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【中編小説】金色の猫 第5話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約5分(約2,700字)

 ほのかに土の匂いをふくむ、あたたかな陽光が公園内を満たしている。裏起毛のフーディーだけでじゅうぶんな気候だったので、ダウンコートを持参したのはほとんど猫のためであった。しかし今日は見向きもされず、俺の足元でだらりと虚しく広がっている。猫は石畳へ広がった黄金の敷布の上で、気持ちよさそうに眠っていた。
 俺は青いキャップを目深にかぶり、染みだらけの頁に並んだ細かい活字を懸命に追っていた。読んでいるのは言うまでもなく、あの〈須東零四風すとうれいしふう〉の小説だ。
 周辺にある古書店を何軒も巡ったり、時には駅前広場で催される古本市にも出向いたりして、ようやく見つけた一冊だった。その文庫本は、とある古書店の店先で、五十円均一の棚にあった。ところどころ頁は縒れ、カバーすらなく、栞の茶色い紐もすっかり綻びている。それでも俺にとっては眩しく、歓喜のあまり大きな声を出してしまった。

「須東零四風の酔猫歌すいびょうか……か」
 サラダボウルのような茶色い帽子をかぶった店主が、老眼鏡を通してしげしげと表紙を眺める。そしてぱらぱら頁を捲ったあと、本の表紙と俺を交互に見比べた。
「有名すか、須東零四風って」興奮気味に尋ねる。
「いや」店主は十円玉を確かめながら、気のない返事をした。
 店主の反応に少しがっかりはしたものの、爺さんの本を手にしたら自然と顔がほころんだ。訝しげに首を傾げる店主をよそに、鼻歌でも歌いそうな足どりでうきうき店を後にした。

 今のところそれなりにたのしく読めている。中高と遊びほうけてろくに勉強をしてこなかったので、多少読めない漢字や意味のわからない言葉はあったものの、ネットカフェで調べればなんとかなった。どうやら文章を読むのは苦でないらしい。小学生のころ国語が得意だったのを思い出した。
 三日間かけて大体三分の一ほどのところまで読んだが、アルコール依存症で妻や息子に迷惑ばかりかけている二流作曲家の中年男が、ある日とつぜん巨大な化け猫になってしまう話だった。男は化け猫になった己を醜くおもい、地下にあるワインセラーへ籠って作曲を続けるのだが、いかんせん猫なので思うようにいかず、ふたたび酒に溺れていく。気がつけばその憐れな化け猫の姿に、知り合う前の爺さんを重ねていた。
 青いキャップをもらってから九日も経ったが、爺さんは一度もこの公園へ現れていない。幾度も爺さんの寝床がある駅地下へ行ってみようかと考えたものの、そのたびに差し伸べた手を振り払われた感覚がよみがえり、二の足を踏んでしまっていた。
 しかしこうして毎日公園へ足を運び、爺さんを待っているのも事実だ。今日のようなやわらかい陽光が背中をあたためる日も、胸に冷たい風が吹いているような心細さがあった。
 活字から顔を上げれば、猫が大きな欠伸をしている。目一杯開いた口から、尖った小さな歯と薄桃の舌が覗く。ひとしきり眠って腹が減ったのか俺の足元へ擦り寄ってきて、母猫を呼ぶような甘えた声を出した。日雇い派遣のアルバイトがなかなか見つからず、金がないので今日は煮干しで我慢してもらう。
「おまえがいるもんな」
 このごろ少し肉のついてきた尻を撫でると、尻尾の先を揺らして小さく鳴く。俺たちの間を生温い風が通り過ぎていった。

✴︎

 薄陽さす人通りのまばらな路地裏に立ち、店先にある白茶けた棚を覗き込む。俺はふたたび件の古書店へ須東零四風の本を探しに来ていた。
「兄ちゃん、これ」
 赤くなった手の甲にわずかなぬくもりを感じて目を落とすと、古書店の店主が熱を持ったカイロを差し出していた。先日の陽気が嘘のように、東京の街は真冬の寒さに包まれている。俺は白い息を吐きながら、そのあたたかな白い袋を受け取った。かじかむ両手でそっと包み込めば、掌から熱が染みわたる。
「また、あれか……なんだ」
 眉根に深い皺を寄せ、店主は何かを思い出そうとしている。ためしに「須東零四風」の名を揚げたら、顔の前で人差し指を振りながら頻りに頷いた。
「覚えててくれたんすか」おのずと声に喜びが滲んだ。
「兄ちゃん、たっぱもあるし」
「タッパ」
「背が高いだろう」
「ああ」たしかに言うとおり身長は一八七センチある。
「あと、その青い帽子」
 かつて爺さんのものだったそれが俺の印になっていたと知り、むず痒い気持ちになった。
 店主とふたりで店内を隈なく探したが、須東零四風の本は見つからなかった。俺が仕入れたばかりの本が入っている段ボール箱を見終えたころ、帳場の横にかけてある振り子時計が午後三時を知らせた。こうばしい匂いのするほうに目をやると、歪なかたちをした土色の茶碗からやわらかな湯気が上がっていた。
「その、須東なんちゃらが好きなのか」銀縁の丸眼鏡が白く曇る。
「好きっていうか、その、知り合いなんです」
 爪楊枝を持ち上げ、艶やかな薄切りの大根を眺める。べったら漬けだと、店主が教えてくれた。おそるおそる口へ運ぶと、爽やかな甘さが口内を満たす。爺さんと炊出しで知り合ってからこのごろ見かけないというところまで、俺は店主へ大まかに話した。
 帳場机に広げられた雑誌には、雪化粧をした山の写真が見開きいっぱいに載っている。そこへ目を落としたまま、店主はひたすら口を動かしていた。その盛んな咀嚼音に、しばしば俺の声は掻き消された。
「そういや、なんだっけ、古い千円札の人が好きって言ってました」
「伊藤博文かい」
「いや、猫の」
「ああ、漱石か」店主は乾いた笑いを漏らした。
「そんなにいいんすか。その、夏目漱石って」
「俺はどうしても漱石は好きになれない。彼の書いたものはほとんど読んだがな」
 そう言って皿に残った最後の一枚に爪楊枝を刺し、はたと顔を上げた。店主はおもむろに立ち上がり、店頭に並んでいた一冊の文庫本を手に戻ってきた。帳場へ机と本の背表紙のぶつかる鈍い音が響く。そしてふたたび俺の前へ腰を下ろし、黒と赤で彩られたその本をぱらぱらと捲った。
「迷子の英訳を知っていらしって」㈠
 富豪夫人のような口ぶりにしばし戸惑ったが、やがて小説の一節を朗読しているのだと気づく。深く皺の刻まれた指の間から、かろうじて〈漱石〉の文字が見てとれた。
「ストレイ・シープ——解って?」㈡
 そこまで読み終えると、店主はしずかに本を閉じた。
「迷える羊、さがしにいかないのか」
「迷える羊?」
「ストレイ・シープ。須東零四風——あなたの友人だよ」
 店主の言う「友人」が爺さんを指していると気がつくまで少し時間がかかった。舌先でその四文字を転がしてみれば、甘ったるいチョコレート菓子の味がした。鬱陶しくて懐かしいその味にもう一度会いたくてポケットを探る。しかしそこには煮干しの頭しか残っていなかった。

■参考文献

㈠㈡夏目漱石.三四郎.新潮社,昭和二十三年,p124

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