意味のタペストリーがふるえて 「私」がほどよく煮崩れてゆく
中沢新一さんが南方熊楠について書いた文章といってもいろいろあるが、『蜜の流れる博士』(1989)に収録されているものを読む。熊楠は科学のロゴスでは言い尽くすことなど到底できない「大日如来の大不思議」なる絶対的な知性に沈潜した博学の巨人であった。
「因果は絶えず、大日は常住なり。心に受けたるの早晩より時を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空間また然り。故に、今日の科学、因果はわかるが、縁がわからぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯綜して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。」(土宜法龍書簡 全集第7巻, p. 392, 『蜜の流れる博士』p. 24から引用)
「諸因果総体の一層上の因果」という表現が絶妙である (入不二先生の「先行分母性」と似たものを感じる)。原因と結果から説明される世界観をそもそも可能にするような根、容器、場としての拠を求めなければならない。熊楠は、「因果と因果の錯綜して生ずるもの」であるという「縁」にその論理を見出す。縁とは、複数の因果が相交わり、複雑に関係し合うネットワークである。それはまさに、「情報と情報とのクロスするところに生まれる関係性を、全体のひろがりのなかで思考しようとする、華厳哲学化された科学方法論についてのアイディア」(p.27)に宿るものである。
先日、way_findingさんがこのような記事を公開されている。こちらに示されている「意味のタペストリー」ともいうべき意味文節の折り重なりを視覚化したモデルがとてもおもしろいし、鮮やかである。
人間の言葉とは、「A (Δ1)はB (Δ2)である」式に言葉を別の言葉に置き換える配列で表現されている。
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
|| || || || || || || ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
線形に並べられる意味の最小単位(Δ1=Δ2)の背後には、それぞれの項(Δ)と「それ (Δ)ではないもの」を区別する分別 (/)が隠れている。
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/ / / / / / / /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
|| || || || || || || ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/ / / / / / / /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
way_findingさんによれば、「人間の言語の場合、この図の「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」も、一定のパターンに固めることもできるし、緩めることもできる」。さらに、近接する言葉同士を連鎖的に結びつける「ー」が意識的な処理である一方で、項と項とを分別する「/」、項の適切な置き換え先を見つけていく「=」の動きは無意識的な活動に属するという指摘もおもしろい。「私は・・・」に続く言葉の置き換え先を選ぶとき、その背後には、意識的な主体がまったく関知することのできない機械的で生理的なシステムが働いているのである。
Δの線形配列で語られる因果的な世界とは、分別のパターンが一定に固定され、節約化されたローコンテクストな体系といえる。一方で、「縁」の領域においては、Aと非Aは分かれつつも分かれているとは言い切れない揺らぎの渦中におり、そこでの「A」とは「AではないというよりかはむしろA」くらいに緩んでしまう。同一性はおろか、その都度「それではないもの」との切り返しによって意味を立ち上げなければならない緊張感の中、どうにか項の萌芽のようなものが、結んだり解けたりをダイナミックに繰り返している。con (共に)-text (織り重ねる)という語源的にも、差異と同一性を切り返しながら、じゃばら状に生地を折りたたんでゆく緻密なイメージをハイコンテクストと表現するのは適当であるように思う。
テキストの「編み目の粒度」は「解像度」と表すこともできる。深層の「/」や「=」を閑却して、表層的な言語連鎖である「ー」を可能な世界のすべてとしてしまう状態は、あまりにも味気なく、貧相である。
それに対して、「ー」を差し置いて、「/」や「=」の活発な動きが前景に出てきてしまうような場合、頭の中は相当にハイコンテクストなものと想定される。
概念上「同じ」とされるものの差異が気になって仕方がなく、逆に、「異なる」とされるものが本質的には違わないことを無視することができない。一つの事柄に対してありとあらゆる瑣末な情報が糸の端をほどくように溢れかえり、「今ここ」の出来事を刺激として、因果関係のない記憶が呼び出される。こうした、「縁」の交錯に阻害されることで、バラバラの末端情報を線形配列に並べ直すのに時間がかかり、スムーズにできない。
したがって、「私は・・・」に続く適切な言葉の置き換え先がいつまでもわからない。
クラスの前で自己紹介をしたり、将来の夢を発表しなければならないイベントは、発達初期の段階で、今後社会に適合できるかどうかの前提が試されるイニシエーションのようなところがある。
一般に、「私は・・・」の後に迷いなく、堂々と言葉を続けられることが、成熟した人格であると思われがちである。確かに、社会共同体において自分の居場所を獲得するためには、(言語的手段に限らずとも) まずは「私は〇〇です」と表明しなくてはならない。その際、とりあえずその場で承認され得る肩書を名乗ることが重要なのであって、実は「私」の言い換え先は取り立てて大事ではない。その場の状況を総合して相応しいものであれば、何でもいいのだと思う。重視すべきは、「私は・・・」に連続する言葉の意味内容や、それと「私」との結びつきの確かさではなく、集団内部の関係性や細かな力動を把握し、その中で自分が求められるポジションやキャラクターを周到に理解した上で、許容される範囲内に収まる言葉に圧縮して「妥協する」能力なのではないだろうか。この「妥協」を大人になるという意味で「自己限定する」と言ってもいいと思うのである。「私は・・・」に続く言葉の意味内容にこだわる前者を「ー」、因果関係によって評価される言表水準であるとすれば、後者はどちらかというと空間全体に拡張・集団に共有された「/」や「=」の動きを嗅ぎ取るテクニックである。
「「私は・・・」の不動の言い換え先を見出すことが、成熟した人格の条件である」という呪いのような理念は社会全体に平然と蔓延っているが、これは我々をΔ線形配列に束縛し、身動きを取りづらくさせるだけでなく、「私が私でいなければならない (他のあり方が許されない)」という意味で「私」の貧困化をもたらす。それでは、「私は・・・」の言い換え先が生涯のうちに幸い見つかっても、見つからなくても、見つかったと思ったものが実はまやかしであっても、「私は、私らしくいていいんだよ」と優しい言葉をかけられたとしても、常に神経症と隣り合わせのような状態になるだろう。
これを書いている私は、思春期に私の言い換え先を探す過程で苦労し、成人を過ぎてからこのことに気がついたので、早いうちから「あまり真剣にならないほうがいいよ」と真剣に教えてくれる大人がいるとよかったなあと思う。
「私は・・・」の表面的な置き換え先はその場で取って付けたようなものでも、コロコロ変わっても構わない。しかし、そのことは「肩書なんてなんでもOK〜」という怠慢を指すわけではない。むしろ、自らの分別の動きに自覚的になる修行過程の副産物として出てくるものではならないと思う。意識とは別の生物のように蠢く「縁を研究する」わけである。
個人的なことになるが、私は自分のことを「真面目」という言葉で他者から形容される(言い換えられる) ことは割と抵抗がなかったし、必要な際には自分から「真面目です」と名乗ったこともあった。
今考えると、「真面目」というのは聞こえの割には漠然としており、具体的な内容が薄い。「真面目」という単語によって「意味されること」は個人の経験や印象に委ねられる部分が多く、さらにそのイメージもどことなく漫画的にデフォルメされていて (提出物をきちんと出すとか、皆勤賞であるとか、授業中に私語をしないとか、図書委員であるとか、その程度の薄さである)、一見何か確たることを意味しているようで実は何も意味していなかったからなのかもしれない。これを利用して、「真面目です」と先に名乗っておけば、実は何も言っていないのにもかかわらず周りの大人はそれなりに納得したような顔をしているので、その場をやり過ごすことができた。
岡本太郎は、記者に「何が本職なのか」と聞かれて「本職?人間だ」という名言で返しているが、ここまで過激ではないにしろ「(因果的論理の上では)何かを意味しているようで何も意味していない」充溢した空洞を自己限定先として持っておくと、便利なのである。
また、ASDについて考えていると、彼らは圧倒的にハイコンテクストな体質であるにもかかわらず、融通が効かず、同じことを形式的に繰り返すといった、極端にローコンテクストな行動パターンをとっている様にも見える。これはなぜなのかと考えると、ハイコンテクストな内部状態 (熊楠でいう「縁」の錯綜)に認知資源が取られすぎているため、形式的なパターンで不協和を制御しようとしているのではないかと思う。未知のものや予想外の事態があまりにも多く、不安の高さからかえって固定化された理解を好むのかもしれない。しかし、よくよく聞いてみると彼らのこだわりはハイコンテクストであるがゆえに多くの人とは焦点がズレたものになりがちで、なんだかよくわからない (本人の中では非常に重要な関連性がある)奇異な結びつきに執着している場合も多い。解像度の高さにハードがついていかないため、外部から制限をかけることで帳尻を合わせているとしたら、おもしろい仮説だと思う。
先ほど「本職=人間」のように一周回ってテコでも動かないような空洞を「私」の置き換え先として持っておくと便利、と述べたが、感度の高さによる認知的な負担を軽減するために、あらかじめ「私は・・・」に続くフレームを用意しておくことと通じるのではないだろうか。「こだわり」それ自体には意味がなく、それは安定した自己限定を可能にするための空洞である。
因果の論理を裏付けるとともに超え出てゆく「諸因果総体の一層上の因果」と同じようなことを、大拙は『華厳の研究』でインドラ網を数理的に示しながらくわしく論じている。『レンマ学』では、中沢新一さんも一貫してこのテーマを扱っているので、以下に引用を載せる。
「「インドラの網」に喩えられる法界中の諸事物は、相互に関係しあい相互に嵌入しあいながら、自在 (無限)に影響を及ぼしあっている。網の目の交差点に主体の「芽」が生起するが、永続する同一性が形成されることなく、他の事物からの相即相入を受けることによって、別の形態への変化を起こし、力用の変化によって顕在を目指して立ち上がったり潜在空間への沈み込みを起こしたりを繰り返す。レンマ的無意識には「同一性」が作られない、そのため対象世界から分離した主体というものが、存在することができないのである」(『レンマ学』, p.162)
さながら毛糸の編み図のような、純粋な記号で編まれた「意味のタペストリー」を眺めていると、それらは妙にリアルな質感や、手編み特有の触り心地すら帯びてくるように感じられる。細編みと長編みでは生地の仕上がりはだいぶ変わるものだが、言葉も似たようなものかもしれない。
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/ / / / / / / /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
|| || || || || || || ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/ / / / / / / /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
例えば、キッチンの隅、レンジフードの灯だけをつけて佇む自分を遠くから見ているとする。ホーローのミルク・パンを小刻みに揺らしながら、板ゼラチンをとろ火で溶かす作業に没頭する。ゼラチンの繊維一本一本がくつくつと煮崩れていくことと、意味の分子構造ΔーΔーΔーΔーΔー・・・が緩んでいくイメージが重なって感覚的に好ましい。「縁」の論理における言葉たちは何かを明らかに「意味する」ということがあるのだろうか。因果的な論理では「意味ある」ものとして掬い取ることができない物事をその世界ではどう呼んであげることができるだろう。<ねえ、口で伝えられる物語のように移ろい行き、溶けて幻に似た無に近づく物質の将来について語ろうじゃありませんか。>(稲垣足穂) ・・・例えばこういう、関係の網目を一瞬震わせる睦言のようなものはどうだろうか。

