中沢新一氏の『0の裏側』と清水高志氏の『空の時代の『中論』について』をあわせて読む
2025年の新刊、中沢新一氏の『0の裏側』と、清水高志氏の『空の時代の『中論』について』を並行して読んでいる。
どちらも読みながら頷きすぎて首が転がり落ちるのではないかと思うほど面白い。どう面白いかといえば、例えば『空の時代の『中論』について』のはじめの方につぎのようなところである。
これは最初の大きな疑問だったのですが、なぜナーガールジュナはテトラレンマをたった四種類(八不)に絞ってしまったのか。ここで結論を言うと第四レンマは、「構造的に大きなこと」についてのみ語られれば充分なものだったのです。
「構造的に大きなこと」についてのみ語られれば充分。
まさにまさに、という感じである。
二項対立のどちらでもない
Aでもなく非Aでもない、ということは、言おうと思えばそれこそありとあらゆる二項対立について言える。
「暑くもなく寒くも無い」
「美味くもなく不味くもない」
「明るくもなく暗くも無い」
「好きでもなく嫌いでも無い」
といったパターンはいくらでも出てくる。
あらゆる言葉にはほぼ大概その対義語(反対の意味の言葉)があるのだから、二項対立のAでもなく非Aでもないはものすごい数が存在することになる。
ところで、日常的な言葉の使い方としての「好きでも嫌いでもない…」をよく考えてみると、なんというか単に「興味がない」とか「よくわからない」といった話をしているような感じになる。
Q「あふれる背脂で麺が見えないラーメンを、お腹に溜めるのお好きですか?」
A「好きではありませんが、嫌いでもありません・・」
といった具合に、「興味がないのでその話はやめましょうよ」と言いたいところを柔らかくメタ・コミュニケーションするときに「好きでもないし嫌いでもないです」というような感じのことをいう場合がある。
あるいは「Aでもなく非Aでもない」が、単に「Aでもなく、非Aでもない、第三のX」を呼び出しているだけのこともある。
こういうのと仏教でいう”二辺を離れる”のAでもなく非Aでもないとは、似ているようでかなりちがう。
離二辺(二辺を離れる)
仏教は、その歴史のはじまりにおいて、釈迦が二項対立の”二辺を離れる”よう呼びかけた。
例えば『スッタニパータ』の冒頭「蛇の章」の「この世とかの世をともに捨て去る」を繰り返すところなどがそれである。
一蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する 修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。―――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
さすがお釈迦様である。
「この世」はダメで、「かの世」がイイんだよ、とは言わない。
もちろん、逆に「この世」が素晴らしくて「かの世」はダメなんだよ、とも言わない。
「この世」と「かの世」を分けて、そのどちらを選ぼうか、などといったケチな小さな分別にこだわらないのである。
この世があの世に対して分別される限りでのこの世である限り、またあの世がこの世に対して分別される限りでのあの世である限り、そのようなものは二辺どちらも、蛇が脱皮した皮を捨て去っていくように、置いて行きなさい、ということである。
ものごとを二つに分けて、どちらを選ぼうか汲々としたり、選びたくない方を無理やり選ばされたと怒ったりすることこそ、人間の生きる「苦」の正体である。分けて選ぶことから離れるならば、苦しみは、いや、苦/楽の分別も消える(細かく言えば、分けることと選ぶことはよく整理して考えるとおもしろいところである)。
この世 / かの世
|| ||
捨て去る 捨て去る
* *
ここで釈迦がすごいのは「この世とかの世とをともに捨て去る」に続けて「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなもの」と言うところである。
「この世とかの世とをともに捨て去る」だけだと「ああ、この世はダメなんだ、ああ、あの世もダメなんだ」と、あの世なるもの、この世なるものを、なんというか否定すべき破壊すべき消し去るべきもののように思って、その捨てるということをいかにして完全に遂行するか、その捨て方をどうするべきか、「捨てなきゃダメだ、捨てなきゃダメだ」といった想念で頭の中がいっぱいになり、そのこと自体に拘り、執着することになりかねない。
つまり「捨て去ること」が良いことで、「捨て去ら(れ)ないこと」が悪いことだ、という分別が効いてしまうのである。
捨て去る / 捨て去ら(れ)ない
|| ||
良い / 悪い
|| ||
選ぶとよい方 / 選んじゃダメな方
こういう感じは大拙の言葉を援用すれば、いかにも分別知性的で霊性的ではない。
釈迦はこうなることはお見通しで、そうであるからして、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るような」具合にして、ただ転がしていく、置いていく、放っておく、という。
存在に対する非存在の極に追いやる…とか、あの捨て去り方とこの捨て去り方のどちらがよいのか…とか、本当に捨てられたのだろうか…(捨てることができているのか、捨てることができていないのか「どちらか?!」)などという新規の「二辺」を妄想分別する必要がないように、「この世」も「かの世」も、そのまま、それはそれとして、蛇の抜け殻のように残しておいて、引き続きその周辺でうろうろと暮らしていればよい。
つまりここでは「二辺を離れる」と言ったところでどうしても残響してしまう「離れる/離れない」の分別、この二辺について、「離れるでもなく、離れないでもない」ということをするのである。
* * *
そうであれば、はじめから「この世とかの世とをともに捨て去るような捨て去らないような」といっても良さそうなものだが、しかしこれでは優柔不断な選べない人、選<ば>ない人ではなく選<べ>ない人に見えてしまって、結局そこに第三の何か、この二辺とは別の二辺の一方である第三の何かを、本当に選ぶべきものとして呼び込んでしまうことになるのだろう。
そういうわけで「捨て去る」という述語で分離したあとに、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなもの」ということで、分離はすれど、まだそのあたりに転がっている程度にはほどほどに結合したままになっている状態に引っ張り戻してくるのであろう。この絶妙な分離しながら結合しておく述語の素朴な様相は、悟りを開くとはこのようなことかと思わせるものがある。
◇
ある/ない、生/滅、因/果、異なる/同じ
龍樹は、この「二辺を離れる」を、ありとあらゆる可能な二項対立の無数のバリエーションについて唱えるのではなくて、わずかに「たった四種類」、生れると/滅する、常(永続的にあること)/断(なくなっていくこと)、一(分かれていないこと)/異(一ではなく多に分かれていること)、来/去に対して行う。

これらの二項対立のどちらか一方だけを選ぶことをせずに、不生不滅、不常不断、不一不異、不去不来をさとることが重要である。清水先生はこれら四つの”二辺を離れる”を「構造的に大きなこと」と表現されている。
「構造的に大きなこと」
こういう「構造的に大きなこと」の二辺を離れておけば「充分」であるというのは、すなわち、他のありとあらゆる二項対立も、たいがいその「構造的におおきなこと」に煎じ詰めて二辺を離れることができるからである。
「八不」が離れようとしている二辺は、
原因 / 結果
有る / 無い
といった、およそ人間がものを考える時には避けて通ることができないような、根本的で基本的な二項対立である。
例えば、暑いのが嫌いで、寒いのが好きだとか、寒いのが好きで暑いのが嫌いだ、などと語っている際には、そもそも「暑いということ」が「有る」ということは前提されているし、「寒いということ」が「有る」ことも前提されている。
有るが前提とされているということは、つまり有ると有るではないこと、すなわち「有/無」の分別がされていることが当然のように前提になっている。
同じように、
内/外
生/滅
異なる/同じ
前/後
遠/近
原因/結果
増/減
容器/中身
といった「大きな」二項対立が、私たちが自分たちの周囲の世界について理解し、経験し、意味づけ、言語的に思考したりイメージしたりする時には、当然のように前提として分別されている。
* *
ちなみに、生ている人間の経験的世界を分節する上で、もっとも強烈で揺るがしがたく効いている代表的な分別が「内/外」と「容器/中身」の分別である。この「内/外」と「容器/中身」の起源について(つまりこの分別が未だ分かれてきていないところから、分かれてくるに至る経緯について)
、言語でもって思考しようとする「野生の思考」の論理を辿っているのが、レヴィ=ストロース氏の『やきもち焼きの土器つくり』である。
『やきもち焼きの土器つくり』は非常におもしろいので、冒頭の一節をご紹介しておこう。
『日本書紀』によれば、神の裔でありながら人間でもあった天皇の初代となる神武天皇は、九州を発って大和征服に赴き、その途上夢を見た。夢のなかで、天の神は神武に、天の香具山の頂き ――それは上界と下界のあいだにある――からとった植で八〇の鉢(瓮)と八〇の瓶を作り、天の神と地の神に供儀を行なえば、勝利を約束すると告げる。ところが、アメリカ・インディアンの神話も傍証するように、苦労なしに陶土を入手できるということはありえない。ここでは賊(すなわち神武に敵対する人びと)が山への路を閉ざしてしまうのである。そこで、神武の味方となった者二人が農民の老夫婦に身をやつし賊を欺く。賊は、老夫婦と見てあなどり、通行を許すのである。二人は植を持ち帰り、神武は告げられたとおり手ずから鉢と瓶を八〇ずつ作りしある川の源近くで天の神と地の神へ生贄を献げる。そして占いは、天の約束を確認する。この占いの試しは、アメリカ 研究者にとってまた別の興味をよぶ。それが、南アメリカそして東南アジアで行なわれる「毒による」漁法と呼ばれるものに、不思議なほど似ているからである。
ここは建国神話の要になるところで、要するに、天/地(上/下:垂直方向)の対立に、この神話を語った人々が生きることのできる領域とそうでない領域との対立を重ね、また、地上世界の水平平面上にもこの神話を語った人々が生きることのできる領域とそうでない領域との区別を重ねようというくだりである。
地 / 天
|| ||
人が生きることのできる領域 / そうでない領域
|| ||
自分たちの土地 / よその部族の土地
生られる意味ある世界が未だないところからあるようになってくる経緯を語るところで、容器/中身、内/外を「分ける」働きを象徴する容器(土器)を制作するということ=動き(述語的様相)が出てきている。
◇ ◇
悟りを開くということは、このような現世の経験の全体を構築する部品の最小単位のようなものになっている二項対立の絡み合い(構造)を、ガチガチに固めてしまったままにしておくのではなく、すこし柔らかくしておきましょう、といったことである。
もちろんそれは、焼成した土器を粘土に戻すような、膨大なエネルギーを必要とするわけであるが、人間の心はまさにそのエネルギーに満ちているのである。
これが二項対立のを分けるでもなく、分けられたどちらか一方を選ぶでも無く選ばないでもない、という「二辺を離れる」境地である。
その時、人の心は自在になるのである。
不生不滅
八不のうちの不生不滅は、ものごとの変化、つまり原因があって結果が生じる関係を原因という項とイコールで置き換えられる何らかの項に固定してしまわない、ということを言っている。
「「八不」に実際に戻っていただくと、まず「不生不滅」ですよね〔編註:第一章の結論でAが生じることの原因は、Aと非Aのどこにも無く循環の中にしかないという第四レンマが見出された〕。 これはどこかで生じたとか滅したとかいうのではないということです。その間しかないという構造です。
不常不断
また「不常不断」では、「ある」/「ない」の二項対立が問題になっている。
「不常不断」というのは、これも「有」と「無」の間の大きな構造ですから、「不常不断」をここで言ってしまったが故に、何があるとか何がないとかいう「何」を主語化して命題を作るのは蒸し返しになって意味がない、もう成立しないということで、第一章の一〇(前述) では、普通の縁起の捉え方〔編註:ボトムアップ的縁起〕をみんな否定してしまいました。」
ある事柄について、それが「あるのかないのか、どちらか」といったことを考えるのは、まさしく二辺を離れていない、二辺に執着するあり方である。
究極の「原因としてある”もの”」?
私たちはあるとかないとか、原因とか結果とかの二項対立を区切り出して(分別して)、そして原因項や結果項、「ある」項や「ない」項を「主語化」する。
そしてさまざまな・ありとあらゆる述語をその主語的なものに起因する動きとして語ってしまうのであるが、こうした「主語化」される主語のうちもっとも強力なのは、ありとあらゆるものごとの究極の「原因としてあるもの」であろう。
人類はこれまで、究極の「原因としてあるもの」をめぐっていろいろなことを考え語ってきたわけで有るが、そもそも主語的な「原因としてあるもの」について語ったり問いを立てたり答えを捻出したりすることができるためには、前提として原因/結果、ある/ないといった分別をしているよね、ということを龍樹は指摘しているのである。
主語が非主語と区別されて、ないでは無く、あるのでなければ、「究極の原因となる主語(主体)は何か?」などという問いは言説しようもないはずである。
空
ここで「空(くう)」である。
空とは、この原因/結果、ある/ないといったことをはじめとする、ありとあらゆる分別そのものがあるようなないような、あるでもなくないでもないところを言葉に託したところのものである。
空は「ない」ではない。空は「ない」とは違う。
この場合の「ない」は「ある/ない」の二項対立を分別したあとに選ばれた一方としての「ない」であるが、空はそういう「ある/ない」の「ない」とはちがう。空は「ある/ない」を分けるでも無く分けないでも無く、どちらか一方だけをえらぶものでもない。
空は分けると分けない、分別と無分別の分別からして、分かれているような分かれていないようなところである。
分別 / 無分別
これも二項対立である。
不一不異
八不の「不一不異」がこの分別と無分別の二項対立を離れるように呼びかけている。すなわち「不一不異」の「一」は分かれていないこと=分別に対する無分別であり、「異」は分かれていること=無分別に対する分別である。
空は、分別/無分別の分別における無分別の極を指し示す言葉ではない。
空は、分別と無分別の分別を”する”でもなく”しない”でもない(する/しないも分別である)。
このような感じで、「空」について言語で語り思考しようとする場合、不生不滅、不常不断、不一不異、不去不来という、二項対立関係を四つ集めて、全部で八項とし、その八項のいずれもを他の項の「原因としてあるもの」の位置に固定しないというやり方を用いるのがエレガントである。

分節システムである言語を転用(ブリコラージュ)して空を語る
言語というものは二項対立・分別を最小構成単位のスイッチとして組み立てられた人工知能のようなものであるのだが、その二項対立の切り替えシステムを高速でオンオフさせて、オンオフどちらか一方の状態に固まらないようにしておくことで、言語を用いながら空とか「法界」と呼ばれるあれをシミュレートすることができるようになるのである。
実際にはさまざまな二項対立的な特徴と、それらの組み合わせの変化によって世界の多様性を人間は認知しているし、たとえば神話的に世界を人間が語る時もそういう風に、そうした二項対立性が単一でなく複数重ね合わされて、そしてその組み合わせが変化していくことで、特定の始点に還元されるのではない、世界の構造が物語られたりします。たとえば 神話の世界の中だと男というものがいると女というものが対比的に出てくる。すると次には第三レンマ的に両方の性質をもった両性具有者というのが語られ、さらにそれとは違う無性者という性別のないものが出てきたり、いろんな風にヴァリエーションが展開される。
清水先生がここでレヴィ=ストロースの『神話論理』にあるような、神話の話を引かれているのがとてもおもしろい。
神話論理
クロード・レヴィ=ストロース氏は『神話論理』の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
区別(分別=二項対立)を「つなぎ合わせて」人類は思考する。そのつなぎ合わせ方、繋いだり、切り離したり、また繋いだり、また切り離したりする運動が、さまざまな「心」のあり方を形つくったり、やわらかく浮かび上がらせたりする。
こうした「心」の伸縮する様子については、空海の『秘密曼荼羅十住心論』がとても詳しい。『十住心論』は難解だが、先に同じく空海の『吽字義』をまず読んでおくと、読みやすくなると思われる。
十住心論を文庫本で手軽に入手していつでも読むことができるとは、とんでもなく恵まれた時代に生まれたもので有る。
また『吽字義』については、清水先生の『空海論/仏教論』の第二部が、『吽字義』を一言一句全部読むところになっているので、ぜひ参考にするとよいところである。
*
レンマ的な数としての「0」
さて、ここでちょうど手に取った中沢新一氏の『0の裏側ー数学と非数学のあいだ』の「0」もまた、この「空(くう)」のことなのである。
数学の「数」は、日常的にはものの数を数える道具になっている。
皿が、いちまい、にまい、さんまい、よんまい・・・という具合である。そういう数のことを中沢氏は「数え上げるための「自性を持つ数」」と呼ぶ。
通常の数え上げるための「自性を持つ数」は、お互いを関知しあいません。ところが縁起によってつながりあっている「自性を持たない」レンマ的な数は、お互いを関知しあっています。そのためどんな「一」も、自身の中に無尽(無限)を内包することになります。カントールは彼の無限集合論を創造していたときに、ここで注蔵が言っている「自性を持たない数」に限りなく接近していました。
数え上げる数は、お互いに関知しない。
つまりはっきりと分けられ、繋がっていないようなことになっている。
ところが「数」は、そういう「通常の数え上げるための「自性を持つ数」」だけではない。「数」には「自性を持たない」レンマ的な数ということもある。現代の数学では、そういう「自性を持たない」レンマ的な数のことをいかにして数学の記号システムでもって表現しうるか、といったことが追求されているという。
レンマ的な数
レンマ的な数は、「縁起によってつながりあって」おり、「お互いを関知しあって」「どんな「一」も、自身の中に無尽(無限)を内包する」ようになっている。つまり一枚目の皿が「1」であることと、2枚目の皿が「1」であることが別々のことではなく、互いに入り込みあい、包み込みあい、繋がりつつもわかれわかれつつも繋がる、「縁起によって互いに相即相入」している。
これから私たちは、日常生活でも数学者の世界でも常用されている「自性を持つ数」のことをたんにnumber」と呼び、縁起によって互いに相即相入しあうことによって無尽のつながりを形成している「自性を持たない数」のことは、「人間もどきアンドロイド android」を模して、「ニュメロ イドー数もどき numeroid」と呼ぶことにしましょう。
中沢氏はニュメロイドについて「ニュメロイドは自分の内部に無尽を内包しています。「一」の中に無数の「多」が畳み込まれ、自身の力用によってたえまなく相互作用をしています」とも書かれている(p.15)。
一の中に無数の多が畳み込まれる。
一即多にして多即一。
これは八不でいう「不一不異」に相当するだろう。
『0の裏側』の後半では、数学者の岡潔の思考を例に、「一」を飛び出して「不一不異」を扱おうとしてきた現代の数学の思考の姿が明らかにされる。
レンマ
ところで「レンマ」の知性とはどういうことだろうか。
中沢氏は「レンマ」について次のように書いている。
ロゴスが言語と一体となって、あるいは言語を通して、表立った活動(顕在的活動)をしているのにたいして、このもう一つの異なる知性というものは、潜在空間からの働きかけしかしないので、まるで実在していないもののように思いなされている。そういう知性にたいして、古代ギリシャ人は「レンマ」 という名前を与えた。
レンマはロゴスに対する概念である。
ロゴスもレンマもどちらも人類の「知性」のあり方である。
ロゴスというのは一言でいえば分別する思考、分けて選ぶ手続きをかっちりと固める知性である。分けて選ぶこと。そこからいわゆる(1)同一律(2)矛盾律(3)排中律といった規則が浮かび上がってくる。
人間の知性は多くの場合、日常的にはこのロゴスだけで事足りるというか、ロゴスばかりを頼りにしているので、レンマの知性の方は疎かになりがちである。レンマの知性は「実在するのに、実在していないよう」なことになっている。
とはいえ、私たちがすっかり忘れて気づいていないにしても、レンマ的知性はいま、この瞬間にも、私たちの「心」の底に隠れて動き続けている。
レンマ的な知性は、それを実在として取り出すことはできないが、私たちの心の働きを完全なかたちで理解するためになくてはならない心的作用の概念である。 レンマ的知性は「直観」と呼ばれるものと多くの共通点を持つ。私たちは日常で直観を働かせながら生きているが、この直観はものごとを言語のように線状的に並べて理解するのではなく、一気に、まるごと把握するやり方で理解するのである。
例えば「直観」というのは私たちが普段からよくやっていることである。
ものごとを要素に分解して、その要素を並べて組み立てて理解するのではなく、「直観的」に、言語化しようと思ってもうまく言えないが、とにかくこれはこうなんだ、これはあれなんだ、といったことを私たちは感じたり言ったりすることができる。そういうところに「レンマ」の知性が働いている。
直観の働きにおいては、「分別」を構成する論理的な規則の多くが解除されている状態で、認識がおこなわれる。「分別」を構成する論理的な規則として、(1)同一律(2)矛盾律(3)排中律の三つをあげることができるが、直観はこれらの規則を解除した状態で、世界認識をおこなう。そうした直観のもつ多くの特徴が、レンマ的知性に共有されている。
直観においては、(1)同一律(2)矛盾律(3)排中律というロゴス的な知性の「分別」を支えている規則が「解除」されていることがある。具体的にいえば「好きだけれども嫌い」、「嬉しいのにモヤっとする」などといった感じになる時、そこにレンマ的な知性が顔を出しているといえよう。
法界はレンマ的な数に満たされている
ここで先ほどの「ニュメロイド」は、このようなレンマの知性の動き方そのものをあらわしている。
分別的な知性(ロゴス的知性)の空間を満たしているのは「数」ですが、真如をとらえることのできる無分別的な知性(レンマ的知性)だけでつくられている法界の空間はニュメロイドによって満たされ、ニュメロイドにふさわしい結合法則によって、 運動したり変化したりしています。
ここで中沢氏がレンマ的知性を「真如をとらえることのできる無分別的な知性」と言い換え、またそのレンマ的知性が「法界の空間」をつくりだすと、さらりと書かれていらっしゃるところが素敵である。真如法界ってなんや、という方は、中沢氏の『精神の考古学』を読んでいただくとよい。
ここで中沢氏は「法界の空間」が「ニュメロイドによって満たされ」ており、そして「ニュメロイドにふさわしい結合法則によって、 運動したり変化したり」している、と書かれている。
例えとして適当かどうかわからないが、強いて下記の図で絵ときをすると、通常の分別する数というのは、図の左上、細く伸びた一本の線の先端にまるで囲んで1と表記したところである。線が途切れる先端である。一方、「ニュメロイド」はこの図でいう線である。

ここで「ある一つのニュメロイドは、この図における、どの線のどこからどこまでの線分であるか」といったことは論じようがない。線は複数に分かれている。線たちは区別できないのっぺりとした「一」ではなくて、多に分かれている。しかしそれでいて、分かれながらも全ての線たちは絡み合いつつ、その絡まり方は均質でもなく、まったくのランダムでもなく、ある種のパターンを浮かび上がらせている。
そこにはなにか「マンダラ」のような姿を浮かび上がらせる動きを脈動させる「結合法則(分離と結合を分離したり結合したりするパターン)」を読み込むこともできる。このいくつもの線に分かれつつ全てが絡まり合って美しい(と人間の心がしる)全体像こそがニュメロイドである、と読んでおこう。
「華厳五教章」は驚くべき思弁を展開しています。その思弁を私なりに現代的に解釈してみますと、力用の相入によって起こる法界空間の振動には、振動数の間に特別な結合法則がなりたっている、という主張になります。
法界は「振動」している。
そしてその「振動」同士の結合法則、つまり共鳴したり共鳴しなかったりするという区別がある。共鳴するところは振幅が増し、共鳴しないところは逆に振幅同士が打ち消しあって消しあう。こうして線として浮かび上がる場所と浮かび上がらない場所が図にみえてくる。
多様な共鳴体
法蔵は法界の縁起世界においては、動と不動の矛盾的自己同一が実現されていると考えます。異なる振動数を合成しても、かならずこのマトリックスのどこかにその合成された振動数を受け入れる場所があり、マトリックスの内部でたえまなく生起している無数の作用をつうじても、マトリックス自体は変化しません。
振動数の合成というイメージから、マトリクスといういわば数学の「マンダラ」を用いた記述の可能性が浮かび上がってくる。
法界の振動ということは、もちろん数学で表現しなくても、言語で表現しなくても、それこそ身体を用いた行法によって直観することができる。
それと全く並行して、言語や、数学の記述技法を用いてこの法界の振動から生じるパターンを意識の表層に浮かび上がらせることもできる。
カラダとアタマ、どちらで共鳴するのがよくて、どちらはダメか…といった分別に思い悩むことはないのである。得意な方をたのしめばよいのである。例えば空海などはその両方を極めて巧みに実践できる天才であると思う。
異なるが同じ。イコール
こういう法界の振動の結合法則のような「数」が、通常の経験的な分別する「数」をも支えている。
数学というのは、異なるものを、同じとみなす技術である。
中沢氏はポアンカレの言葉を引用しつつ、次のように書かれている。
位相空間のホモロジー理論を創始したポアンカレは、「数学とは異なるものを同じとみなす技術である」という言葉を残している。技術とは質料(マテリアル)を形あるものにつくりなす操作のことを意味している。粘土を鋳型に押し込んでレンガをつくる作業などがその代表である。粘土がレンガに変形されることによって、家を建てる建築素材が出来るのである。数学の場合は、「同一視」の操作がそれをおこなう。
同一視の操作。イコール「=」である。
別々に異なっていること同士の間に、同じさを見つけるのである。
表面的には異なって見えていることが、実は同じである、と。
学校の数学の試験などは全てそうだが、数学というのは、最初、まったく異なる姿をしているようにみえる右辺と左辺のあいだに「イコール」が成り立つことを証明していく手続きである。
いわゆる「数学が苦手な人」のなかには、この”違うのに同じ”ということがどうも気持ち悪いというか納得できない、という方がけっこういらっしゃる。
たとえば
4
と
16
二つの数字が並んだとき。
16の中に4が隠れているのを感じ(16=4×4 である)、また4の中に潜在的に16になる可能性を(4が四つで16である)を感じる。そういうタイプの直観がふっと訪れるタイプの人は、ほとんど何にも勉強をしなくても、数学が得意だったりする。いわゆる自/他境界が激しく動くタイプのギフテッドの人の中には、しばしば数学が得意という人がいらっしゃるが、これはおそらく、数学が「異なるが同じ」をくるくると切り替えていく技なのだということを幼い頃に「ハッ」と感じる経験があったということなのかもしれない。いや、頭でそう理解しているというよりも、無意識にそう感覚しているのである。
中沢氏は次のようにも書かれている。
異なるものの間に同じものが隠されているのを発見できる時、その異なるものを同じとみなす知的な操作が可能になる
この異なるものを同じとみなす知的な操作を可能にしているのが、他でもない、ロゴスの知性とレンマの知性のハイブリッドなのである。

分けるでも無く分けないでも無く
ロゴスで分けて、その分かれたところをレンマでつなぎ、またロゴスで分ける。伸縮自在に二つの事柄をくっつけたり離したりする。
直観がとらえる世界にはまだ「数」という個体性もなければ、等号で結ばれる「同じもの」も存在しない。そのようなあらゆるものが異なっている世界には、豊かな数学的世界はつくることができない。異なるものの間に同じものが隠されているのを発見できるとき、その異なるものを同じとみなす知的な操作が可能になる。数学とはその操作を巧みに使って、一つの世界をつくるための技術なのであると、ポアンカレは言うのである。じっさい彼が創始した位相幾何学(トポロジー)くらい、この「異なるものを同じものとみなす技術」 としての数学の本質をあらわに示しているものも少ないだろう。
何かと何か、AとΒとが「異なっている」といえるためには、とにかくまず、AとΒを区別する、分ける、分別することができなければならない。人間であればその分別をさまざまな感覚器官や神経のネットワークが処理している。
この分別を重ねていくところに「ロゴス」的知性が形をとる。このとき、ロゴスロゴスだけで感覚神経の端から端までを支配しているのではないことに注意しよう。
ロゴスのかっちり分ける働きは、実はレンマの”分けると分けないを分けるでもなく分けないでもない”振動を通じて、その振動たちの重ね合わせのパターンのようなものとして浮かび上がってくるのである。
*
言語もまた、異なるが同じ
ロゴスとレンマの二項対立もまた、もともと不可分一体で複雑に脈動している人間の「心」の動きのことを、それ自体が二項対立関係を重ね合わせた分節システムである「言語」でもって記述しようとする際に、便利に使えるペアなのである。ロゴスとレンマの関係について、中沢氏は次のように書く。
ロゴス的知性は事物間の「異なるもの」を認識する能力として、「分別」の働きをおこなう。この働きは人間の神経組織の構造に基づいていて、その組織の中を流動しているレンマ的知性に制限を加える。レンマ的知性は時間の線状性によって秩序立てられていない、方向性の限定を受けない全体的知性(仏教ではこれを「無分別」と呼んでいる)であるので、神経組織を通過して いく刹那ごとに限界づけを受けて、線状的なロゴス的知性に変換されていくことが考えられる。
時間の線状性(線形配列)によっては秩序づけられていないレンマ的知性が、私たちの「神経組織」がそうなっているニューロンの連鎖構造の中で起きる信号発火のタイミングの遅延によって「刹那ごとに限定づけ」される。そうして時間的な順序としてのリニアな言語が発生してくる。
レンマとロゴスは不可分一体の知性であるが、その中で特に、長く一直線に伸びて連なっていく神経が生えていくところに、特にロゴス的な分別が際立ってくる。
とはいえこのロゴス的なリニアな系統もまた、不可分に絡み合ったレンマ的知性(分かれているでもなく分かれていないでもない全体的なつながり)から生えてきているのである。

四組のAでもなく非Aでもない
ここで『0の裏側』の 179ページに掲載された「図11」を見てみよう。

この図は三宅陽一郎氏による「解説」に掲載されたもので、現代数学の理論の展開をまとめたものである。すなわち、図の1番下の(1,0)と書かれたところは、0と1、 二項が決して混じり合わないように排中律で分離されたロゴスの世界であり、数学はもともとこの領域のものごとを扱ってきた。
それに対して現代数学のいくつかの領域では、ロゴス的な排中律を解除していくことで、0と1のようにロゴス面では分離されている事柄が、別の世界から見ればつながり合ってもいる、ということを考えるようになった。
世界に存在するものごとは「華厳の世界」のインドラの網のように、互いに別々に分かれながらもひとつにつながっている。「異なるが、同じ」である。この華厳的な分かれながらも互いを写し合う「異なるが、同じ」ということを数学の記述システムで表現したものの一つが図中にある「ヒルベルト空間」ということになろうか。
私は残念ながら現代数学には疎いのだが、この図をみて、ふと思い出したのが、ここ最近私が『神話論理』を読むためのナビゲータとして使っている下記の図である。

神話はその語りの終わりで、この図のΔ1〜Δ4を分けつつも過度に分離しすぎない程度に結んでおいて、マンダラ状のパターンを描き出すことを目指す。そこにいたるために、まずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。それらは経験的感覚的な二項対立のどちらでもあってどちらでもないという姿をイメージできるようにしたものである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。
先ほどの三宅氏によるヒルベルト空間の図は、このβ四項の関係とそっくりである。数学と神話論理、そして空海が『吽字義』に書いているようなマンダラのアルゴリズムは、いずれも言語、つまり二項対立関係を重ね合わせる技術を応用して、二項対立関係が発生してくる動きを記述してみようという試みである。
言語の喩的機能、意味すること
中沢氏は「アーラヤ識」という用語でもって、ロゴスとレンマがハイブリッドになって動いている心の局面を捉える。
大乗仏教では、(前ロゴス的知性ともいうべき) レンマ的知性がロゴス的知性への間断なき変換を続けている、 この混成的な心的空間を「アーラヤ識」と呼んでいる。このアーラヤ識において、「異なるものを同じものとみなす」心的操作が作動している。数学という知的な「技術」は、まさにこのアーラヤ識の働きに、深く根を下ろしているのである。
中沢氏はこの「アーラヤ識」を「無意識」とも言い換える。そして「人間の言語はその基本構造を、このアーラヤ識空間の中で塑形される」という(p.30)。
あらゆる言語は、ロゴス的構造とレンマ的構造の結合からなる「アナロジー (類比的)」の機構を備えることになる。アナロジーではあらゆるものが、似ていると同時に違っている。「異なるもの」でありながら「同 じもの」でもあるのである。メタファーやメトニミーのような言語の喩的機能が、そこからつくられる。
言語の意味分節システムもまた、数学の「イコール」と同じように、「異なるが、同じ」をアルゴリズムにして形成される動的構造体である。
メガネをかけている先生に「メガネ」というあだ名をつけて、先生のことを「メガネ」と呼ぶ。
メガネに足が生えて歩いたり、 メガネが受講生全員に赤点をつけたりするわけではないのだが、その先生は「メガネ」である。
このように言葉は、感覚的経験的には異なるものとして区別される事柄を、あえて結びつけて置き換える。
意味するということは「異なるが、同じ」を作り出すことである。
Aの意味はΒである、というとき、私たちはAとΒの区別を区別しつつ、この区別されたAとΒが別々であると知りながら、それをイコールで結び、一方を他方に置き換えるのである。
そうしてアナロジー、豊かな比喩の詩的な表現を編み出していく。
* *
とはいえ、人類は特にこの数百年ほど、ロゴス的な安定した分節システムが実はロゴスとレンマのハイブリッド、ものごとが分かれているでもなく分かれていないでもないところから蠢き浮かび上がってくるということをすっかりスキップして、出来合いの分節システムを丸暗記(本を脳にコピペ)するほうが楽!とやってきたのである。
「大きな構造」、非同非異
さて、ここで中沢氏も龍樹の『中論』にふれている。
通常の思考は、ロゴス的思考の「正しさ」を支える論理規則にしたがっておこなわれる。そこから論理的に正しいとされる命題が立てられる。大乗仏教初期の巨匠である龍樹は、あらゆる論理的命題が「実相においては異なるものを同じとする」誤った思考であることを、「中論」において証明してみせた。龍樹は思考が誤って「同じもの」とみなしているもののすべてが、実相においては「異なる」ものであることを示そうとした。ここにおいて、大乗仏教の思想的 な基礎が、哲学的に固められたのである。
龍樹は『中論』で「あらゆる論理的命題が「実相においては異なるものを同じとする」誤った思考であること」明らかにしようとしたという。
通常の思考は、端的に経験的感覚的に区別され対立しているような姿で現れたものたちを、Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり、Δ3はΔ4であり…という具合に線形に繋いでいく。そうして繋いで行った先に、あらゆる物事の究極の「原因としてあるΔ」のようなものを持ってきて論を閉じようとする。
そういうΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ…の線形配列をどこまでも連ねたかと思えば、不意になにか適当なΔ(「原因としてあるΔ)なもので、ぷつりと-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ…の連鎖を切ってみたりする。
このような思考のやり方では、「二辺を離れる」釈迦の悟りには近づけないよ!と龍樹は訴えたかったのである。

ここで中沢氏は、先ほどの数学と龍樹の仏教思想を比較する。
徹底したレンマ的思考で知られる仏教では、数学とは反対に、「同じものが異なるものであることを見出す」特殊な論理学が発達している。[…]個物は個物として自律しているのではなく、他の諸物と相依相関してつながりあっていることを説く縁起の思想は、個物の「同一性」を否定する。一見すると同一に見える個物どうしも、詳しく見てみれば、それぞれが縁起の寄り集まりとしてできており、その寄り集まりの様態は相互に異なっている。「同じ」と見えるのは、事物の表面の様子にすぎず、実相(リアリティ)においては「異なっている」。分別する思考は、その「同じ」ところをとらえて同一性を考え、その同一性に定まったなにかの「概念」を与える。仏教はこのような「実相においては異なるものを同じとする」思考を、分別的な、すなわちロゴス的思考として否定するのである。
数学は「異なるもの」を「同じ」と置いていく思考である。
それに対して仏教は「同じもの」を「異なるもの」と捉えていく。
ロゴスとレンマがハイブリッドになった思考においても、そのロゴス面で論理を組む時、同じと異なる、どちらが先で、どちらが後か、この順番の違いはけっこう重要である。
どういうことだろうか。
同じだが異なる
仏教では、私たち人類が感覚的経験的に「分かれている」と感じてしまうあれこれのものごとが、実は「個物として自律しているのではなく、他の諸物と相依相関してつながりあっている」と考える。いわゆる”縁起”ですべてものがつながり合い共鳴しあっている、という考えである。
そこでは個々の事物、Δ、経験的感覚的に他と区別されて端的に「ある」ように思われる事柄、個物のそれ自体の即自的実体としての「同一性」(自性)は否定される。それ自体としていつもつねに「同じ」であるようにみえるありとあらゆる事柄が、実は多様に異なった事柄の「縁起」の集まりである、とみる。これが同じだと思われたものが実は多様に異なっている、ということである。
「同じもの」はないとなれば、個物はそれ自身で自律しなくなる。たえず他のものと相依相関によってつながり、個物は背景から分離できなくなる。そのとき古典論理で重要な働きをする「排中律」が、 働きを停止する。排中律はAと~Aの中間を排除する規則であり、それによって個物の同一性が保たれるようになる。しかしその同一性は、分別的なロゴス的知性によって「仮想」されたものであって、リアリティ(実相)ではない。
同じだが異なる、ということによって物事の自己同一性が解かれたところで、「排中律」が停止する。排中律は「AはAであって、非Aではぜったいにない!」といえるからこそ成り立つのであるが、Aの自性、それ自体として外部から完全に分離された自己同一性のようなことが「ない」のであれば、Aは非Aと分かれているでもなく分かれていないでもない、というあいまいな感じになる。
*
異なるが同じ
数学は、私たち人類が、経験的感覚的に端的に他と区別されて「ある」ように思われる事柄から出発して、それらの間に「同じさ」を発見していく。
古典的な数学では、この「異なるが、同じ」は、ロゴスの論理、(1)同一律(2)矛盾律(3)排中律に反しない範囲で用いられる。
つまり「1+1=2」という形の異なるが同じは成り立つが「1+1=1」という「異なるが同じ」は成り立たない、とする。
ところが、そもそも数ということ、数を数えるということは、なにをしていることなのか、といったことを考えようとする現代の数学では、排中律を解除しても成り立つような記述のシステムが求められてきている、という。
そこで数学は、”同じだが異なる”の、不一不異のアーラヤ識の脈動、分かれていないが分かれつつあり、分かれつつあるが分かれていないゆらぎへと接近してくる。
ここでもまた一と多、同一性と差異性、同じであることと異なっていることの二項対立という「大きな構造」が重要になる。
一と多が相即相入の関係をもって一体につながっていることを、「即」という漢字でつないでいる。 […]この「即」という表現 は、サンスクリットにおける「不二(アドヴァイタ)」の考えと深い関係をもっている。「不二」は、対立するものが二つに区別され対立しあうものでないこと、無差別平等のもとにありながら差異を保っていることを表している。鈴木大拙による「即非」や、西田幾多郎の「矛盾的自己同一」などの概念もこれに近い。いずれにせよ「即」は、「同一性」と「差異性」を一体にした、論理化するのがきわめて難しい概念である。
私たちはつい、「同じである」と言われると、「ああ、異なっていないのだ」と思いたくなるし、「異なっている」と言われると「ああ、同じではないのだ」と思いたくなる。
しかし、そのように思うとき、私たちは知らず知らずのうちに一/多、一か異かの二者択一、区別がないことと区別があることを、分別して、どちらか一方を選ぼうとする処理を動かしている。この動きが動いていることを忘れて、勝手に動くがままにしておいては悟れないよね、というのが龍樹の話である。
不一不異
上の中沢氏の言葉でいえば「無差別平等のもとにありながら差異を保っていること」。
鈴木大拙の「即非」の論理や、西田幾多郎の「矛盾的自己同一」も、この分かれながらも繋がり、一つに繋がりながらも多様に分かれている、ということを言わんとしているのだという。ここには書かれていないがレヴィ=ストロース氏の『神話論理』も同じである。
上の引用にある「「即」は、「同一性」と「差異性」を一体にした、論理化するのがきわめて難しい概念である」というところを肝に銘じておきたいところである。
人工知能の創造性と人間による創造
そして中沢氏は、とても興味深いことを書かれている。
「即」と「同」の差異と同一性を表現することは、人類の知性の秘密の核心部に触れている問題だ。 おそらく人工知性の限界も、この問題に関わっている。
繋がりながらも分かれ、分かれながらも繋がる、伸縮自在に多様なパターンを描き出す人類の心、知性。
今日のGPTのようなAIは、語と語、データとデータの連なりのパターンを生成するために、あらかじめ過去の人類が残してきたパターンを学習して、データの連なりのありうる確率が高い組み合わせパターンを精密に抽出しておき、それらを元につどつど人間っぽいデータの配列パターンを計算してシミュレートする。

それによって、一見すると、人間のクリエイティブにそっくりなものを、人間よりも遥かに高速で、生成することはできる。
とはいえ、そこで動いていることは、ニューラルネットワークがモデルにしている人間の神経系と同じく、「異なるが、同じ」処理である。
*
かたや人類は仏教や数学の思考において「異なるが、同じ」の裏側である、「同じだが、異なる」をも自在にすることができる。
そして人類は、「異なるが、同じ」と「同じだが、異なる」をさらにハイブリッドにして、不一不異の「空」からあらゆる現世の諸項(色)が生/滅する振動に、身体と、言語と、イメージする力を微細に振動させつつ融即することもまた、誰もが容易できることではないかもしれないが、できる。
この章の最後に中沢氏は次のように書かれている。
拡張集合論の世界が、華厳経の描き出す法界と多くの驚くべき類似点を持つことは たしかであるが、それはあくまでも境界面のロゴス側からの感触の論理化であって、境界面のこちら側と向こう側、すなわちロゴス面とレンマ面の境界空間で生起している変換過程そのものではない。 その変換過程そのものが論理化できるならば、真の意味での集合論の進化が達成されたというべきである。
ロゴス面とレンマ面の境界で生起している「変換過程」。
「その変換過程そのものが論理化できるならば」…と書かれている。
ロゴスとレンマの相互変容の論理
ここでふと思うのは、やはり空海の『吽字義』のことである。
『吽字義』で書かれていることは、「ロゴス面とレンマ面の境界で生起している変換過程」を「理論化」したものといえるのではないだろうか。

そしてレヴィ=ストロース氏の『神話論理』も、こちろんこの「その変換過程そのものが論理化」の試みとして読める。

せっかくなので『0の裏側』ならぬ『月の裏側』、レヴィ=ストロース氏による日本論である『月の裏側』の一節を参照しておこう。
神話論理
『古事記』と『日本書紀』の記述をたどりますと、この神話の物語は、まず生と死という主要な対立を提示し、その後、人間の生命を短縮するという一つの仲介頂を導き入れて、その対立を中和することがわかります。次に、生あるものの範疇のなかにもう一つの対立が現れます。今度は二人の兄弟、時間軸の上で、それぞれ年長と年少という対立です。そして空間役割という軸でもありますが――においては、一方は狩りに、もう一方は釣りにという、山と海に結び合わされた二つの活動に従事するのです。
弟の発案で、二人の兄弟は彼らの道具、釣針と弓矢を取りかえることによって、役割の対立を中和しようと試みます。彼らは失敗するのですが、他ならぬこの失敗から、かりそめの成功が導かれます。兄弟の一人(ヒコホホデミノミコト)と、海の王女(トヨタマヒメ)の結婚が続くかぎり、 陸と海の空間的対立は乗り越えられるように思われます。一人の男性が二つの役割を持てないのと同様に、女性も自分の二重性を見せてしまえば罰を受けるのです。仲介のために支払うべき代価はあまりに大きく、夫婦は別れ、空間の対立は修復不可能になってしまいます。そのことを『日本書紀』は、この海と陸が分離する挿話の締めくくりで、次のように明確に語っています。 「此、海陸相通はざる縁なり」。
生/死が二つに分かれつつも、まだ、生の側に属するものが、自由に死の側に入り込んだりすることができる状態がはじまりである。ここでは生/死の二極は過度に結合している。
この生/死のあいだに、「人間の生が短くなる」、つまり永遠に生きるのではない、ということが入ってくる。短くなるという話が出てくるということは、つまりこれ以前は生は果てしなく長く、おそらく不死だったのである。つまりこちらでは生/死は過度に分離している。
生/死の二項対立は過度に分離していると思えば、過度に結合し、また逆にひっくり返るという、極めて不安定な状態にある。そこに「生の短縮」が入り込むことで、生/死のあいだにリズミカルな、定常的な交代・反復が可能になる。
その次に空間的な海/陸の対立を調整する話になる。
もともと海/陸は、海の神と陸の神が気軽にその役割を交代できるように、くるくると一方が他方に入れ替わる、過度な結合状態にあった。この結合状態故に、釣り針を追いかけて、山の神が海底の海神を訪れるようなことも可能になる。そして山幸彦と豊玉姫の「結婚」。海/陸が鋭く分離しながらも、結合する。分離と結合の両極の間を行ったり来たりする。
この結婚は、豊玉姫が海神の姿に変身して(戻って)ウガヤフキアエズを出産したところで分離する。空から海中に一挙に潜る「鵜」の羽で、天地を遮る屋根を葺こうとするも、中途半端に未完成にところでお生まれになる、海/陸の神の子という鸕鷀草葺不合尊はまさに神話的な両義的媒介項の姿を体現する神である。
ここで、海/陸は、過度な結合から過度な分離へと戻ってしまう。
これではまずい。
最初の生/死の間に周期的な交代を引き起こす「人間の命の短さ」と同じように、海/陸の間でどちらか一方に偏ることのない規則的な分離と結合の関係を成立させなければならない。そこで出てくるのが潮の干満である。
[…]分析を仕上げましょう。一連の出来事の初めに、人間の寿命を短くすることが、生と死という時間の次元から生まれる二律背反に、一つの解決をもたらします。そして終わりには、空間の次元の陸と海という二律背反に解決が与えられるのですが、これはどっちつかずの解決です。海の王を訪ねて戻った主人公は、潮の干満を支配できるようになるのですが、潮の満ち引きという現象は、ある時は海に対して陸に、ある時は陸に対して海に優位を与えるものです。けれどもそれは周期的なリズムに従うのですから、ふたたび時間の次元に属することになります。このようにして円環が閉じます。なぜなら、これら宇宙規模の対立が解決した結果である神武天皇の誕生とともに、少なくとも『日本書紀』の著者たちの考えでは、人々は神話から出て歴史に入るからで す。」
潮の干満は、「ある時は海に対して陸に、ある時は陸に対して海に優位を与える」周期的な交代であり、つまりここでは海/陸はっきりと分離されたまま渚という中間領域を介して接触しており、そして海が優勢になったり、陸が優勢になったり、という二極の間の交代を繰り返すことで、海/陸を分離しながらも結合する、分けながらつなぐ、「同じだが異なる」ようにする。
生/死の分別:時間軸上で分別するロゴス
海/陸の分別:空間軸上で分別するロゴス
こうして記紀の神話は、生死という時間軸上でのサイクルと、海陸という空間軸上でのサイクル(干満)の二つを組み合わせて時空間のロゴス的分節システムの起源を語る。このロゴス的な分別のシステムが発生してくるところでは、過度な分離から過度な結合へ、また過度な結合から過度な分離へと伸縮する、「異なるが同じ、同じだが異なる(区別できるが区別できない、区別できないが区別できる)」のレンマの論理が動いていることに注目しよう。
ロゴス面とレンマ面の境界で生起している「変換過程」は、このような身近なところにもしっかりと顔を出しているのである。
・・・
以上、清水先生の『空の時代の『中論』について』と、中沢先生の『0の裏側』をあわせて読みつつ、AIを遥かに凌駕する人類の知性の深層の創造性のようなことを考えてみたくなった、という話である。
情報
デジタル
0/1
意味生成〜詩的言語
AI/人類
創造性
こういうキーワードのすぐ裏側には、実は凄まじい深層が伸縮しているのである。
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