【創作小説】奈落の観測者⑨ ― 潜伏する牙 ―
隠れ家の湿った空気の中、モラドは数枚の航路図と資料を机いっぱいに広げていた。
その上へ、レオンが持ち帰った「アイギス号」の内部情報が、静かに重ねられていく。
「整理しよう。この『アビスウイルス』は、本来、ヒトヒト感染を起こさないはずだった既知種だ」
レオンはペンを走らせ、判明している事実を一つずつ並べていく。
――発生源の偽装。
豪華客船という閉鎖空間で、突如として表面化。
――初期認識の崩壊。
当初は非ヒトヒト感染とされていたが、現実には人から人へ確実に伝播している可能性が高い。
――致死率と重症化。
致死率は約50%。潜伏期間を経て急速に重症化。
――現状。
すでに三名の死者が確認され、重症者も増加している可能性がある。現在、船は「人道支援」の名目で完全隔離下に置かれている。
「政府は『潜伏期間が明け、新たな感染が確認されなければ解放する』と甘い言葉を並べているが……重症患者数の変動を見る限り、信用するのは難しいな」
モラドはモノクルを軽く指で叩いた。
彼の視界には、客船から立ち上る“悪意”の煤が、粘着質な黒煙となって国家中枢へ絡みついていく様が視えていた。
「潜伏期間が終われば解放される、か。……それは、その期間内に“何者にもならなかった者”だけの話だ」
モラドは冷え切った声音で続ける。
「政府の動向を注視し、不用意な隠蔽には釘を刺す必要がある。……もっとも、我々が手を下すまでもない。彼らはいずれ、自らの欲望で首を絞める。民衆を甘く見ないほうがいい」
その口調はどこまでも他人事のように淡々としていた。
だが、その瞳だけは違う。
彼は今もなお、刻一刻と分岐し続ける“最悪の未来”を観測し続けていた。
◆
一方、封鎖されたアイギス号の隔離区画。
ハムナは焼けつくような喉の渇きと高熱に浮かされながら、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
霞む視界の先に、白い防護服を纏った人影が映る。
それは、彼女が倒れた婦人を助けようとした際、真っ先に駆けつけ、共に対応してくれた医師だった。
「気がつきましたか。……無理に喋らなくていい」
その声には、切迫した疲労と、それでもなお失われない深い慈愛が滲んでいた。
「あなたはあの時、見ず知らずの人のために動いた。その善意を、私は無駄にはさせない」
医師は静かに言葉を重ねる。
「絶対に、あなたを救うと約束します」
この地獄のような船内で、彼は数少ない“善意”の側に立つ人間だった。
患者を救う――ただその使命だけを胸に、不眠不休で治療を続けている。
だが。
廊下を隔てた隣室では、別の“専門家”たちが無機質な声で会話を交わしていた。
「死体からウイルスを抽出する手間が省けたな」
「生きたまま変異過程を観測できる個体は貴重だ」
救おうとする手。
検体として弄ぼうとする目。
アイギス号の内部では、純粋な善意と、底知れぬ悪意が激しく渦巻いていた。
◆
同じ船内。
リゼは自室の隅で、何度も端末を握り直していた。
(お兄ちゃん……お願い、届いて……)
レオン宛てのメッセージを送信しようとするたび、画面には無慈悲な文字が浮かび上がる。
【通信圏外】
静まり返った船内に、その表示だけが冷たく光っていた。
リゼはまだ知らない。
この静寂が、嵐の前の猶予に過ぎないことを。
そしてそれが、“崩壊”へ至る最後の静けさであることを。
