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【創作小説】奈落の観測者⑦ ― 歪められた名簿 ―

 モラドの家へ戻ったレオンを待っていたのは、薄暗い部屋の隅で古びたモノクルを磨くモラドの、氷のように冷たい視線だった。

「……位置は特定した。アイギス号は北緯40度、公海上だ」

 淡々と告げられた声には、感情の揺らぎが一切ない。

「だが、各国の艦隊が船を包囲している。今のあそこは、“情報の真空地帯”だ」

 レオンは荒い息を整えながら、ヘリによる観測データと、リゼとの断続的な通信記録を机へ叩きつけた。

「感染者は確実に増えてるはずなのに……公式発表は――」

「“数名の体調不良”、だろう?」

 モラドは資料を一瞥すらしないまま、端末に映し出された各国の公式声明を指先で滑らせる。

「ご苦労だったな、記録者。……だが、表面上の数字だけでは記事にはならない。感染者数すら拾えないなら、それはただの空想だ」

 画面に並んでいたのは、モラドが各国の声明を比較・抽出し続けた“誤差”の一覧だった。

■ 変動する死亡者数

 公式発表では「数名の体調不良」と繰り返されている。

 だが、その数字は日ごとに増減し、死者数も感染者数も一定しない。

 まるで、確定した事実そのものを意図的に霧の中へ沈めているかのようだった。

■ 消えた10名

 特定区画に滞在していた乗客約10名。

 その存在が、最新の乗船名簿から完全に削除されている。

 客室番号だけが不自然に空白となり、記録そのものが“最初から存在しなかった”ように修正されていた。

■ 船外への予兆

 寄港予定地だった中州では、港湾関係者の間で非公式な検疫強化が始まっている。

 正式発表はまだない。

 しかし現場だけは、すでに「何か」を知っていた。

「悪意が未来を塗り潰しているのか……」

 モラドは静かに呟いた。

 彼の“悪意の可視化”は、国家規模で進行する隠蔽の意図を捉えていた。

 消えた10名は誰なのか。

 なぜ名簿から削除されたのか。

 列強は彼らを“存在しなかったこと”にしようとしているのか。

 その冷徹な意志だけが、モラドの視界には濃く焼き付いていた。

 レオンは無言でペンを握り直す。

 白紙へ、静かに記録を書き始めた。

【記録】アイギス号:名簿から消された10名

事実一

 本船は現在、列強による軍事包囲下にあり、通信は物理的に遮断されている。

事実二

 乗客名簿に不自然な修正が確認された。

 少なくとも10名の所在が、現在確認不能となっている。

事実三

 各国の公式発表には重大な齟齬が存在する。

 我々は今、“真実を隠すための数字の霧”の中にいる。

 不安を煽らない。

 断定もしない。

 ただ、そこに存在する矛盾だけを積み上げる。

 それだけが、この狂った世界で唯一、“情報の汚染”を防ぐ方法だと、レオンは理解していた。

 そして、その霧の中心――。

「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

 ハムナは、トイレの冷たい床へ倒れ込んでいた婦人を、躊躇なく抱き起こしていた。

 激しい咳。

 熱を帯びた吐息。

 苦しげに震える身体。

 感染の危険性など、考えるより先に身体が動いていた。

「ハムナ、待って。不用意に触れるのは――」

 リゼが制止の声を上げる。

 だが、ハムナの瞳に迷いはない。

 彼女には見えていないのだ。

 この船を覆う国家規模の悪意も。

 人間を“数字”へ変える冷酷な構造も。

 だからこそ、彼女は純粋な善意のまま動けてしまう。

「リゼ、医務室へ運ぶからどいて! このままじゃ、この人……!」

 一瞬だけ沈黙し、リゼは小さく息を吐いた。

「……わかった。私が反対側を支える」

 防護服姿の監視員に見つかれば、自分たちも隔離対象になるかもしれない。

 それでも二人は、高熱にうなされる婦人を支えながら、薄暗い通路を歩き始めた。

 無機質な鋼鉄の船内。

 響くのは警報音と、遠くで続く咳だけ。

 その中で――。

 二人の足音だけが、まだ“人間”の音をしていた。

 リゼは、兄が信じようとしている“日常”を守るために。

 ハムナは、この世界をまだ“異常”だと認めたくないために。

 崩壊へ向かう船の中で、それでも人として在ろうとする歩みだけが、静かに続いていた。


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