【中編小説】金色の猫 第6話(全33話)#創作大賞2024
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《あなたたちはどう思うか、ここに百匹の羊をもっている人がいて、そのうちの一匹が群れをはなれ去ったら、九十九匹を山において、いなくなったのをさがしに行かないだろうか? そして、もしそれを見つけたら、まことに私はいう、迷わなかった九十九匹よりも、この一匹のことのほうを喜ぶだろう。》㈠
店主から十五円——ほんとうは五百円だったのだが須東零四風の本が用意できなかったからとまけてくれた——で買った『三四郎』の巻末にある
「迷える子」㈡の脚注を眺めながら、なんとなく爺さんの寝床がある駅のほうへ向かって歩いている。
人の多い時間帯に駅周辺へ行くときは少し注意深くなる。地元(埼玉県南部)の知り合いやホスト仲間に顔を指されるのがこわいからだ。青いキャップの上からフードを目深にかぶり、背中をまるめて俯きかげんで歩く。もっとも長髪に髭を生やした不潔な男を見て、昔の知り合いが俺とわかるか微妙なところではあるが。
それにしても、と考える。
〈ストレイ・シープ〉をもじって〈須東零四風〉とは無理矢理すぎやしないか。しかしそれを古書店の店主に伝えたら、〈江戸川乱歩〉という小説家も〈エドガー・アラン・ポー〉という人の名を基にしているし、〈二葉亭四迷〉に関しては「くたばってしめえ」と自身を罵る言葉だという。もしまたホストをやるなら、そういう風に源氏名を決めるのもおもしろいかもしれない。
「ねえーースタバでいいーー?」
溌剌とした声のするほうへ視線をやると、二つ結びの女子高生がこちらを振り返って叫んでいる。目前に仲良く並んだふたつのつむじが「いいーー!」と声を合わせた。少女たちはチェック柄のスカートから、素肌を惜しみなく露出している。寒くないのだろうか。高層ビルの合間から覗く空はこんなにも白く濁っているというのに。
駅前の交差点へ近づくにつれ、人を避けて歩くのが難しくなってきた。俺はコートのポケットに文庫本を仕舞い、そこへ両手を突っ込んだ。店主からもらったカイロのぬくもりがわずかに残っている。
「ねえ、後ろ歩いていたあの人、ちょっとイケメンじゃなかった」
二つ結びの少女に耳打ちされ、ふたりが代わる代わるこちらを見るのがわかる。
「え、むり、なんか汚くない?」
「汚いとか失礼すぎ」
身を寄せ合ってくすくす笑う三人を足早に追い越し、点滅中の青信号を渡った。「でっか」背後から聞き飽きた台詞が聞こえ、俺は小さく舌打ちをした。
✴︎
すっかり日付の感覚がなくなっていたが、どうやら年が明けたらしい。紅白に彩られたターミナルデパートのショーウィンドウが、二〇二二の幕開けを華華しく祝している。友人や恋人を待つ若者たちや、仕事の電話をするスーツ姿の会社員の間を通って階段を下りると、デパ地下から甘ったるい洋菓子の香りが漂ってきた。上質なコートを着た年配の女が、大きな紙袋を持ってデパートから出てくる。彼女は俺に一瞥をくれると、逃げるように改札口を抜けていってしまった。
瑞瑞しい花で溢れたフラワーショップ、宝くじ売り場の長い行列、清潔で明るいコスメティックストア、カフェテラスで談笑する人びと……仕事、余暇、恋愛、家族、そして、それに伴うありあまるほどの消費。駅構内を寝床にしている人たちは、それらを目の当たりにしながらいったいどのようなおもいで眠りにつくのだろう。想像しただけでも胃のあたりがむかむかして、何度も生唾を飲み込みながら歩いた。
薄汚れた服に身を包んだ小さな男が、JR線の券売機で小銭を漁っている。その姿を反対の通路から捉えると、人波を掻き分けて男のもとへ向かった。この見た目のおかげで人が自然と避けてくれるからスムーズでいい。
「あの、おじさん」
びくっと身体をこわばらせ、男は怯えた目で俺を見た。白目が黄色く淀んでいる。
「あーー、驚かせてすみません、ちょっと人をさがしてて」
「う……」もつれた無精髭から掠れた唸り声が聞こえた。
「おじさん、この、青いキャップかぶってた、爺さん、見覚えないすか」
俺は腰を屈めて男の目を覗き込み、一語一語丁寧に発音した。男は目を細めて青いキャップをしずかに眺めていたが、やがて弱弱しく首を横に振った。
「んん、わかった。ありがとうございます」キャップを浮かせて礼を言い、ポケットの中にあった百円玉を券売機の近くへ置いた。
目鼻立ちのくっきりとした健康的な印象の女が、花を背にして笑っている。メイクアップブランドの色鮮やかな広告の下、等間隔に段ボールが敷かれていた。真ん中は留守らしかったが、残りの二枚には黒い塊が身体をまるめて横になっている。
「あの……すみません」
左端の人に声をかけた。ぴくりともしなかったので心配になって軽く背中を叩くと、長いため息が聞こえた。
「ああん? なんだ」
のろのろと半身を起こし、迷惑そうに顔を顰める。黒いニット帽かぶったその男は券売機にいた男より若く見えた。
「すみません、人をさがしていて」
「……人だと? おれに聞いてもわかるわけねえだろ」
そう投げやりに言ってふたたび寝ようとする男を制止し、青いキャップを取った。
「これ、その人がかぶってたキャップなんです。その人もたぶん、ここらへんで寝てて」
男は大儀そうに身体を起こして片膝を立てて座り、やがて大きく咳払いをすると壁際へ痰を吐き捨てた。爺さんと炊出しで会った話をしたら、男の表情が和らぐのがわかった。
「キャップをかぶった爺さんなんてたくさんいるからなあ。しかもおれたちは顔を合わせてもほとんどしゃべらねえ。無口なやつが多いんだ。だからわりいけど、力にはなれねえかもしんねえな」
考えてみたら俺は爺さんの本名すら知らない。青いキャップに小説家時代の筆名という手がかりだけで、この広いターミナル駅をさがそうなんて無謀なのかもしれない。項垂れていたら、節榑立った分厚い手が俺の肩に置かれた。
「いなくなっちまったならそれまでだろ、ほどほどにしときな」
「いなくなったって?」
透きとおった声に振り返ると、黒縁眼鏡をかけたショートヘアの若い女が腰を屈めてこちらを覗き込んでいた。女は仕立てのいい紺のダッフルコートを纏い、よく磨かれた茶色いローファーを履いている。
「柳ちゃん」
黒いニット帽の男が嬉しそうに顔をほころばせた。右端の人も身体を起こして手を挙げている。「柳ちゃん」と呼ばれた女はコートの裾が床に着くのも厭わず、その場にしゃがみ込んだ。
「きのうもきたのだけれど、タケさんお留守だったから、またきちゃった」
柳ちゃんが男の顔をいたずらっぽく覗き込めば、タケさんと呼ばれた男はキャバ嬢を前にしたおやじよろしく、締まりのない表情を浮かべた。先ほどまで「ほどほどにしときな」と、渇いた瞳で話していた男とはおもえない。
「あ、どうも、はじめまして。わたし近くの大学へ通っている柳六花と申します」
膝の上に両手を揃え、柳六花は俺に向かって丁寧にお辞儀をした。艶やかな黒髪がふっくらとした頬に垂れ、清潔な香りがかろやかに舞った。
「あ、ども、俺は渋沢桂一っていいます」
「へえ、おまえ、渋沢桂一っていうのか。渋沢栄一大先生と一文字違いとはなあ」
「タケさん、人のお名前を笑うのは失礼よ」だらしなく笑うタケを柳六花がたしなめる。
渋沢ナントカ先生っていうのはだれなんだろう。俺は愛想笑いを浮かべながら、ふたりの顔を交互に見比べていた。
「わたしよく炊出しボランティアに参加しているんです。そこで、タケさんや、あちらにいらっしゃるハチさんとお知り合いになって。学校帰り、よくここへ遊びにくるんです」
眼鏡の奥で柔和な垂れ目が三日月型を描いた。笑顔の可愛らしい子だと思った。
「それで……いなくなったっていうのは」
「ああ、はい。今、人を……さがしてて。この、青い……」
青いキャップの鍔へ手をやったら、柳六花が「あっ」と小さく声を上げた。
「わたし、わかるかも」
「えっ、わかるの」
思わず身を乗り出したらつんのめり、彼女の足元へ両手をついた。彼女が息を呑んで身を縮めたのがわかり、謝りながら身体を起こす。
「このキャップの方、たしか、よしさんといいました。いっしょにボランティアに参加していた先輩が、このキャップをめずらしいものだと言っていたので間違いないとおもいます」
「そう、そう、そうです」
つい声が大きくなってしまい、通り過ぎる人たちの訝しげな視線を感じる。俺は声を落として続けた。「これかなりレアなはずだから、なかなかかぶっている人いないはず」
「よしさんが今どこにいるかはわかりませんが……いつもお休みになっていらっしゃるのは」柳六花が教えてくれたのは、もっとも利用者の少ない出入口付近にある、壁に囲まれた物淋しい場所だった。
■参考文献
㈠㈡夏目漱石.三四郎.新潮社,昭和二十三年,p287
