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【中編小説】金色の猫 第4話(全33話)#創作大賞2024

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 公園の入口に並ぶ裸樹の向こう、薄雲に淡い桃色と水色が溶けたやわらかな夕焼け空が広がっている。少しずつ色やかたちを変えながら暮れていく様を眺めながら、俺たちはすっかり冷たくなった飲み物をちびりちびり啜っていた。
「冷たくてもいけるな」おしるこの缶を眺める爺さんを横目に、「あずきバーってのもあるくらいだしな」そう豚汁を啜る。「そっちは……」爺さんが言い終わるのを待たずに、「うまくない」と低い声を漏らした。
 気まぐれに戻ってきた猫が、俺の膝の上でまるくなっている。日が落ちて寒さがよりいっそう厳しくなったが、猫の体温がカイロ代わりになって幾分マシだった。爺さんがこわごわ鼻先へ手を伸ばし、やさしく首筋に触れたら、気持ちよさそうに目を細めた。一か月ほど共に過ごしてはじめてのことだったので、俺たちは目をまるくして顔を見合わせ、声を押しころして笑った。

「あいつは漱石って名だった」
 おしるこの空き缶をしずかに石畳へ置き、爺さんは膝の上で両手を組む。視線はたしかに猫を捉えていたが、その向こうにべつの何かを見ているようだった。
「こいつみたいに鼻の下に黒いぶちのある猫を、おれも昔飼ってたんだ」
「え、そうなの」
 考えてみれば爺さんから昔の話を聞くのはこれがはじめてかもしれない。それどころか、俺たちは互いの本名すら知らなかった。
「そうせきって……あの古い千円札の?」
「ああ、まあ、そうだ、古い……千円札」
 爺さんは笑っていたが、何が可笑しいのかわからなかった。
「昔、好きでな……夏目漱石が。ほれ、漱石みたいな口髭があるように見えるだろ。それで」
 まるでそれが当時の飼い猫であるかのように、爺さんは俺の膝の上にいる猫を顎で示した。猫の顔を覗き込んだら不機嫌そうに鼻を鳴らし、爺さんに背を向けてまるくなってしまった。
「あ、そうせきってあれか。猫の本書いた」
「吾輩は猫である」
「そう、それ。でも爺さん本なんか読むの?」
「うん、昔はな、よく読んだ」
「ふうん、なんか見えねえ」
「見えないか」
「うん、見えねえ」
「こんなナリじゃな」
 垢まみれの両手を軽く広げ、爺さんはお道化た表情をした。「ああ、そんな汚ねえじじいはワレワレハネコデアルなんか読まねえよ」軽口を叩いたら、「吾輩はな。おめえもたいていばかじゃねえか」と返された。俺たちは声を合わせて笑った。笑いながら見上げた空に、やわらかな光を纏う朧月が浮かんでいた。

✴︎

「おれはな、過去に何冊か本を出した」
 爺さんは何気なく口にして、目尻に溜まった笑い涙を手の甲で拭った。「へ?」俺は間の抜けた声を上げる。むろん爺さんの歯がないのにはもう慣れているため、会ったばかりのように聞き取れなかったわけではない。
「んん、まあ、いわゆる……小説家だった」
「は。まじか、すげえじゃん」
 膝の上で猫が寝ているので慎重にはなっていたものの、こころもち大きな声が出てしまった。爺さんは照れくさそうに青いキャップをかぶり直す。頭部に申し訳程度に残った白髪がきらりと光った。
「なあ、まだ本持ってんの」
「あるわけねえだろ」
「そっかあ、読んでみてえな。今度ネカフェで調べてみよう。名前教えてよ」
 本にはまるで興味はなかったが、知り合いが書いているなら、がぜん読んでみたくなる。そういう浅はかさが俺にはあった。
「須東零四風だ」
「すとうれいしふう?」
「ああ」
 へんなの。喉元まで出かけた感想を飲み込む。
 覚えにくそうな名を口内でもごもご復唱していたら、爺さんが思いついたようにコートのポケットを探りはじめた。ティッシュ、チョコレート菓子の包紙、百円ライターがベンチの上へ並んでいく。「お、あった」ようやっと見つけたのは黒のサインペンだった。爺さんは青いキャップを取り、鍔の裏に〈須東零四風〉と滑らかな筆跡で書いた。
「やる」それを俺の頭の上に軽く乗せ、満足げな笑みを浮かべる。
 青いキャップからは汗と脂と埃の混じったなんともいえない匂いがした。にわかに顔を顰めたが、爺さんの潤んだ瞳を見たらどうでもよくなった。
「これ、大切なもんじゃないのか」
 会ったときから何度もレア物だと伝えてきたが、爺さんが頑なに売ろうとしなかったのを思い出す。
「ああ、でも、もういいんだ。おまえにやる。俺がサインしちまったから売れねえしな」
「ええ、プレミアつかねえのかよ」俺は大袈裟に肩を竦めて見せた。もちろん売る気は毛頭ない。
「どうだろうな。須東零四風がのこした唯一のサインで、いつかつけばいいが」
 刹那、肌を刺すような冷たい風が吹いた。街灯に照らされた爺さんの影が朧月のように霞み、俺は思わず身体を震わせる。大きな揺れに猫が跳ね起き、たちまち垣根の向こうへ走り去ってしまった。

「さあ、さみいからもう、いくわ」
 吹っ切れたようにそう言って両膝へ勢いよく手を置いたかと思えば、爺さんは前屈みになったまま身体をこわばらせた。俯きかげんの横顔は苦しそうに歪み、浅い呼吸が聞こえる。腰を上げるのに苦労しているようだったので、屈んで手を差し伸べると大丈夫と軽く振り払われてしまった。
 禿頭に残った数本の白髪がこころもとなく風にそよぐのを見ていたら、目の奥が熱くなって青いキャップを胸に抱えた。長い時間をかけて少しずつ染みついていった爺さんの汗と脂の匂いがする。爺さんの口髭から綿のような息がたよりなく漂い、街灯から降りそそぐ冷たい光の中へ消えた。振り仰げばそこに月はなく、鈍色の雲だけが重く垂れ込めていた。

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