする。ポケットのカイロはもうすっかり冷え切っていた。
青いキャップを脱いで裏返し、鍔の裏に流麗な筆致で書かれている〈須東零四風〉の文字を見つめる。柳六花は爺さん、すなわちよしさんが小説家だったと知り、少し驚いたあとで伏し目がちにほほ笑んだ。
「よしさん、わたしたちともぜんぜんお話してくださらなくって。大人しい方だとおもっていたのですが……桂一さんの前ではちがったんですね」
「いやあ、どうかな、俺は爺さんの名前も知らなかったんすよ」
「よしさんにとってそれはさほど重要ではなかったということでしょう」
大学生なら俺と変わらない年齢のはずだが、ずいぶん大人びた口調の子だと思った。大人びているというよりもっと、それこそ夏目漱石の時代からタイムスリップしてきたような感じだ。
爺さんが大事にしていたのは、やはりこの〈須東零四風〉なのだろうか。青いキャップを頭に乗せ、その上からフードを目深にかぶると、俺は突き当りへ向かって歩き出した。
しかし、そこに爺さんの姿はなかった。他にだれか寝泊りしているような形跡もない。突き当りの部分だけ壁の色が違うため、人気のなさが際立って見えた。なにもない白い床を見つめながら、ゆっくりと爺さんがいたであろう場所を歩いた。
ここでは都合がわるくなって他へ移ったのだろうか。そう考えようと努力してみたが、振り払われた右手に痩せた骨の感触が残っている。右手からペットボトルが滑り落ち、乾いた音を立てた。
ふと白い床の隅でなにかが光ったような気がした。しゃがみこんで目を凝らすと、それは金色の小さな猫だった。近寄ってそっと摘まみ上げる。
「すっげ、よくできてんなあ」感心しながら、金色の猫を掌に乗せた。
よく見ると、折り紙ではなく包紙でできている。それはいつか爺さんが俺にくれたチョコレート菓子の色そっくりだった。同時に、猫を見つけたあたりの床だけ妙に綺麗なことに気がついた。はっとして床へ膝をつき、そこにくっきりと残った段ボールの跡を指先でなぞる。
「爺さん……」
鳩尾に重く沈んでいた小さな若しがたちまち膨らみ、全身を駆け巡っていくのがわかった。身体が大きく脈打つたび少しずつ輪郭がほつれ、やがてちりぢりになって崩れ落ちた。内臓から溢れ出す烈しい濁流にのまれながら、冷たい底に鼻先をこすりつけて震える。しだいに感覚が失われていく指先を、尖ったふたつの耳がちくりと刺した。家を失っても、職を失っても、母が飛んだ朝も、父親が家を出ていった十四歳の冬も、おぼろにすりぬけていったのに、金色の猫だけが掌へのこった。
✴︎
俺は大きな渓谷へ架かる橋の中央に立っていた。眼前にはたったいま神が拵えたような美しい星空が広がっており、思わず感声を上げる。
「ねえ、これ、ほんもの?」唇から漏れた声の幼さに、自分が子どもだと気づく。
「ばか、ほんものに決まってるだろ」
小さな俺の手を握る大きくてあたたかな手。顔はよく見えないが、父親だと思っている人が答えた。
艶やかな濃紺の夜空で、幾千もの星ぼしが淡い光を纏って揺れている。俺はひときわ美しい金色の星を指し、父親らしき人へ懸命に何かを伝えようとした。どれほど声を張り上げても、父親はそしらぬ顔で空を見上げている。
ふいに金色の星が大きく震え、みるみる膨れ上がったかと思えば、勢いよくこちらを目がけて落ちてきた。早くなる鼓動、荒くなる息遣い……逃げようとしてもがくも思うように身体が動かず、ただ怯えて待つしかなかった。
やがてそれは鼻先で水風船のように音を立てて破裂し、美しい黄金の粒を撒き散らした。すぐさまそのひと欠片を小さな手で掴んだ。降りそそぐやわらかな光の中へ父親らしき人のかぶる青いキャップを見た気がした。
「爺さん?」
目を覚ますと、駅構内の無機質な壁が目に入った。星の欠片を掴んだはずの右手には、小さな金色の猫が握られている。まるで夢の続きを見ているような浮游感があった。
硬い床の上に体育座りのようなかたちで寝ていたせいで尾骶骨が痛い。唸りながら尻を浮かせて、足元にまるまった灰色のブランケットに気づいた。手に取って広げてみれば、清潔な柔軟剤が香った。端に猫の顔がついている(のちにわかったことだが、この猫の顔にブランケットが収納できるようになっているらしい)。タグに滲んだサインペンの文字を見つけ、ふと頬が緩んだ。
「やなぎ……りっか……」
小さなブランケットを丁寧に畳み、ポケットにあった皺だらけのビニル袋へ入れた。微かに炭酸が残る水を飲み干し、潰した空のペットボトルも袋へ詰め込む。膨らんだそれを片手に持ち、俺はゆっくりと立ち上がった。滞っていた血液が体内を一気に駆け巡り、にわかに目の前が灰色になった。しばらく瞼を閉じたあと、おもむろに足を踏み出す。
濡れた階段を上がって地上へ出ると、見慣れた街が銀色にかがやいていた。どうやら昨夜、雪が降ったらしい。高層ビルの狭間から昇る朝陽が、真っ白な雪へおだやかに降りそそいでいる。まぶしい光に包まれた世界はしんとしずかで、とても美しかった。
