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わが心の近代建築Vol.59 横浜市開港記念会館(ジャックの塔)/神奈川県横浜市中区

注:写真に関してはコロナ禍以前前のものを使用しており、現在は公開されていない部分があります
みなさん、こんにちわ。
今回は、最近は、阪神間モダニズムの邸宅などばかり記載していますが、久々に、横浜の名建築から、開港記念会館について記載します。なお、今回の投稿では、関東大震災の惨状の写真も使うことを前書きします。

【横浜市開港記念会館の歴史】
幕末期の歴史
横浜市開港記念会館のあった場所は、もともとは日本画家の岡倉天心おかくら てんしんの生家になった「石川屋」がありました。石川屋は、幕末期に福井藩が生糸貿易などのために建てた商館として利用されました。

商館「石川屋」
≪「横濱開港見聞誌」より≫

❏明治期の状況
1974年、当時の神奈川県令(現在の神奈川県知事)にあたる陸奥宗光の提案により、町会所が建てられましたが、建築は、旧新橋駅(現在、汐留シオサイトに復元)の設計などを行ったRPプリジェンヌ氏が担当し、木骨石造り亜鉛葺きの建築物となり、当時の横浜市民のランドマークタワーとなっていました。
が、明治7年の建築物という事もあり老朽化も甚だしく、1906年には火災で全焼してしまったことから、1909年に、横浜開港50周年を記念し、新たな公会堂が求められ、1913年に公開コンペが執り行われることとなります。

RPプリジェンヌ設計の横浜町会所
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

❏開港記念横浜開館の歴史
なお、コンペの結果、東京市技師 福田重義ふくだ しげよし(1887~1971)の案が当選。福田氏の案は、長年横浜市民に親しまれた先代の横浜町会所のシンボルだった時計台が備えられたものとなりました。

1等当選した福田重義氏の図面
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

実施設計には、山田七五郎やまだ しちごろう(1871~1945)率いる横浜市建築課職員があたります。山田氏は東京帝国大学卒業後、長崎県庁、旧制長崎中学校などを設計したのち、開港記念会館を設計するため、横浜に渡った人物で、のちに初代横浜市建築課長として、関東大震災後の横浜の街の復興にも尽力した人物になります。

実施設計の中心人物となった山田七五郎氏
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

開港記念会館は、竣工当時は、開港記念横浜開館と呼ばれ、1917年の開館式には大隈重信、徳川家達らが来賓として臨席し、大阪市中ノ島公会堂とともに、大正期を代表的な公会堂として君臨します。

❏関東大震災
が…
この建物も、19230901…
関東大震災の被害をもろに受け、横浜市街地の状況は阿鼻叫喚の状況に陥ります。開港記念横濱会館は、当時最新鋭だった|碇聯鉄構法«ていれんてっこうほう»が採られていたため、幸いにも塔屋、建造物ともに倒壊こそ免れることができました。

開港記念横濱会館の外観の状況
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

が、東京市と同じく当時の横浜市街も震災直後、昼時だったこともあり、大火が襲い、火の手は屋根部分から入り込み、内部は焼けただれ、塔屋部分も”あめ”のようにひん曲がり、鉄骨をさらした姿となります。

焼けただれた内部の状況
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

❏復興期を経て
横浜市では、当時の貿易の要衝だった横浜港の再建を目指し、港湾部分、鉄道網、橋梁、産業インフラ設備の復興が最優先されたため、横浜市開港記念開館は被害当時のまま、しばらく放置されましたが、設計に関わった当時のスタッフが再集結し、1927年に復元されます。
が、内部は簡素化され、外観の塔屋に関しても、すでに図面の行方が不明だったこともあり、再建されることはありませんでした。

1927年に復元された姿
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

とはいえ、再建に際し、昭和初期の建築意匠が取り入れられ、公民館的な役割以外に、2階にはビリヤード場(現2階9号室)、地階(現在非公開)と2階(現6号室)には、ホテルニューグランドの支店が置かれ、中町食堂と名づけられ、手軽な値段でランチを楽しめることで人気を博しました。

開港記念横濱会館のレストランの広告
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

また、横浜の復興時に設計されたほかの2つの塔
・神奈川県庁(キングの塔)
・横浜税関(クイーンの塔)
に加え、開港記念会館はジャックの塔と呼ばれますが、この呼び名は、当時、横浜港に入港する船乗りたちが、船から見える3塔の姿をトランプにちなんでつけた名前になっています。

大桟橋からみた横濱3塔
(左から神奈川県庁、開港記念会館、横浜税関)

Wikipediaより転載

❏終戦を経て
太平洋戦争では、横浜も例外なく空襲の被害に遇いますが、横浜市開港記念会館は幸いにも空襲被害こそなかったものの、戦後、各都市の洋館の例にもれずGHQから接収を受けることとなります。
が…
後述する貴賓室前の階段のステンドグラスが功を奏し、大幅な改悪・・を受けることなく大切に使用されます。
この理由として、敵国の大日本帝国が、ペルリ提督が浦賀に来航した際に搭乗したポードウィン号、そして星条旗が描かれたものを大切に保存していたのを見て感動。
この建物をメモリアルホールとして大切に使用されました。

ペルリ提督が搭乗したポードウィン号のステンドグラス

接収解除後、開港記念横濱会館は、現在の横浜市開港記念会館と改称されたものの、戦後も横浜のシンボルとして大切に使用され、1989年に国指定重要文化財に選定されました。
その際の大改修工事で、図面がなく再現不可能だったドーム部分も、図面を山田七五郎氏の遺族の方が発見したことから再建されます。
1997年の耐震工事の際にはバリアフリー化などのため、エレベーター新設やトイレの大幅な改修を行い、近年ではコロナ禍の時に改修工事が行われ、昨年度から再公開され、各種イベントに活用されています。

復元されたドーム部分
【横浜市開港記念会館 展示室より転載】

【たてものメモ】
開港記念会館
●竣功:1917年
●設計者:
 ・原案:福田重義
 ・実施設計:山田七五郎ら横浜市建築課
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:フラッシュ込みで可
●参考文献:BS朝日放映 「百年名家」
●開館情報:年末年始休館
 毎月1回、講堂と1号室を公開(予定はHPを確認)
●参考文献:
 ・歴史的背景については、横浜市開港記念会館展示資料を参照
 ・BS朝日放映「百年名家」
 ・横浜市開港記念会館HPジャックサポーターズ見どころガイド
など
●交通アクセス:
 ・みなとみらい線「日本大通り駅」下車0分
 ・JR京浜東北線/横浜線「関内」駅 徒歩10分

【外観について】
❏加賀町派出所前から臨む
外観を見ると、赤レンガに白の花崗岩かこうがんのアクセントを加えたもので、どことなく、JR東京駅や岩手銀行レンガ館などにみられるような、近代建築の大家 辰野金吾たつの きんごのデザインに似た雰囲気になります。
このような建築は、その外観から「辰野式フリークラシック」と呼ばれていますが、実際、福田重義氏は、辰野金吾の弟子にあたる人物になります。

加賀町警察署側から臨む

❏国道133号線側から臨む
現在、横浜市開港記念会館は、みなと大通り側から入る形になっていますが、もともとの出入り口は、横浜が港町であったため、海沿い(国道133号線側)に設けられ、建物のメインになる時計塔の高さは36mとなります

海側(国道133号線側)から臨む

正式玄関の大きなバラ窓上部には、当時の横浜港の主要な輸出物が生糸であったため、蚕が描かれ、その下には、竣工当時の正式名称だった「開港記念横濱会館」と描かれています。

正面玄関に描かれた蚕とかつての名前

❏復元されたドーム部分について
また、みなと大通り部分から臨むと、ドーム部分になりますが、こちらは重要文化財に選定された際に復元されたものになります。

みなと大通り部分からドームを臨む

なお1927年に復元された際、現在のドーム部分に付けられた「屋根飾り」に関しては、現在、内庭部分に保存されています

遺された「屋根飾り」

【平面図】
平面図を見ると、横浜市開港記念会館は、重要文化財でありながら現役の公会堂として使用され、各室は広く貸し出されています。
なお、平面図には載っていませんが、地下室もあり、震災復興後は、ホテルニューグランドの支店の食堂として使用されたほか、接収時にはダンスホールとしても活用されました(現在は特別イベントなどで公開)

平面図(横浜市開港記念会館 展示パネルより転載)

【内観についてー1階を中心に】
❏エントランスホール部分
エントランスホール部分は、白無垢の大理石製のイオニア式列柱。
エントランスは2列連なって囲まれ、計16本あります。
一番注目したいのが床下で、ビーズをちりばめたようなタイル絵が描かれています。これは、来訪者に幸福が訪れるように、と宝相華ほうそうげとなります。

1階エントランス部分

エントランス部分の階段は、親柱、手すりなどに見事なまでの彫刻が描かれていますが、戦前期の横濱は、生糸以外にも多くの家具類の輸出入が扱われていたため、多くの家具職人が在籍しますが、彼らの作品となります。

1階エントランス側階段

❏1号室
もともとは、会議室として使用された部屋になり、天井部分は、白漆喰塗の格天井といった仕様になっています。こちらに関しては、公開時に一般公開されています。シャンデリア部分に関しては、のちに付けられたものになります。

1階1号室(旧会議室)

❏講堂部分
講堂部分は、アーチ型の巨大な梁が生み出す圧倒的な空間になっており、その迫力と豪快さには誰もが目を奪われます。この部分は昭和初期に復元されたものですが、その豪華さは震災前に比べて引けを取りません。
竣工当時は、備え付けのベンチが並べられ1000人規模の収納が可能でした。なお、現在は消防法の関係上、備え付けの椅子になっており、1階が346席、22階が135席の481席になっています。
ホール内では復元当初こそコンサートなども行われていましたが、133号沿いを走る横浜市電の騒音の関係から、しばらくして行われなくなりました。

1階講堂部分

注:現在、2階から見る事はできません
中でも天井の巨大なシャンデリアは、真鍮しんちゅうで縁取られ、照明の光の中で金色に輝き、中心飾りには驚くほど複雑な意匠が施され、植物の装飾部分と講堂の舞台の縁部分の金枠には、金泥が塗りこまれています。

講堂部分(2階から臨む)
※現在2階から見る事はできません

また、講堂内には10本の絵目ナルドグリーンに塗られた鋳鉄ちゅうてつ製の列柱がありますが、すべて竣工当時のものになります。関東大震災では講堂内こそ焼け落ちたものの、この部分は生き残り、昭和初期の復元工事で残った部分に磨きをかけ、再利用しました。

1階講堂の列柱

講堂の窓の縁は大理石製になっており、こちらも創建当初のものをしようしています。所々にひび割れた部分がありますが、関東大震災の被害によるもので、その傷跡を今日に伝えています。

窓枠の淵にある竣工当時大理石部分

【内観についてー2階を中心に】
❏階段ホール部分
この部分は、写真の反対側が、かつては食堂や貴賓室として活用され、写真左側は講堂2階部分への入り口になりました。
ホール部分は、ロビーや休憩室などに使用されますが、壁 天井とも白漆喰塗になり、壁部分はアーチ状にくりぬかれています。
天井部分の通風口は、扇形にくりぬかれ、中心飾り部分は、この建物があるのが横濱という港町という事もあり、船の舵輪が描かれています。

2階ホール部分

また、写真左側にはステンドグラスが掲げてありますが、写真を拡大すると、左側には「呉越同舟」を。
右側には江戸期の交通手段…富士山が描かれていることなどから、箱根の山を越える場面と考えられます。
中心には2羽の鳳凰の間に、横浜市章が飾られています。
このマークは、ハママークと言われ、カタカナでハマと書かれたもの。
1909年の開港50周年を記念して造られました。

2階ホール部分 ステンドグラス

階段部分には教会建築で見られるバラ窓が掲げられ、もともとはステンドグラスが貼られていたものの、空襲で焼けてしまい、現在はガラスが貼られています。

2階ホール部分からバラ窓を見る

❏2階展示室
次にステンドグラスが貼られた部分を抜けた部屋は現在、展示室として使用されましたが、この部屋も、大きなバラ窓が付けられていますが、どことなく船の舵輪のようなデザインとなります。

2階 展示室

展示室奥側には細やかな装飾がされた103段の急な螺旋階段らせんかいだんがあり、階段上部は塔屋になります。
塔屋内部は通常非公開ですが、各種イベントなどで人数限定で特別公開されています。

展示室奥の螺旋階段

❏渡り廊下部分
渡り廊下部分を見ると、かつては、奥側の部屋に特別室などあったことから、数多くの商人らがここを通り、現在でも竣工当時の姿を多く見る事ができます。

2階 渡り廊下部分

エレベーター部分はバリアフリー対策のため、2007年に取り付けられましたが、改修工事で両サイドに竣工時代の|碇聯鉄構法«ていれんてっこうほう》の痕跡をみるおとができます。
この工法は、当時最新鋭の鉄筋レンガ造りとなり、鉄骨にレンガをつむ工法で、開港記念会館は、これにより関東大震災の強烈な揺れを耐えることができました。

エレベータ前の碇聯鉄構法の痕跡

また、現在の床の下には、かつての床部分が出てきますが、この部分を数多くの人が踏みしめ、数多くの商談などが行われました。

2階 渡り廊下 竣工当時のタイル部分

❏6号室/9号室
※この部分は、イベント時に見学
6号室は、1927年に復元された際、ニューグランドホテルの食堂の支店「本町食堂」が造られた場所の一つで、地階部分は洋風の一品料理、2階部分は和洋混合のメニューを提供。手軽な値段で本格料理を楽しめるほか、結婚披露宴なども行われました。天井部分はヴォールド天井になっています。

2階 6号室

なお、この建物には、当時の男性の社交場でもあった、撞球室を備えており、現在の9号室がそれにあたります。

昭和初期の9号室
【邸内展示パネルより転載】

❏2階特別室
2階奥府側の8角形の部屋は、竣工当時は「貴賓室」として使用され8角形の室内に3枚の窓が掲げられた部屋になります。
この部屋も関東大震災で焼け落ち、昭和初期の復元時には簡素化されます。なお、GHQ接収時には8角形という事から、オクタゴン・ホールと呼ばれました

2階 特別室
【邸内展示パネルより転載】

この部屋の竣工当時の写真を見ると、絨毯じゅうたん、カーテン、壁クロスなど、精緻を尽くした設えになっており、全体的にこの部分のみ、和の設えとなっていました。

2階 特別室(竣工当時の姿)

特に、竣工当時の天井写真を見ると圧巻で、折上げ格天井に中心飾り部分には象嵌ぞうがん(1枚の板に図案を彫り込み、その穴に天然木を埋め込んだ木画技術)によって仕上げられ、中央部分には鳳凰が描かれています。

2階 竣工当時の特別室 天井を臨む
【館内展示パネルより転載】

❏2階 特別室側ホール部分
なお、2階特別室前のホールからは、先述のステンドグラスが見えますが、この建物が、接収による「改悪」を受けなかったステンドグラスなど、かつての姿を思い知ることができます。

2階 特別室前のホール

❏階段部分
階段部分は、開港時に横浜を中心に人気を博した横浜家具をの家具職人たちの手によってつくられます。
戦争前の横濱は生糸産業の最大拠点になったのは有名ですが、諸外国からは陶器や家具など、多くの職人が集まりました。
特に港湾沿いは、家具の街としても非常に名高いものでしたが一時期はそのスキルも失われたものの、現在は「横浜ダニエル」などにより、その技術は継承されています。

特別室側の階段部分

【編集後記】
横浜市開港記念会館は、コロナ禍時に修繕が行われ、再度各種イベントなどに用いられていますが、幕末期から開港、震災 戦争を経て現代までの歴史を感じる事の出来す歴史的施設でもあり、これまで、多くの方々の尽力で護られてきました。この建物が次世代の方へ、末永く継承されていくことを願って止みません。

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