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カヌーと浮島 分離と結合の述語的様相 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(98_『神話論理3 食卓作法の起源』-49)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第98回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』第七部 「生きる知恵の規則」から「I 傷つきやすい渡し守」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のものと見立てて読んでみる。いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する“コト”と見立てて読んでみる。

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する(仮に下図に示す「Δ」を最小で二つつないだもの(Δ1/Δ-1)をひとつひとつの観念だと思っていただこう)。そして抽出された観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。

Δ1 ーΔ2 ーΔ3 ーΔ4 ーΔ5 ーΔ6 ーΔ7 ーΔ8
/   /   /   /   /  /  /  / 
Δ-1   Δ-2   Δ-3   Δ-4   Δ-5   Δ-6   Δ-7   Δ-8

このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」。

神話の背景にある人類の「野生の思考」は、語りの終わりで、この図におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

Δ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 暑い / Δ2 暑くない
||       ||
Δ4 わるい / Δ3 わるくない

といったことである。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、ほぼすべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

Δ自/他Δ
Δ生/死Δ
Δ好き/嫌いΔ
Δ内/外Δ
Δ因/果ΔΔ
Δある/ないΔ
Δうまい/まずいΔ
Δ高い/安いΔ
Δ遠い/近いΔ

生きることは分けること

それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。

人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

分け方は変え難いものもあるが、
分け方の重ね方は自在に変えられる(人間の場合)

人類が他の生物と異なる固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さに基づいている。

人間の言葉は、同じ一つの「意味されるもの」を、実に多様な「意味すること」に次々と置き換えながら表現することができる。

ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
 || ||  ||  || ||  ||  ||  ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ

このように配列される意味の最小単位(Δ=Δ)の背後には、ぞれぞれのΔを「それではないもの」から区別して区切り出す分別が隠れている。

ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/  /  /   /  /   /  /  /

ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
 || ||  ||  || ||  ||  ||  ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/  /  /   /  /   /  /  /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ

人間の言語の場合、この図の「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」も、一定のパターンに固めることもできるし、緩めることもできるのである。つまり潜在的な可能性としては、全てのΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。

それこそ「Δ1 / 非Δ1」という関係、つまり一方であれば他方ではない、という二者択一の関係を経験的になしえている二項についてさえ、直接言い換えることができる。例えば

「男は女である」

といったことである。こういう言葉を聞くと、その意味するところはよくわからないが、なにかとても「深い」ことを言われている様な気がする、という特性を持っている。人間は皮肉の効いた比喩表現や詩的表現をおもしろがることもできるが、詩的言語、比喩表現というのは、感覚的経験的には対立し、分離し、混じり合わないような二項を、あえて結びつけ、短絡するところに生まれる。

固着した分別に汲々とするのではなく(つまり、はっきり分けて、きっちり選べないと、疲労してしまう硬い分別心ではなく)、分別するもよし分別しないのもまたよし、分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返すことができる。

ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/  /  /   /  /   /  /  /

ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
 || ||  ||  || ||  ||  ||  ||
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ
/  /  /   /  /   /  /  /
ΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔーΔ

これで言えば、「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができる

ここで「きょうは、あめが、ふっている」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、ある程度意識的な、無意識的ではないプロセスである。

一方「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。

これが人間の知性(サピエンス)、人間における情報処理の要である。

人類における情報の歴史は、この分別と置き換えの痕跡をいかにして人工物に託して遠くへ遠くへ、時空を超えて保存するか、という試みの軌跡であろう。その最初が「声」という、口と耳のあいだの空気の振動パターンだった。そこから今日のAIへ。

人類の「心」の動き方

人間が「分別と無分別のあわいをくるくるとひっくり返す」ということができるためには、その前段として、「分別」と「無分別」、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。

分かれていないところを分けること

分かれているところを繋ぐこと

これを、一と二(多)とを区別できること同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。

そして、分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。

ここに、マンダラが出てくる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間  動物
||     ||
      服を着る  服を着ない(裸の人)

といったことである。

人類の「野生の思考」、神話や夢を浮かび上がらせる精神の意識下の運動は「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせのはじまり(起源)を思考する。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

動的マンダラ伸縮

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐ、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。


/ 
||    ||



←β→
↓     ↓
β    β
↑     ↑
←β→ 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。

神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


怪物の背に乗って川を渡るエピソード

以上を念頭に、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』に掲載されている神話をよみといてみよう。

前回の記事に引き続き「渡守(わたしもり)」の話である。

渡守は、こちらとあちら、此岸と彼岸のあいだを行ったり来たり、分けつつつもつなぎつなぎつつも分ける述語的様相を体現する両義的媒介項である。

この渡守が、神話ではしばしば大蛇のような怪物の姿で現れる。因幡の白兎の「ワニ」も渡守である。神話の渡守たちは、無事故歴うん十年で運輸省から表彰されるレベルの事業者ではなく、「傷つきやすく」、乗り手に対して不信感を抱きながら、なにかあればすぐに乗り手を水界に放り込んで食べてしまうような危険な媒介者である。

『神話論理3 食卓作法の起源』pp.511-512から、「M402 ムンドゥルク ペリスアットの冒険」という神話をみてみよう。これは神話の一部である。

・・・
別れを告げる
に際して、バクに姿を変えたおじはペリスアットに、村に戻るためには三匹のワニの棲みついた川を渡らなければならないと説明した。

三匹のうちでももっとも大きいのはウアティ=プン=プンという名であった。最初の二匹も渡し守をすると申し出るが、ペリスアットはそれを断って背中にイムバウバ/imbauba/ (Caecropia sp.; 『蜜から灰へ』四二一頁)の木が生えているウアティ=プン=プンが現われるのを待たなければならない




主人公たちはこうして最初の二匹のワニの奉仕を断って、三匹めのワニに河を渡して欲しいと頼んだ

ところがワニは岸に近づくのを拒み、ペリスアットはワニの身体を伝って地面に降りることができなかった

とうとう最後にはペリスアットはワニの背の上で跳びあがって川面に張り出した枝につかまることになる

こうして下に落ちることを避けることができたのである。
もし落ちていればワニに呑み込まれていたはずなのだ。



さて、河を渡る中ほどのところで、ワニはラッパを吹くと告げて音を立てて臭い息を吐いた
おじから教えられていたペリスアットは吐き気のために唾を吐くのを思いとどまり香りのよい息だとワニにお世辞を言った



そうして渡り終わろうという時に、ワニは、渡り客にあとは泳いで渡るのがいいと説得にかかった。というのもワニはペリスアットを呑んでやろうと思っていたからである。

しかし、ペリスアットはできるだけ岸に近づくように命じ枝を使って地面に飛び降りたのである。身の安全を確保すると彼は、ワニの口が臭いと言い放った
渡し守は背中に生えていた木がすべて割り裂けてしまうほど怒り狂って「なぜ渡っている途中でそれを言わないのか」と大声で言った。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』
pp.511-512 M402 ムンドゥルク ペリスアットの冒険

ペリスアットという名の主人公は、原初に居た場所から遠く離れた異界まで、二地点の間の距離を開きつつ、「おじ(親ではないが親である)」とともに旅をしてきたのだろう。この主人公とおじのペアの長い旅はβ項たちの間を引き伸ばす動きである。

β
β ーーーーーー+ーーーーーー β
β

バクに変身したβおじとの別れ

そうして訪れた先で、「おじ」は、バクに、動物に姿を変える。

人間 / 動物

この経験的な対立に関して、おじは、人間でもあり動物でもあり、かといって完全に動物でもなく完全に人間でもない、という両義的であいまいな存在になっている。こういうのを本論では「β」項と呼ぶことにしている。

そして主人公は、この叔父と別れて=分離して、元いた方向へとまた戻っていこうとする。二地点のあいだをあちらへこちらへ、振幅を描く動きである。

しかし、その帰路の旅では、主人公は「川」を、おそらく大きな河を渡らなければならない。

この手の神話の場合、元いたところから異界へとやってくるときには、空を飛んだり、鳥に運ばれたり、穴に転がり落ちたりして、比較的礙げなく、気がついたら異界にきていました、といった旅程になることが多い。しかし、帰りは危険な障害を乗り越えないといけない。「いきはよいよいかえりはこわい」である。

これは「行き」にはまだ、ものごとの分節体系が安定的に生成されていないからで、経験的に対立するはずの二つの事柄のあいだも、いつの間にか繋がっていましたという感じに分離したり結合したり、分離状態と結合状態のあいだを伸縮している。

しかし「帰り」では、すでに、ものごとの分節体系が区切られている。あちらとこちらの間には、超えることが困難な障害が横たわっているのである。その境界は生/死、天/地ほどの分離を切っており、経験的感覚的なこの人間の心身では、この境界を超えることは困難である。ただし、神話の主人公はまだβ脈動、両義的媒介状態に励起されているので(振幅はかなり小さくなっているが)、うまい具合に他のβ項と「結合」状態に入れば、このあの世とこの世の境界を超えることができる。渡守のワニはこのβ主人公と結合するもう一つのβ項なのである。

この図の左側が「行き」のときの世界、中央あたりが「帰り」のときの世界である。

三匹でワンセットが2グループに分離する

さて、主人公が村に戻るために渡らなければならない川である。

渡守のワニは三匹セットである。

三匹すべてが、主人公に対して渡守の役を申し出る。

しかし、主人公は、最初の二匹の申し出を断り、三匹目の一番大きな、背中に木が生えたワニが出てくるのを待たなければならない。と、このようにバクに変身したおじから命じられている。

背中に木が生えたワニは、動物/植物、という経験的な対立を考えれば、動物と植物の二極が一体に結合した姿をしている。

動物 / 植物

これは経験的には分離して対立するはずの二極を過度に結合する述語的様相を体現した姿であって、まさに両義的媒介項に相応しい。さきほどのおじが動物と人間のどちらでもあってどちらでもない存在であったのと同じである。

また、ワニたちが一匹ではなく、複数に分かれながらもワンセットになっている、というちょうど写真がブレたような様相になっているのもおもしろい。「はい、これがワニです!」というΔ的な、現世によくいるあの経験的なワニではなく、神話的な一即多多即一の存在である。この一即多多即一のワニを、主人公は、乗り物として選ばれる方と選ばれない方に分別する。

乗り物として: 選ばれる方 / 選ばれない方

この帰路の旅は、分別と無分別を分けながらも繋ぎ、繋ぎながらも分ける動きである。「無分別」に寄った複数化したワニたちは、乗り物として選ばれる方と選ばれないほうに「分別」されなければならない。また乗り物として選ばれたワニが単なるΔワニになってしまっては、それはただの現世の話であり、両義的媒介項たちの間の距離が伸び縮みするβ脈動がとまってしまい、神話にならない。そこで背中に木が生えるという動物/植物の経験的な分別からすると対立二極が短絡結合された姿になる。

そしてこのワニは主人公を騙して食べようとする、つまり食べて飲み込み一体的に結合するβ項たちの過度な収縮の様相に寄せようとしてくるのであるが、主人公はそこからうまく分離し「分別」を確定しなければならない

岸につきそうでつかない

この分別と無分別を分けながらも繋ぎ、繋ぎながらも分ける動きの様相が見事なのが、このワニが目的地の岸まであと少しのところで泳ぎを止めてしまう、という動きである。「つきそうでつかない」のである。

ところがワニは岸に近づくのを拒み、ペリスアットはワニの身体を伝って地面に降りることができなかった

とうとう最後にはペリスアットはワニの背の上で跳びあがって川面に張り出した枝につかまることになる
こうして下に落ちることを避けることができたのである。
もし落ちていればワニに呑み込まれていたはずなのだ。

そして主人公も、岸につきそうでつかないワニから、一挙にジャンプして岸に上陸するというような動き方はしない。主人公は、ワニの背中から飛び上がり、一旦「川面に張り出した枝につかまる」のである。つまりこのとき、主人公は引き続き川の上にいるのであり、目的地の岸には未結合である。

そしてそこから主人公は、この木の枝を伝って、目的地の方の岸に上陸するのである。

+ +

騙す言葉

ちなみに、このワニたちは主人公を安全に向こう岸に渡してやるつもりなどはじめからまったくなく「渡してやる」と主人公を騙して背中に乗せて、河の中につれこみ、水の中へ放り出して食べようとしているのである。因幡の白兎とは、騙す方と騙される方が逆である。

因幡の白兎では、乗り手の方が渡守を騙している(白兎はワニたちの数を数えてやるから一列に並べ、と本意を隠して嘘をついて騙すのである)。

渡守 / 乗り手

騙す / 騙される

この二つの二項対立関係をどちらの向きで重ねるかは、神話のβ脈動、β項間の距離が伸びたり縮んだりしている伸縮の様相にあっては、どちらにもなり得るし、どちらでもいい。対立関係の組み合わせの可能なパターンを自在に組み換えていくのが神話の論理であり、「渡守を、騙す方と、騙される方、どちらに結合しなければならないか」といった固着した分別に汲々とするのは表層意識の仕事である。

意味する言葉と意味される事柄との関係がひっくり返る

さて、おもしろいことに、このワニの渡守の神話にも、因幡の白兎と同じく、本意を隠した嘘がでてくる。ワニの口から吐き出される臭気の好/悪についてである。ここで場面は前後するのだが、河を渡る途中の「中ほど」の様相に話が移る。

渡河の途中、ワニは「ワニはラッパを吹くと告げて音を立てて臭い息を吐」く。これはひどい匂いで、主人公ペリスアットは吐き気をもよおすのであるが、ぐっと我慢して、「香りのよい息だ」とワニにお世辞をいう、ワニに対して嘘をつくのである。

お世辞や嘘、本心で思っていることと逆のことを言うとき、言葉は、その意味する言葉と意味される物事との関係が、通常の分別のパターンからずれた状態いなる。

ふつうに「香りが良い」といえば、なにかいい香りが漂って鼻識を楽しませていることについて発言しているのであって、吐き気を引き起こすような悪臭が鼻識を苛んでいる事態に言及しているのではない。

「良い香りですね」 / 「非-良い香り(悪臭)ですね」
||             ||
良い香りを発するもの / 悪臭を発するもの

ところがここで主人公は「悪い香りを発する」ワニの口からの臭気のことを「よい香り」と言っている。

「良い香りですね」 / 「非-良い香り(悪臭)ですね」
||             ||
悪臭を発するもの / 良い香りを発するもの

人間の言葉は、字面通りの意味と、実際にその時その場でその言葉が指示している事柄とを、真逆にひっくり返すこともできる「あまのじゃく」である。言葉というのは嘘を言おうと思えば言えてしまえるものである。

感覚の「識」における分別は、容易にひっくり返すことはできない。

暑い/寒い、明るい/暗い、いい香り/悪臭

熱々の風呂に入って「寒い寒い」と言葉でいったところで、体温は上がるし、のぼせてくる。悪臭を浴びながら「いい香りだ」と言葉で言ったところで、神経は震えて吐き気が込み上げてくる。人間の器官、身体が行う分別とはそういうものである。

ところが、この感覚の分別に、言葉の分別を重ね合わせて、二項対立関係を二重にした時、そこに対立関係を重ね合わせる向きをひっくり返すことができる自由が生じる。

対立1: 
 左項「良い香り」という言葉 / 右項 「悪臭である」という言葉

対立2:
 左項 良い香りを感じること / 右項 悪臭に嘔吐しそうになること

こうした対立関係ぞれぞれについて、右項と左項をひとつに短絡したり自在に交換したりと、分別そのものを無かったことにするのは、生きた身体がある限り困難である。

しかし、この二つの対立を重ねる向き逆にすることは比較的容易である。つまり、「良い香り」という言葉を、悪臭に対して言うこともまたできるのである(もちろん、実際に感覚的に不快であることはいうまでもない)。

* *

この神話の場合、「ラッパを吹く」といって悪臭を放出するワニに対して、もし主人公が正直に「ひどい悪臭だ!」と言いながら嘔吐したとしたら、どうなっただろうか。おそらくワニはその場で怒りにふるえ、主人公を水中に放り出して食べてしまったことだろう。

因幡の白兎と同じである。

乗り手は嘘をつく。

そして、乗り手の嘘が嘘であると渡守にバレない間だけ、乗り手と渡守は結合していることができる。その状態であちらとこちら、彼岸と此岸のあいだにひろがるそのどちらでもない曖昧な中間領域を、その存在の輪郭を(乗り手の同一性を)保ったまま渡ることができる。

  β嘘をつく乗り手→
β彼岸ーーーー         ーーーーβ此岸
  β騙そうとする渡守→

そして、このペリスアットの神話では、渡守も嘘をついている。
ワニは乗り手である主人公を無事に渡してやるつもりはなく、最初から食べるつもりで、河の中に連れ込んでいる。

この点、因幡の白兎のワニ(サメ)たちは、白兎を騙そうとしていたのではないように思われる。因幡の白兎では、白兎が一方的にワニたちを騙したようにもみえる

これはおそらく、白兎もまたすぐ後に「騙される」側に転じるからであろう(すぐ後に白兎は神々に騙されて、ワニに皮を剥がれてまっかになったところを、海水で洗ってしまってひどい目にあう)。


白兎自身が、

騙す者 / 騙される者

この両極の間で行ったり来たり、この両極の間を伸縮させている。

そして白兎自身「皮を剥がれる」という点で、「赤い頭」の神話にあるように、皮膚と身体ほどの過度な結合状態を、過度な分離状態に転じられる(皮膚を剥がされる)、振動数の高い状態の両義的媒介項なのである(しかも、剥がされた皮膚ものちに癒されて元に戻る)。実に着脱自在、結合したり分離したり結合したり、伸縮自在である。


騙す

肉 ー 白兎 ー 皮

騙される

因幡の白兎のワニ(サメ)たちは、白兎を「食べる」つもりはない
因幡の白兎が伸縮させる二項対立は「騙し/騙される(言葉の字面通りの意味と、実際の意味とが分離しつつ結合しつつになる)」と、白兎の身体がひとつにまとまっているか二つに分離するか、ということである。ここに「食べる/食べられる」、「捕食者/獲物」という対立関係は出てこない。

神話的な怪物に食べられるのはβ結合、二つの両義的媒介項が分離状態から過度な結合状態に転じるする動きである。

一方、因幡の白兎のワニ(サメ)たちは、白兎の過度な結合状態(肉と皮膚)を分離へと転じる、分離型の媒介作用を担う

結合作用を担うか、分離作用を担うか。ここが対立しているのである。

β→結合←β  / β←分離→β

そして因幡の白兎の方には、このワニ(サメ)が剥がしたウサギの皮を再びウサギに結合する「ガマの穂の花粉」というもうひとつの媒介項が出てくる。

整理すると、次のようになっている。

β(ペリスアットのワニ)→食べる・食べられる←β(ペリスアット)

過度な結合

分離と結合の均衡

β(ペリスアットのワニ)←逃げられる・逃げる→β(ペリスアット)

ペリスアットの神話では、ペリスアット自身はもう、頭皮が取れたり、体が半分になったり、といった分離と結合の伸縮をその身で担うモードにはない。往路では二即一で旅をして、そして動物に変身してあちらの世界に残った「おじ」と分離した時点で、ペリスアット自身の身体的存在の同一性の輪郭はそれ以上伸縮しなくなっている。無事に川を渡り終わり、ワニからの分離を確定したあとのペリスアットに、それ以上なにかをくっつけたりする必要はない。

ペリスアットはその存在の同一性を固めた状態で、これまた一番大きなワニ(他の二匹から分離された)という、それ自体の存在の同一性が固まった状態の媒介者と、分離したり結合したりすることができる。

一方、因幡の白兎は、引き続き、その肉と皮が分離したり結合したりと、白兎の身体の存在の同一性はひきつづき伸縮モードに入っている。皮膚という、内/外の区別を区切る境界がなくなってしまうという点で、白兎はまだ非常に振動の振幅が大きい両義的媒介項である。

因幡の白兎のワニ(サメ)
||
β(ウサギの肉) ←  引き剥がす  → β(ウサギの皮)

過度な分離

分離と結合の均衡


β(ウサギの肉) → 止血する・皮膚を造る ← β(ウサギの皮)
||
ガマの穂の花粉

そう言うわけで、海を渡り終わったあとの白兎において、もういちど「結合」の動きを引き起こす必要があり。その結合の媒介者として「ガマの穂」という存在が引っ張り出されてくる。

こうしたガマの穂のような媒介項もまた、神話のマンダラの「項」であるかぎりは単独で躍り出ることはできず、必ず、ペアになる反対物を必要とする。この場合、ガマの穂は、分離(皮が取れる)を結合(皮膚を蘇らせること)転じる述語的様相を担うので、その真逆に対立する述語的様相として、結合を分離に転じる動きを担うものが必要になり、それがちょうど、白兎を食べるわけではないが皮だけ剥がしてくれるワニ(サメ)なのである

+ +

背中に木が生えた姿から、ただのワニへ

さて、渡守の神話は、その語りの終わりでは、ものごとがはっきりと分かれつつも付かず離れずになった状態、つまり対立関係の組み合わせパターンが安定し、経験的に意味ある世界が定常化した状態をもってくる。

ペリスアットの神話の締めくくりは次のとおりである。
ワニの背から飛び上がり分離し、水面の上に張り出した木の枝にぶら下がった(天地の間で宙ぶらりんになった)ペリスアットは、そのまま枝を伝って目的地の岸に上陸する。そうして「身の安全を確保」したところで、ペリスアットはワニに対して「口が臭い」と、正直に、本当のことを言う

嘘とお世辞、言葉の字面とそれが実際に指示する事柄とが通常とは真逆にずれた状態が、くるりと回って元通り、言葉の字面と、その言葉で表現されている事柄との間が経験的な分別と適合したものになる。

恥をかく形になったワニは怒り心頭で、「背中に生えていた木がすべて割り裂けてしまうほど」で、大声で怒りを表明する。怒っている時に「私は怒っているぞ」と相手にわかるように大声で怒鳴る。ここでワニの言葉は実に普通、正直で、そこに嘘もお世辞もない。怒り狂う大声の言葉は正直で、表現と内容が、記号と意味内容が、経験的によくある関係に安定している

またここでワニの姿に注目してみよう。
大声で怒鳴ったせいで、せっかく背中に生えていた樹木たちが割れて、背中から取れてしまったのである。ワニはすっかり、ただの普通のワニの姿になってしまった。

このワニの姿について、レヴィ=ストロース氏は次のように言及している。

「北アメリカのいくつかのヴァージョンでは、ツルは脚を伸ばして地表に降 りる橋の代わりをする。南北両半球の渡し守のヘビには角があり、その間に砂洲があって植物が繁茂している。 したがってそれは南北アメリカの大河で増水した時にあらわれる浮島なのである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.513

このワニは「浮島」のようである。水界の中の陸界、陸のものでありながら水界のものである。

ここでレヴィ=ストロース氏は「浮島」あるいは「橋」というものと、人工的な「船」(カヌー)の対比に注目する。

「ところで橋と島小舟似ているとともに異なってもいるが、異なっている理由はかならずしも同じではない。 浮島とカヌーは浮いた物体であるとはいえ、いっぽうは自然の秩序、もういっぽうは文化の秩序に属する。

[…]

橋は固定されたものであって可動ではなく、流れに対して垂直であって平行ではない。さらに言えば、カヌーの旅はすでに見たように適切な距離を保たなければならないふたりの旅人を乗せるのに対して、渡河は渡し守[動物]と客という二名の移動する者をたがいに密着させるのである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.513

「浮島」と「カヌー」は、どちらも「水の上に浮いた物体」であるという点では「同じ」である。

しかし、浮島は「自然」のものであり、カヌーは文化的人工物である。

浮島 / カヌー
||    ||
自然 / 人工(文化)

さらにカヌーが「川の流れの軸に沿って」川の流れる方向と「平行」の軌跡を描いて進むのに対して、「浮島」あるいは橋としての浮島は、流れを横切り「流れに対して垂直」に主人公たちを移動させる。


β 上流 →→→ / →→→ 下流 β
→ β カヌー β →


彼岸 
上流→→→ ↓(橋ββ) →→→下流
此岸

カヌーは、上流と下流(下流と上流)、出発点と到達点の二極の間の距離を伸ばしたり、縮めたり、伸縮させる。出発点の世界と到達点の世界を両極とするひとつのひとつの対立軸をお餅を伸ばすように引っ張り出す。

βーーーーー(βカヌーβ)ーーーーーβ

一つの対立軸を引っ張り伸ばしている間に、第二の別の軸が伸縮してしまうと、円と正方形を組み合わせたマンダラ状のパターンを安定的に描き出すには都合が悪い。形が崩れてしまう。

そこで、カヌーに乗っている者たちは、付かず離れず、「適切な距離を保」ち、カヌーが進んでいく方向とは別の方向の伸縮を引き起こさないように注意する。

一方、橋・浮島は、川の流れに対して垂直に交わる、第二の軸を登場させる。

β


βーーーーー+ーーーーーβ


β

私たちが現に生きる経験的な世界の意味を安定的に分節する四項関係を生成するために直交する二軸があると便利である。この第二の軸を引っ張り出すために、もともと分離していた渡守と乗客は、分離から結合(密着)に転じ、そしてまた分離する、という伸縮をする。渡守と乗客が、分離→結合→分離、とその距離を作り出すことで、川の上流から下流への流れと直交する、第二の軸が生成される。

川が流れる方向に軸を生み出すカヌーと、その流れに直交する軸を生み出す「渡守」は、一見よく似ているが、非同非異のペアになって意味ある世界の分節システムをつくりだしていく。

「M403bの主人公に頼まれたワニは主人公を呑み込むことだけを考えて、自分の肩はひとりの客を乗せることのできるカヌーとなると嘘をつく[…]。セイリッシ族の神話では渡し守は答える代わりに呼びかけを鸚鵡返しにしてその邪な性格を露見してしまうのだが、最後には「人々を溺れさせるためにカヌーのふりをすることは金輪際しません」と確約して終わることになっている。[…]水界の怪物が反=カヌーであることは、M503のヒダッツアの複数のヴァージョンおよびマンダンのヴァージョンにきわめて近いダコタの神話からも読み取れる。」

ペリスアットの神話では、ペリスアットがワニから分離した後に、この巨大ワニ、水/陸が一つに結合したような経験的にはありえない両義的媒介項の姿に励起していたワニは、背中には生えていた木が「すべて」裂けて壊れてしまって、ただの普通の巨大ワニの姿に落ち着くことになる

巨大ワニは、水/陸の両極を一身に重ね合わせた両義的媒介的βワニから、巷によくいる普通の巨大Δワニになった。

この巨大Δワニは、陸上をどこまでも追いかけてペリスアットとの距離を縮めようなどとはしない。Δ化したワニは、おとなしく水辺に止まって、水界のとどまって、近づいてくるものを狙って待っている。ペリスアットは不用意に水辺に近づきさえしなければ、このワニと、しっかりと安定的に分離された状態に安住することができる

水/陸、生/死、人間/動物、記号/意味内容、内/外、ある/ない、そして、分離していること/結合していること。

こうした経験的世界を意味あるものにする(予測可能にする)分別の体系が安定化する、均衡したのである。


巨大魚との契約

もうひとつ、川で繰り広げられる世界の始まりの神話をみてみよう。「M508 ダコタ 大きな魚」である。

首長の娘は、結婚を拒んでいたが、ついに貧しい求婚者が輝かしい功績をあげれば結婚してもよいと言う。
男は戦いの旅に出るが敵に出会うことができない。



帰り道にインディアンたちは巨大なカメに出会い、男とその友人をのぞいて全員がその背に乗るカメは水中に潜ってしまい思慮のないインディアンたちは溺れ死んでしまう。

+ *

残されたふたりは再び歩きはじめ、主人公が疲れきって、体力を回復するため止まるまで歩きつづけた。
主人公が休むあいだ、同行者は、水の季節に岸に打ち上げられ死んだ魚がないかあちこちと探し回った。
そして一 匹見つけ、きれいに洗って焼き主人公にも食べるようにと誘った最初主人公は断るが、彼が求めるだけの水をもってきてくれると約束するならいっしょに食べようと受け入れた。

ところが主人公はいくら飲んでも飲み足りることなく、同行者は彼らがもっていた唯一の器を使ってうんざりするほど水を運んだのである

主人公は這うようにして川まで行き、飛び込んで直接川から飲み始めた
男は次第に魚に姿を変えてゆき川を舟が行き来するのを妨げることになった。



この劇的な出来事を知った首長の娘は、自分の過ちで死なせてしまった婚約者への貞節を誓った

彼女は一年かけて男の服を仕立て、木の皮でできたカヌーを用意させ魚のところまで川を下っていった
そして贈り物を差し出し、「インディアンが再び川を下ることができるように」川からどいてくれるなら、彼が自分を犠牲にしたことの思い出に一生独身を通すと約束した。
魚は水中に潜ってセント・クロイ川 (Stillwater river) を開放した

pp.514-515 M508 ダコタ 大きな魚

冒頭、結婚しようと思えばいくらでもできるのにそれを拒む娘というのは、経験的感覚的に適度に付かず離れずに結合しているはずのところ(夫との結婚)から過度に分離したβ項である。

このβ首長の娘が、自分とは真逆の存在である「貧しい」求婚者と結婚をすると宣言する。

この「貧しい」求婚者の男もまた狩人あるいは戦士でありながら、まったく獲物あるいは敵に遭遇しないということで、狩猟者と獲物、戦士と敵という、経験的に適度に付かず離れずに結合している関係から、過度に分離したβ項である。

β結婚しない首長の娘 ー / ー β貧しく獲物に恵まれない男

このふたつの、経験的感覚的に適度に付かず離れずに結合しているはずのところから過度に分離したβ項同士が「結婚」しようというのであるから(分離状態を付かず離れずの結合状態に移行させようとするのであるから)、たいへんなことである。

β貧しく獲物(あるいは敵)に恵まれない男は、一人ではなく、複数の仲間たちと旅に出る。しかし獲物は全くとれず、帰ってくることにする。その帰り道、β貧しく獲物に恵まれない男とそのひとりの友人の二名を除く他の同行者たちは、「巨大なカメ」の背中にのって川を渡ろうとする途中、このカメが水中に潜ってしまったため、一緒に水に引き摺り込まれて犠牲になってしまう。

ここでは水界と陸界の分別がまだ確定していない
陸のものがあっというまに水のなかに飲み込まれ、区別もなくなってしまう。水/陸二つの世界は過度に結合しており、他の神話にある「大洪水」を思わせる。

β水陸β

神話は、この過度な結合状態から、どうやって水陸両界を分離するのだろうか。それも単なる分離ではなく、付かず離れず、分離しつつ結合する状態を作り出さなければならない。

* *

巨大魚への変身

ここでβ主人公である貧しくて獲物に恵まれない男じたいが、β二極の間を伸縮させる「変身」を担うことになる。変身により、変身前の世界と変身後の世界、二つの世界のあいだを引き離し、分離し、対立させることができる。

友人との二人組になったβ貧しく獲物に恵まれない男は、引き続き帰路の旅を続けようとするが、ついに力尽きて、水辺に倒れてしまう。

ここで水陸が結合したところに、これまた動けない男とその世話をする男、二人の男が分離しがたく(なにせ元気な方の男がここから分離してしまっては、主人公はすぐに息絶えてしまうだろう)結合している。

β3男男β4
β1水陸β2

四つのβ項がぎゅっと一点に収縮している

ここで友人は、水界から陸界に打ち上げられて死んだ魚を綺麗に洗って焼いて食べることを勧める。この打ち上げられた魚も経験的には水界のものが陸界にあるということで水/陸両極のあいだを短絡するβ項である。

ここで分離が際立ち始める。β打ち上げられた魚を「食べる」ことβ貧しく獲物に恵まれない男は拒否する。

β打ち上げられた魚 ← /分離/ →  β貧しく獲物に恵まれない男

食べ物から分離されて、なんでもよいから食べたいはずなのに、この主人公は食べることを拒む。過度なβ分離であるといえるだろう。

しかし友人の方も諦めず、なんとか食べるよう説得を試みる。
β貧しく獲物に恵まれない男は、友人が大量の水を川から運んできて、飲ませてくれるならば、という条件を出して死んだ魚を食べるという。しかしこの宣言は結局嘘になる。

友人がいくら水を運んでも、β貧しく獲物に恵まれない男が満足することはなく、ついに彼は川まで這っていき、直接川の水を飲み始める。そうしているうちにβ貧しく獲物に恵まれない男は「魚に姿を変えて」いった。

水界→陸界・陸界→水界

主人公β貧しく獲物に恵まれない男がβ打ち上げられた魚を食べたならば、魚の方が主人公の内側に入るかたちで結合状態になったはずである。しかし話は逆で、主人公の方が、水界の内側に取り込まれる形で結合している。川から打ち上げられて死んだ魚が水界から陸界に移動したのと逆方向に、主人公は陸界から水界に移動する。

何かがあちらから分離してこちらに結合したならば、その何かと対立する別の何かは、こちらから分離してあちらに結合しなければならない。

β
β*β
β

食糧ー獲物との過度な分離が、狩猟者自身が獲物(魚)の姿になる、という形の過度な結合に転じたのである。

そして魚に変身したβ貧しく獲物に恵まれない男は、人間たちの船の通行を妨害するようになってしまった。

++

さて、この顛末を聞かされた婚約者であるβ首長の娘はひどく後悔する。

自分が結婚のための試練を課したせいで、男は魚の化け物になってしまって、しかも人々が川を使えないようにしてしまった。人間(陸界)と水界の間の関係が、過度に分離してしまったのである。

人間  ← /過度な分離/ → 川

人間は川と過度に分離されては生きられない。人間は川で魚を得たり、船で通行したりする必要があるからだ。

ここで人間と川との間に付かず離れずの関係を設立するために、β首長の娘は、陸界の代表者として、夫になるはずだった魚の化け物(元β貧しく獲物に恵まれない男)のもとをカヌーに乗って訪れる

先ほど論じたように、このカヌーの動きによって、川の上流と下流の対立として表現される、第一の軸が引かれることになる。

下流βーーーー←(βカヌーβ)→ーーーーβ上流

そうして魚の化け物になってしまった婚約者のもとに辿り着いたβ首長の娘は、一年かけて作った服を魚になった彼にプレゼントする。そしてまた、彼に報いるために一生(人間界では)独身を通すことを誓う。この誓いを受けて、元β貧しく獲物に恵まれない男である魚の化け物は、水中に深く潜り、水面で活動する人間たちを妨げないことになった。

ある意味で二人は、人間界の代表と水界の魚の代表、大きく異なる姿になりながらも、経験的な「結婚」とは大きくちがった形ではあるものの、つかず離れずの関係を定常化するという約束で結ばれた関係を成立させたのである。こうして人間の世界と川の世界とのあいだに付かず離れずの関係が設定された。

この巨大魚の「潜る」という動きによって、水界の表層と深層、上/下方向に、川の上流下流を両極とする軸とは直交した、第二の対立軸が出てくる。


β水面上


下流βーーーーー+ーーーーーβ上流


β深い水中

一つ前の神話では、「渡守」と乗り手の分離→結合→分離の動きから、地表と水平の方向で川の流れに直交する軸が設立されたが、今回は魚の化け物が人間の首長の娘と擬似的に結婚に相当する関係を結ぶという形での分離→結合→分離の動きから、地表に対して垂直方向で、川の流れに直交する軸が設立された。

同じ章の後のところでレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

旅の乗客の数が合っているかいないかによって忠実なカヌーにもなれば、邪悪な渡し守にもなりうる舟に出会うことになる。

pp.516-517

ある「船」のようなものは「カヌー」にもなれば「邪悪な渡守」にもなる。

ある何かxが、それ自体の自性において「カヌーである」か「邪悪な渡守であるか」といったことはない

神話において重要なことは、下記のように、直交する二軸を引っ張り出すことなのである。

β
ββ
β




β
β←ーーーー/ーーーー→β
β


β


βーーーーー+ーーーーーβ


β




β


βーーーーー+ーーーーーβ


β

この時、「船」でも「ワニ」でも「うさぎ」でも、ある経験的で感覚的な存在者が、上の図で言う縦横どちらの軸(仮に今ここでは、横軸をカヌー軸、縦軸を浮島軸と呼んでおこう)を引き伸ばす役割を演じるかということは、その経験的感覚的な存在者それ自体の本質によって決まることではなく、その存在者がペアを組む相手となる項との関係しだいである。


つづく


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