子ども食堂の未来、わたしにできること
小学校で子ども達と給食を食べていると、たまに驚く場面に出会う。
季節初のみかんが出た際、皮を剝いたことがなくて戸惑っていた子。あるいは枝豆はさやから取り出すと知らず、丸ごと食べようとしていた子。
基本的に大人は何を食べるかの選択は自らに委ねられている。一方で子どもは違う。殆どが親の選択に委ねられる。偏食やアレルギーといった事情を除き、「食べること」の経験値は普段の食卓に出るか否かにかかっている。
「体験格差」とは、休日や放課後における子ども達の体験の差のことをいう。しかし毎日の「食」も体験の一つに違いない。
学校以外の場でも子ども達と関わってみたくて、私は時折子ども食堂へ手伝いに行っている。
そこで、久々に食べたゼリーに喜ぶ子、初めてホットケーキを焼いた子、「人参は嫌いだけどこれは好き!」とうれしそうな声をあげる子、様々な姿に出会った。
異年齢の多様な人々の中で、わいわいと食べる日常のご飯。家でもない学校でもない、子ども食堂だからこそできた食の経験もあった。

経済的事情あるいは保護者の働き方により、全国で子ども食堂の需要は高まり、その数は増え続けている。その一方、資金難で運営が立ち行かなくなる所も少なくはない。
もっと国が支援すべきだという意見もしばしば見受けられる。その通りだと思う。しかし、今この瞬間に必要としている子ども達はそこかしこにいるのだ。
先日、子ども達に食べてもらおうと子ども食堂に果物を持っていった。食材購入の経費は果物までになかなか回らないらしく、子ども達だけではなく運営スタッフの方々にも喜んでもらえた。
けれど、毎回手伝ったり差し入れしたりすることは難しい。どう考えても私一人の力はあまりにも微力だ。
できる人ができることを少しずつ。
「子ども達のために」と立ち上がった人々が活動を続けられる、そんなサポート体制ができて欲しい。一人野菜一つ分の金額だって、何百人と支援の輪が大きくなれば可能性は広がってゆくだろう。
温かな手を伸ばすための最初の一歩は「知ること」から始まる。
だから私は書きたい。子ども食堂の現状を多くの人に知ってもらうために。足を運び見聞きしたことを乗せた筆を、その可能性の架け橋としたい。
生きるために欠かせない、食べるということ。共に様々な食材や味に触れることで学べること。子ども達のそんな「食」の経験が明日、そして未来を逞しく生きる活力になることを信じている。


