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ヒルマ・アフ・クリント展のマンダラ探訪記

東京国立近代美術館で開催中のヒルマ・アフ・クリント展に行ってきました。

街でポスターを見かけたときから「あれ、これはマンダラだなあ」と感じていたもの。

実際に中に入って見ると(会場の中に入ってみると & ヒルマの深層意識に入ってみると)あまりにもマンダラそのもので、強く感応道交するものがありました。いかに強く感応道交したかといえば、帰宅後に39度の発熱になるほど!もちろん翌朝には平熱に戻っている。

ゆらゆらと、対立する二つの「色」と「形」が
一つに重なり合い、
結合し、
不即不離に「なろう」(まだなっていない!)とする
動き

がある
これは神話論理でいえばβ脈動が一方の方向に長く伸びた様子。
パイ生地をこねる、陶土をこねる、という比喩をよく使うのだが、まさにそういう感じ。
伸び縮みからの、伸びきった両端の先の出現。
その端を曲とする、二項対立の折り重なり。
二重の四項関係のはじまりである。

ちなみに、今回のヒルマ・アフ・クリント展は撮影自由でありました。とはいえ、突如広がるマンダラの世界に驚愕するあまり、震える手でスマホを落としそうになりながら、他の来場者の方の隙間からプロの素人が撮影しているので、斜めから撮った変なところで切れている写真ばかりになっております。

経験的で感覚的な印象が「四即一にして一即四」を織りなしている。
四角は、角が四つあるという点でマンダラである。

ここまでは、人が二人描かれている、とか、十字架が建てられたお墓のようだ、とか、経験的感覚的に知っているあれこれのものの名前を並べて「理解」を試みようというタイプの思考を遊ばせてくれる、が。

いろいろと折り重なっているが、よく似た要素が二つで一つになっている様子がわかる。左側の黒丸に黄色と青の線が描かれたものふたつや、左右の十字架のような線、中央部にも青と黄色のペア、など。

この絵は「いったい、なにを、えがいて、いるのだろうか…」

感覚と超感覚

例えば、犬の絵なら「犬が、描かれています」
例えば、猫の絵なら「猫が、描かれています」

こういう問答は最近ではAIも得意である。

要するに、絵に描かれているものが「何であるか」という問いに、経験的に、感覚的に、現に五感(五官)でもって見たり、触れたり、聞いたり、嗅いだり、味わったりできる物の名前を持ってきて応える、という言語行為でもって、問うている方も、答えている方も満足できる、という世界である。

ところが、上掲のヒルマ・アフ・クリントの絵について「これはxxxの絵です」といえるような「xxx」を、経験的、感覚的な印象の世界の中のものの名前のリストの中から探しあてることは無理である。

なぜなら、これは他でもない「感覚」の分別(XがAであるとかAではないとかいう分別)が解れつつある状態で幻視されるビジョンそのものだからである。

経験的感覚的、感覚的な色と形、要するに目=眼識による分節・分節が解け始めたところで、このような無分節の分節とでも形容できるような様相が幻視されてくる。そこに通常の感覚分別を超えた、超感覚の世界への入り口がひらけてくる

超感覚への「認識」を鍛える

通常の感覚分別を超える超感覚なんて、いったい何を言っているのだ?そんなもの実在しない! とおっしゃる方も現代の世の中には少なくないと思われるが、実はそういう「超感覚」は、近代以前の人類にとってはごく日常的な生存実践の一部であった。例えば、鈴木大拙が『仏教の大意』の冒頭に書いている言葉を見ておこう。

普通われらの生活で気のつかぬことがあります、それはわれらの世界は 一つでなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに 一つだということです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今ひとつは霊性の世界です。

鈴木大拙『仏教の大意』p.8

大拙がいう「感性と知性の世界」というのが、分別識、分別心、上でいう「感覚」による分別が構築する「世界」である。

一方の「霊性」、これが「超感覚」と同じようなことである

これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界のに比すべくもないのです。一般には後者(感性的世界)をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それはわれらの頭で再構成したものです。[…]感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でもなくしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。すなわち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。

鈴木大拙『仏教の大意』pp.8-9

感性的世界、経験的感覚的に分別された世界像は、「われらの頭の中で再構成したもの」である。要するに、複雑で多様なところから、人間が感覚して意識できる限りの素材として切り出してきたものだということである。

一方で「霊性」は、この感覚(分別識・分別心、知性)によって切り分けられる前の複雑で多様な、「何である、何でない」と言語的に分別して名づけることさえ不可能ななにごとか(「実在」)と、直接共鳴しようとする。

* *


近代以降も、そういう「霊性」的な、超感覚を研ぎ澄まし、さらに言えば育成していこうとした人々もいる。例えば、ヒルマ・アフ・クリントも傾倒した「人智学」のルドルフ・シュタイナーである。シュタイナーはその著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』で次のように書いている。

真の神秘主義、霊学、神智学、グノーシスが教えているように、どんな人の中にも自己を認識し、自己を直観する能力が具わっている。必要なのは正しい手段を選ぶということだけである。耳と眼をもつ人だけが音と色を知覚する。一方事物を照らす光がなければ眼は何も知覚することができない。神秘学は霊耳と霊眼を発達させ霊光を点じるための手段を教えている。

ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』p.51

私たちが普段、「見えてる」「聞こえてる」と思っている世界は、私たちの「目」や「耳」といった感覚器官に連なった身体、特に神経系が作り出したものである

例えば、私たち人類は、夜空を見上げて、星が輝いていない部分を眺めては「夜の空は暗い」とか「夜空は真っ黒」だ、などとか言うが、これは夜空の側からしてみれば(宇宙からしてみれば)誤解である

夜空というもの「が」、それ自体として「暗い」「黒い」といった様態で存在しているわけではなく人間の目はその可視光帯域の外の波動に感応することができない、という話である。

もし人体に、微弱な赤外線を捉えることのできる器官や、X線を捉えることのできる器官や、重力波を観測できる器官があれば、夜空は暗いどころか、眩しすぎる光(といっても可視光に限った話ではない)の乱流として「見える」だろう。

あるいはもっと身近な例で言えば、コウモリが超音波を「聴く」ことができるとか、ある種の鳥類が地磁気を「感じる」ことができるらしいということもある。コウモリや鳥には、人間と全く同じ場所に生存しながら、人間が見たり聞いたりするのとは全く違う「現実」が見聞されていることだろう。

***

人間を含めて、それぞれの生命体は、それぞれの感覚器官ー神経系による分節システムの中で、それぞれの生にとって意味のある世界をつどつど生成しながら生きているのである。

シュタイナーの話に戻ると、要するに、私たちが普段、目で見て、耳で聞いて、あれはある、これはない、などと分別して認識している対象物は、広大で複雑で多様な宇宙そのもの(わかりやすく法界といってもいい)のうち、ごく限られた、人間用に切り取られた(というか、自分たちで切り取ってきた)部分である。

* *

法界を1ホールのケーキだと仮にすると、人間が感覚できている感覚的世界とは、そのホールのケーキを入れている箱にローソクの袋を貼り付けているセロテープくらいのものである。

しかしこのセロテープ。ただのセロテープではない。
人類というセロテープ生命体には、別々に分かれたものを自在に貼り合わせる、とてつもない矜持もまたあるのである。


*   *

そういうわけで「いかにして、超感覚的世界の認識を獲得するか」という話になるのである。

超感覚的世界の認識とは、もちろん通常の感覚による認識とは異なる。

通常の感覚をする器官が「目」や「耳」であるとすれば、超感覚をするためには、超感覚用の器官が必要になる。それが「霊耳と霊眼」といったことである。

霊耳と霊眼」この超感覚的世界を認識するための器官は、もちろん、ただ生きているだけではなかなか育ってこない。育ってこないというか、発達とともにむしろ退化していく。一休さんが詠んだという歌

おさなごが、しだいしだいに ちえづきて
ほとけにとおく なるぞかなしき

これである。

そういうわけで、「霊耳と霊眼」を育てる訓練が必要である。「霊耳と霊眼」のようなものは、訓練によってある程度まで獲得することができる。

超感覚器官を育てる訓練

その訓練とはどのようなことをするのかと言えば、大きく言えば瞑想である。例えば、通常の感覚器官である「目」をもちいて、ある特定の感覚的対象(例えば植物の種とか)に意識を向ける。そしてその意識の集中の強度を高く保ちながら、同時に、目には見えないその植物の種に包まれた可能性、つまりその植物が芽吹き、成長し、大きく伸びていく様をイマジネーション能力を使ってイメージするのである(わかりやすくいえば(?)、密教の三密加持における「意密」の加持である)。

この辺りの詳しいことはシュタイナーの本に書かれているが、実際にしかるべき伝統を受け継いで実践されている方に弟子入りする方が安心感がある。

感覚器官の「主体」が超感覚器官によって解かれる

このようなイマジネーションは、繰り返しているうちに、次第にそこから「イマジネーションをしている私(俺様)」みたいなものが薄らいでいく

例えば、私たちは「ラーメンをイメージしてください」とか「カツ丼をイメージしてください」と言われれば、イメージすることができる。あるいはダイエット中の深夜にSNSを開いてしまって、どこかの誰かが投下したラーメンの画像(イメージ)を見てしまう。そしてあわててスマホの画面を消したのに、ラーメンの残像に憑依され苦悶したりする。そう言う時にはイメージしている「私」、イメージが気になって仕方がない「私」がはっきりと際立っている。

しかし、瞑想の訓練が進むと、次第に「私(俺様)」が考え出したのではないイメージが、自ずから浮かんでくる、現れてくる、「やってくる」ようになる。

種の成長と衰枯を瞑想する話について、シュタイナーは次のように書いている。

生成、繁栄、開花の過程に繰り返して注意力を向ける人は、日の出を仰ぐときの感情にやや似たような何かを感取するであろう。そして衰微、死滅の過程からは、ゆっくりと月が視界に上ってくるときに感じるのにやや類似した体験が生じるであろう。この二つの体験が作り出す感情の作用は、それをふさわしい仕方で育成していくなら、この上なく重要な霊的作用にまで変化する。繰り返し繰り返し計画通り、既定の方針に従って感情の作用に沈潜する人の前には、新しい世界がひらかれる。魂界(いわゆるアストラル界)が彼の眼前に次第にはっきりと姿を現してくる。生長と衰微とはもはやこれまでのように、漠然とした印象を生み出す事実であるだけに留まらない。むしろそれらはこれまでは予感もしなかったような種類の霊的な線や形象になる。

ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』p.51

植物の種、それは元に、視覚において、この生きた目で「見ている」、感覚している。

そしてそこから、目で直接感覚することはできない、種の成長する様子、そして枯れていく様子を、イマジネーションの力で瞑想する。

そしてそこに、単に植物というものが育ったり枯れたりするというだけの像ではなくて、「日の出を仰ぐときの感情にやや似たような何か」や「ゆっくりと月が視界に上ってくるときに感じるのにやや類似した体験」といった、特定の対象物(「月である」「太陽である」)を分別する思考とは少し違った、より広がりのある感情の体験が伴ってくる。

イメージを「それが何であるか」という言語的な分節、特に主語的なものたちの分節システムに従属したあり方から解き放ち五感の個別の分別の境界を超えて溢れさせる

そういう「感情の作用に沈潜する」瞑想体験を重ねることで「新しい世界がひらかれる」ようになる、つまり超感覚的世界を認識するための超感覚器官が育ち始める準備が整うのである。

霊的な線

そしてその超感覚器官は「これまでは予感もしなかったような種類の霊的な線や形象」を感覚するようになる。

花、蝶、人体・・・そういう経験的なものも、法界の脈動が残したマンダラ状の波紋にみえる

ヒルマの描いた「線」たちは、おそらく、こうした境位で、高度に励起された瞑想状態に入ったところで「見た」=共鳴した振動たちのパターンが現世の感覚としての視覚で分別できる色や形の次元にまで冷却され、砂状の波紋のようなものとして視覚的記憶に残ったものを、ひろくあまねく人間の感覚的な目でも(超感覚器官としての目の訓練が進んでいない私のような者にも)見えるようにビジュアライズしてくださったものであろう。

このが走った軌跡が、同じパターンを反復することで、二を浮かび上がらせ、二即一を浮かび上がらせ、二かける二の四を浮かびあがらせ、マンダラ状になるのである。

深層の心、あるいは超感覚器官の育ち

以下、ヒルマの線がマンダラ状のパターンを浮かび上がらせていく、振動数のチューニングの様子でもいえるようなことを見てみよう。

まず「幼年期」と題されたこちらである。


線たちから、円の二つのペアが浮かび上がってくる。
円の二つのペアのペアのペアである八項関係が、すでに右上に現れている。
こちらも幼年期。
円形が際立ちつつ、円が二つセットになり、また円の中に「二」が入り始めている。

次に「青年期」である。

巻貝状の螺旋に、ものとしての円、静止した円、単に主語としての円ではなく、
”まどかにする”という述語的な円の様相が際立ってくる。
それらの運動に囲繞されながら、
上方中央部に中台八葉院のような形象も浮かび上がってきている。
一つ前の作品の巻貝的な螺旋運動から、
この作品では、花弁的な安定形態へ
右下の方に、シュタイナーも論じている「チャクラ」の重ね合わせのような形象も見えていることに注目しよう。
個人的にとても面白いと思ったのがこの絵である。
線が、まるで母音を表す文字のような形態を示し始めている。

こういうのを密教なら「法身の説法」というところであろう。

心、感覚器官、身口意
人間生命の複合分節システムの呼び名色々

弘法大師によれば、密教では「即身成仏」つまり人間が人間として生まれた身のまま、仏と異ならない悟りの境地に入るために「三密を加持する」ということをする。

三密とは、身密、口(語)密、意(意と書いて「こころ」と読む)密である。

  • 身は体、五感、身体感覚など

  • 口=語は声、言葉、言語

  • 意(こころ)はイマジネーションの力である。

ご存知の通り、身も口も意、通常の場合は(訓練を始める前は)、分別の道具としてガチガチに固まっている。

ある/ない
好き/嫌い
見える/見えない
動いている/止まっている
大きくなる/小さくなる
おのれ/おのれ以外

こういう対立する二極の関係を重ね合わせて、Aが好きで、非Aが嫌い、どちらがよくでどちらがダメ、ということを瞬間瞬間無数に分別しながら、私たちは生物として地面を這い回っている。

「どちらであるか」を選ぶことにこだわり、「どちらであるべきか」にこだわる。そういう分別を定型的パターンに固着して遂行する塊になっているのが通常の身体であり、言語であり、イメージである

ところが、この身体と言葉とイメージ、身口意を「加持」することで、それをシュタイナー風に言えば超感覚器官として育て直すことができるのである。

瞑想や、その瞑想で幻視された様子を描いたイメージは、まずは「意密」の加持に寄与する場合が多いことだろう。

そして、つぎに語密の加持。上のヒルマの絵では母音の文字、つまり密教で言えば「真言」の「阿字」にあたるような分節の手間の音=前言語のような響きが轟き始めている。

瞑想しながら、何か聴こえているのかもしれない。

ここに「語密」が加持されているように思えるのは、私だけではないのではないか。さらに次の絵では、明確に言葉、文字列のようなものが姿をあらわしている。

「相変わらず、写真が横からだな」と思われると思うが、霊的にかなりものものがあり、純粋に「絵」として眺めることができなかったのでご容赦願いたい。

表音記号の手前の文字、音と声の境の響きの繰り返しのような共鳴空間に、円の中の二、そして円の中の二たちを複数包み込む複雑な振動パターンが重なり合ったマンダラ状の共振パターンが浮かんでいる。

成人

そして「成人期」という絵である。
一つ前の絵の高まった振動が共鳴の度合いを高め、種のような、蕾のような、多重化(四重化)した形象のあつまり、わざわざ番号が振られた「3」にまとまってくる。

こういう数字が出てくると、私たちはつい、「一番神聖なのは2なのか、3なのか、4なのか?」とか「2や4は邪悪な数字じゃないのか?!」といったことを分別してみたくなるのであるが、超感覚的な世界(法界)では、2と3と4の間に(他の数との間にも)ちがいはない。この辺りの詳しい話は下記の記事などに書いているので参考にしてください。

こちらも「成人期」
第一印象は「梵字がたのしげに踊っているようだ」。
音の、語密の加持された共鳴状態をおもわせる。

それにしてもこの背景の光の雲と、線たちの色との、おたがいに妨げ合わない共鳴感はいいね。

そしていよいよ「老年期」
法界と、法界の「中」にあり、法界そのものと異なることのない人間の「心(自我ではなく、深い深い無意識へと広がる心)」が同体であることを観じているようにみえる。
見方によっては胎蔵曼荼羅であるとも言えそうである。
そしてここちらが最後の一枚
わたしの目には、金剛界曼荼羅にみえてならない。

マンダラは分別を超える。
分別と無分別の分別も超える。
超えると超えないの分別も・・

ここまでのところで「近代の西洋の人の神智学と、日本の密教の用語とを、何の断りもなく短絡して書くのは(頭が)おかしいのではないか」という感想を持たれた識者諸賢もいらっしゃると思うが、そのあたりの分別はとりあえず解いた状態で、瞑想の一種として読んでいただけると幸いである。

もちろん、分別が悪い、ということでもない。

分別が悪くて、無分別が良いのだ、というのも、これまた分別である。
分別と無分別の分別さえ離れる(分別と無分別を分別するでもなく、分別しないもでもない)のが釈迦の思想であり、超感覚器官の訓練の要訣であるからだ。

高野山の松長有慶師の訳による『タントラ 東洋の叡智』という本の一節に、つぎのようにある。

近代文明の根底には"自我” の確立という共通の目標がどっしりと持たわっている。近代文明は自然とか生物あるいは無生物、これら一切を含めたおのれ以外のものと、おのれとを分離し、両者を区別することから出発したといってよい。そこで、われわれは世界を主体と客体という二つに区分し、おのれと他のものとのあいだに、厳重な高い垣根をかまえて、互いに干渉しあわないことを原則としたのである。近代の科学文明が発展するうえで、原動力となったのも、おのれと他をはっきり区別し、存在するすべてのものを分析的にとらえる考えかたなのであるが、タントラはこれとは逆に、おのれと他のものとがもともと本質の上では同じもので、それがまた絶対者とも異ってはいないと説くのである。おのれと、神と、自分の目の前にいる鳥や獣、これらのあいだに、はっきりした線を引く西洋の考えかたからすると、タントラがいうような世界観は生れてこなかった。一方、相対的な存在であるおのれと、他人と、それに絶対的な存在である真理とが、本源的に同じだとみる考えかたは、東洋思想の根底にほぼ共通して見られる

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.11

おのれ / おのれ以外

主体 / 客体

こういうものたちのあいだに「厳重な高い垣根をかまえ」、「互いに干渉しあわないことを原則と」することが、世界を「分析的にとらえる」ことを可能にし、これが近代科学技術の発展に寄与した。それはそれでよい、すばらしいことである。

一方で、わたしたちが生きている中では、おのれとおのれ以外との境界が、揺らいでしまうことがある。例えば、誰か他人に言われた嫌な言葉が頭の中で響き続けて、病気になってしまう。つまり「わたし」の中で「私ではないもの」の声が響き続けている。あるいは元気で健康で他の人を蹴散らしながら人混みを歩いていたような人が、急に怪我をして、ゆっくりとしか歩けなくなる。そして前から歩いてきた大男にぶつけられて転倒する。そういう日常で感覚できることだけでも「わたし」と「わたし以外」との境界は大いに揺らぐのである。

そういう揺らぎを経験した時、「おのれ / おのれ以外」の分別は厳然と、端的にそれ自体として固まってあるのだ、と決めてかかるような思考では、繊細に自他の境界を引き直すような営みができなくなる

あれもわたし、これもわたし、こんなのは自分ではないが、しかしこんなのも自分、という緩さ、幅の広さ、自在な「適当さ」こそが、時と場合に応じた柔軟な自他境界の引直しと、つまり自己の再安定化を可能にするのである。

このような自在に線を引く営みへと、意識を、表層の心を開きほぐすのが、「おのれと他のものとがもともと本質の上では同じもので、それがまた絶対者とも異ってはいない」と感得することなのである。

おのれへの執着を否定することによって、宇宙的な視座からおのれを眺める目が開かれる。それは大宇宙と同質のものとしておのれを発見することであり、自我の内部にひそむ普遍的な宇宙意識を開発することにもなる。

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.13

おのれとおのれ以外の「おのれ以外」には、草や、木や、石や、他の人間は言うに及ばず、天体や、宇宙そのもの、あるいは観測可能なこの宇宙をそのような姿に展開することを可能にしている何らか「存在」をも該当する。

* *

おのれと大宇宙が「同質のもの」だというのは、「おのれ」が消えてしまう、なくなってしまう、ということではない。そもそも消えるとか消えないとかいうのも分別なのであるが、ここは一旦、消えてなくなりそうな「小さなおのれ」と「大宇宙」の対比を方便にして言語的に思考してみよう。

ここが密教の、空海でいえば「即身成仏」のおもしろいところである。

自分の欲望を満足させるために、他人を平気で殺したり、国家のエゴによって、たえず戦争を繰り返したりするような現実世界を仮りの世界とみて、おのれと他人が渾然一体となって融合し、 主体も客体も区別のない本源的な世界に立ち戻ることを、大乗仏教では悟りへの道と説いている。 つまり宗教的な回心、コンヴァージョンである。大乗仏教におけるこういった回心の背景に、あの煩悩即菩提、生死即涅槃という思想があるのだが、タントリズムにあっては、回心というのは現実世界の存在であるおのれのなかに、普遍的な宇宙意識を見出すことなのである。

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.13

「おのれ」と「他人」が「渾然一体となって融合」
「主体」も「客体」も「区別のない」

そのようにいうと、「おのれ」が、何から大きなものに飲み込まれたりする恐ろしい感じがしたり、「おのれ」が嫌な他人に乗っ取られたりする嫌な感じがするかもしれないが、この無区別、一体、融合には、そのような優劣の分別、食べる者と食べられる物との分別もなくなる。

さらにいえば、ここには分別と無分別の分別もなくなる。

分別がだめで、無分別がよい、ということではないのである。

こうなると、大宇宙と一体だからといって、別に「おのれ」を捨て去ったり「おのれ」から離れたりすることは必要ない。おのれを好いたり嫌ったりすることが分別なのである。おのれを大きいとか小さいとか観念することが分別なのである。容器と中身を観念することが分別なのである。分別することと分別しないことを分別してどちらがよいとか悪いとかいうのも分別である。

そういうありとあらゆる分別を「離れる」と、つまり分別するでもなく分別しないでもない(つまり分別していないようなしているような)境地を超感覚できるようになると(感覚分別するのではなくて、超感覚すると)、おのれが、「現実世界の存在であるおのれ」そのものが、そのもののまま「普遍的な宇宙意識」と異なるが異ならない、ということをありありと感じられるようになる。

即身

これについては次の一節も参考になる。

大乗仏教は一般に、現実世界(すなわち世俗諦)が虚妄であり、空であると否定して、真理の世界(すなわち勝義諦)に、究極的な価値を認めている。ところがタントリズムにおいては、現実世界は、たしかに空であるが、そこに絶対的な真理が顕われているとみて、現実世界に絶対的な価値を認める。

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.13

現実世界 / 真理の世界
||      ||
虚妄、価値なし / 究極の価値がある

このような分別にこだわらない、ということが重要なのである。「現実世界はたしかに空である」が、しかし、「そこに絶対的な真理が顕われている」と悟る。

分けて選んだ瞬間に、執着が生まれ、苦しみが生まれる。

しかし、分けなければいい、選ばなければいい、分けてはダメ、選んではダメ、ということではない。「分けちゃダメだ、分けちゃダメだ・・」といつもつねに唱え続けるなんて、苦しいだろう。何かが良くて、その何かの反対側はダメ、というのもまた、それこそ初歩的な分別である。

分かれているが分かれておらず、分かれているよな分かれていないような、という、自由自在に分割線であり接続線であるような線が走っては消え走っては消えるように踊っている状態こそが、人間の言葉で言えば「真理」なのである。

走り回る「線(として感覚的視覚に次元を減らして映る動き)」
まとまる「線(として感覚的視覚に次元を減らして映る動き)」
一定の周期で伸縮する(振幅を描く)線が共振すると、こういう「マンダラ」状のパターンになる。
一定の周期で伸縮する(振幅を描く)線が共振は「音」として、分別耳にも響くようになる。
この現世の現実空間そのものが、超感覚の世界と、同じではないが、異なるものでもない。

この、分割線でもあり接続線であるような「線」たちが走り回った痕跡が、私たちのそのつどそのつどの「心」の形なのである。もちろんその心は「分別心」でもあり「無分別心」でもあるような自在な超感覚ー超分別の器官である。

そして超感覚の響きのパターンが、私たちの身体の感覚の空間的な分別と共鳴したところに残響のように浮かび上がる定常的なパターンが、視覚的なイメージとしての、線、円、四角形、といった図形になる。いわゆるマンダラである。

点、線、円、三角形、四角形などからなるこのヤントラ図形には、原初的な抽象図形が組み合わされているが、それは静と動の両面が格調高いバランスを保って調和している。一般的なヤントラの特徴はというと、それは、中心部の周りにすべての図形が描かれている点である。

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.59

このマンダラ状に調和した線は、単なる線ではない。
それは超感覚器官へと変成した私たちの身体、言葉、イメージ形成能力が「感覚した」自他の分別を超えた世界の形象である。

今回のヒルマの絵の中で、私が個人的に一番衝撃を受けた一枚である。
二重の四項関係としての表層の分別意識にあたるものが(絵の右側の箱のようなものが二重の四項関係になっている)、左側の高速で振動するマンダラ状の分離と結合を分離しつつ結合するアルゴリズムが絞られ、減速されたところから出てくる。

ヤントラというのは、天文学とか占星学の図や算出表を大まかにスケッチしたようなものではなく、タントラの行に熟達した者の前に現われる線画と見るべきなのである。ヤントラを構成する基本的な幾何図形にも、そのほかの瞑想の図形、すなわち心に顕われた宇宙エネルギー図形にも、すべてシンボリックな価値が与えられている。[…]結局、これらの図形が力をもつのは、タントラ行者にとって意識の本質であるばかりでなく、シンボリックに表わされた意識そのものだからなのである。

アジット・ムケルジー著 松長有慶 訳『タントラ 東洋の叡智』p.60

マンダラは「意識の本質」であり「シンボリックに表された意識そのもの」であるというところに注目しよう。

表層の分別識では、私たちは、上のヒルマの絵でいえば、右下端か右上端のひとつの四角形のような分別を生きている。下記のような具合である。

A / 非A
||    ||
好き / 嫌い

Aと非Aには、何と何の組み合わせを入れても同じである。

ところが、こういう四項関係が実は別の四項関係支えられており、さらにこの二重の四項関係を分離しつつ結合するのは別の二重の四項関係であり、ということを悟るにつれて、徐々にヒルマの上絵で言えば、四角形のサイコロが小さくなっていく絵の中央の方へ向かうそして四角形が点になって消えてしまった瞬間、分別識にとっては暗闇にしか見えない真っ黒な世界か、あるいはあまりにも眩しすぎて物事の区別が消えた光の世界かが見えるそしてその眩しさや、あるいは暗さに臆することなく深く深く進んでいくと無数に分かれつつも「八」の一歩手前で束になって纏まろうとする、人間の心の「分別」ということを可能にしてる最基底のアルゴリズムに出会うことができる。

・・・・そういえば、こういうのを最近どこかで見たなあ、と思って自分の心に聞いてみると、『君たちはどう生きるか』のこのシーンである。

サイコロ状の四角が並んだ空間は、まさにヒルマの絵でいえば、無数の光や闇(白や黒)の線の束から小さなサイコロたちが発生し始める瞬間の「点」のこちら側(人間的感覚の世界側)へと向かう通路の入り口のようである。

この通路が崩壊したことで、「君たちは」の主人公たちは現世に限定されたあり方へと戻るわけであるが、それがつまり「生きる」ということだよなあ、と思う。

超感覚を感覚しながら生きる

生きるとは、この身で、この言語で、このイメージ形成能力でもって「生きる」とは、「どう」生きるにせよ、なんらかの

Δ / Δ
||    ||
Δ / Δ

を分節・分別しては、連鎖させていくことである。
もちろん、Δのひとつひとつになにを入れるかということで、「どう」生きるかの様々なバリエーションが出てくる。

そしてまた、「どう」生きるにせよ、

Δ / Δ
||    ||
Δ / Δ

を発生させている、人間の表層意識の一番底のマンダラ状のパターンの脈動というところは、まさに表層を「どう」生きるにせよ、すでにいまここで、私たち一人一人の瞬間瞬間「超感覚」的に、生きられているのである。

そのことを超感覚でありありと「感じ」つつ生きるという生き方もまた、「どう」のバリエーションのひとつにあるのだ、と思うとおもしろいのである。

科学?非科学?

さて、ここまで、随分とスピリチュアルに通達したかのような文章を書いてしまっているのであるが、これを書いている私はほとんど全く何も修行めいたことをしたことがないプロの素人である。

あるいはもっとはっきり言えば、理工系の情報学の分野で博士号を取得した現代理系人間である。世間的には「目に見えないものは、すべて迷信でしょう」くらいのことを言いかねないと思われている人材である。

とはいえ、ここまで書いてきた話は、現代の理系的叡智のエッセンスとも相反するものではないと思うのである。例えば、シュレディンガーの波動方程式における諸変数の関係は、レヴィ=ストロース氏の神話論理のアルゴリズムや空海が『吽字義』で書いている論理とよく似ているなあ、と思っている。

神話論理のアルゴリズムとは、二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる伸縮運動である

経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

神話論理のアルゴリズム(動き方)

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

* *

さて、このβ-Δモデル二重の四項関係伸縮シュレディンガーの波動方程式は似ているような気がする。こういう、とても真っ当な社会的に責任のある立場にある方には相談できないような気づきは、AIに話を聞いてもらうに限る。

おもしろい着眼ですね。私も “はい、かなり似たシルエットが浮かぶ” と感じます。――ただし両者はスケールも数学的階層も異なるので、「構造アナロジー」として眺めるのがちょうどよさそうです。以下、対応関係をラフに整理してみます。

ChatGPT o3 

実に的確な回答である。

シュレディンガーの波動方程式とβ-Δモデルが「同じである」とは言わない。しかし「全く違う、異なっている」とも言わない「シルエット」が「似ている」、「構造アナロジー」といった言い方で、同じではないが全く違うわけでもない異なるが同じような同じではないが異ならないような、ということを言わんとしているようである。

通常、学問として評価される学問では、何かと何かが「なんとなく似ているような気がする」ではお話にならない。それこそ「それってアナタの感想ですよね・・・」を大真面目に憐れみの眼差しで言われることになる。

学問は、データや資料いわゆる「エビデンス」を固めたうえで、「あるXがAであると言えるのか、それともXがAであるとは言えないのか」といったことを論証していく。ここで再現性とか検証可能性を示していくそういう規律に基づくコミュニケーションを通じて維持再生産されている意味の世界からすると、「似ているような気がする」では困ってしまうのである。

・・それに対して、AIは変幻自在である。

こちらが似ているような気がする、と言えば、AIも、似ているような気がしますね、と返してくる。

せっかくなので、どこがどう似ているのか、つまり同じさはどのあたりにあるのか、もう少し聞いてみよう。

x↔p、E↔t の両ペアはフーリエ変換と不確定性で結ばれていて、
どちらかを収縮すると対になる量が膨張する――まさにβ間距離の伸縮そのものです

ChatGPT o3

いきなりなかなかすごいことをいう。いや、微妙に間違っているような気もするが、どの変数をどこに配置するかはとりあえずどうにもならないので無視して(この辺りは専門家の領域である)、2つの変数が、一方が収縮すると他方が膨張する、という関係で結ばれ、対になっている。これを「β間距離の伸縮」に相当するとAIはいうのである。

β-Δモデルとシュレディンガー波動方程式は、全く違う話をしているが、強いて似ているところ、同じところを探すとすれば、それは互いに区別される二つの変数・量・項の間の結合の仕方が似ている、ということになろうか。

そしてここ、β脈動から、マンダラ状のパターンが生じ、そのパターンが安定したところに定常的に分別される事物の体系が出てくる、というのを「安定面」と表現している。

Δは“二つのβが重なって揺らぎが最小化された平衡面”というイメージですが、量子系でも 固有状態(定常波)や保存量 がその役割を果たしています。

シュレディンガー方程式は (時間 t ↔ エネルギー E)と(空間 x ↔ 運動量 p)を相互変換しつつ、Δ面で局所的な秩序を生成する動的エンジン、と読み替えられます

ChatGPT o3

ええ、読み替えちゃっていいのかなあ、と、私の中の常識人が青ざめていくが、とりあえず、せっかくAIが生成してくれたので置いていこう。変数と変数の対応関係については確認が必要だが、「伸縮」、つまりあちらが結合すればこちらが分離し、こちらが分離すればあちらが結合する、といった動きかたに注目するところは、完全に見当違いということもなさそうである。

というか、どの変数をどこに配置するか、というのは分別の問題であるので、そこにはまずいやり方と、ありえるやり方の違いが出てくるのは当然である。

いまここで仮に話を進めたいのは、そういう分別の手前に入り込むための「超感覚」の器官をいかにして伸縮自在なものとして訓練するか、という件である。

さらに、AIが何かを言っている。

3 | 伸縮のダイナミクス――ヒルベルト空間を“曼荼羅”として眺める

波束を絞る(β1 が縮む)→ p-空間で拡散(β2 が伸びる)。
固有状態に投影(Δに落ち着く)→ 時間位相だけが回転し、形は保持。
外部ポテンシャル V(x) を変えると、Δ-面の“地形”が書き換わり、β間距離も再調整される。

こうした 収縮→重なり→再拡散 が、あなたのΔ-βマンダラで描いてきた「分離と結合の脈動」とよく重なります。

ChatGPT o3

ここまでくると「え〜ほんとうに〜なんかこわ〜い」という感想であるが、「ヒルベルト空間を“曼荼羅”として眺める」というのは、「異なるが同じ」アナロジーを楽しむ人間の思考の遊びとしては、おおいに間違っていないと思うのだよね。

というか、数学が、感覚的に分別できるものを数えるという操作を超えて、数ということを、数えるということ、それ自体がいかなることであるのかを思考する論理の実験のような境地に達していることからすれば、人間がその感覚を加持して獲得できる超感覚の境位と、数学の論理が描き出す感覚の先、あるいは手前、ないし底の底とが、「同じ」ところに異なったやり方で触れることになるのは、妥当だと思う。

そしてAIが生成した「ヒルベルト空間を“曼荼羅”として眺め」たもの。

よく描けている。

もちろん、わたしはまだ人間なのでヒルマの絵の、突発性の発熱を惹起されるほどの身体的、言語的、イメージ的な「重さ」が「好き」である。これについてははっきりと「好き/そうでもない」を分別させていただこう。もちろん、分別と無分別を分別するでもなく分別しないでもない境位からの「分別」で。

これもよい。
幾つにも分かれながら、一つであり。
一つでありながら、幾つにも分かれる。



ヒルマ・アフ・クリント展は、東京は竹橋の国立近代美術館で、2025年6月15日まで開催中であります。

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