見栄の置き場所
一
近世の村は、見栄を嫌った。
突出は妬みを呼ぶ。妬みは、村八分の入口になる。だから村人は「分をわきまえる」ことを身につけた。持っていても日常では使わない。良い着物は簞笥にしまい、普段は野良着で過ごす。家がいくらか裕福になっても、それを表に出すのは慎みを欠くことだった。共同体は誰がどれだけ持っているかを正確に知っている。知っているからこそ、それを誇示することは仲間内の秩序を乱す行為になる。
ところが、同じ村が、年に何度かは人目を競うように財を放出した。婚礼の振る舞い。葬儀の会葬者の数。法事の膳。家の建て替え。祭礼の寄進。これらの場面では、けちることのほうが恥とされた。普段は質素を美徳とした村人が、晴れの日には借金をしてでも見栄を張った。
つまり村は、見栄を消したのではない。見栄を、置く場所を決めていた。
二
なぜ日常から見栄を追い出し、儀礼へと閉じ込めたのか。
ここに、近世農村のひとつの知恵がある。
日常の見栄は、際限がない。隣家が新しい着物を買えば、こちらも買う。向こうが屋根を葺き替えれば、こちらも負けられない。日々の暮らしの中で見栄を許せば、競争は終わらず、村は疲弊し、やがて妬みと諍いで共同体そのものが壊れていく。狭い村でそれをやれば、逃げ場がない。
だから村は、見栄に「日付」を与えた。
婚礼の日。葬儀の日。祭りの日。あらかじめ決まった、誰にとっても公認された機会。そこでだけ、家は財を見せてよい。いや、見せなければならない。儀礼という枠は、見栄の容れ物だった。容れ物があるから、見栄は日常にあふれ出さずに済む。普段は「分をわきまえ」、晴れの日には「家の格」を示す。一見矛盾するこの二つは、同じ共同体が見栄を制御するための、表と裏だった。
慎みと見栄は、敵どうしではなかった。慎みが日常を守り、儀礼が見栄を引き受ける。役割を分けることで、村は壊れずに済んでいた。
三
その儀礼の中でも、葬儀や法事は、基本的に村の内側に閉じている。
会葬に来るのは村の人々であり、近隣の縁者である。膳の善し悪しを品定めするのも、顔見知りの集まりだ。見栄の張り合いはあるが、それは共同体の内部で完結している。誰がどれだけのことをしたかは村の記憶に蓄えられ、次の機会の物差しになる。閉じた円の中で、見栄は循環していた。
ところが、婚礼だけは違った。
婚礼は、村の境界を越える。
近世の村は数十戸の小さな単位である。その中だけで縁組を繰り返せば、数世代で村人は皆が血縁になってしまう。だから嫁は、外から迎える。徒歩で行き来できる範囲、せいぜい数キロから十数キロ。同じような格の家どうし、似た条件の村どうしのあいだで、縁談は繰り返された。近隣の村々は、婚姻のネットワークで網の目のように結ばれていた。歴史人口学が宗門人別改帳から明らかにしてきたように、配偶者が他村の出身であることは、決して例外ではなかった。
婚礼が他村との行事であるということは、婚礼の見栄が、村の外の目にさらされるということだ。
四
嫁入りの行列を思い浮かべればいい。
行列は、村から村へと進んでいく。長持に納めた嫁入り道具。荷の量。行列に連なる人の数。それを、沿道の村人が見る。先方の家でどれだけの饗応がなされ、こちらがどれだけのものを持たせたか。それは両家の格の表明であり、同時に、両村の格の品定めでもあった。
だから婚礼の見栄は、二重の意味を背負っていた。
ひとつは家の見栄。「あの家は、これだけのことができる家だ」。もうひとつは村の見栄。「あの村と縁を結べる家か」「あの村から嫁を迎えられる格か」。釣り合わぬ縁組は、両家とも外聞をはばかった。家の格は村の格に支えられ、村の格は家の縁組に映し出される。
葬儀が閉じた円の中の見栄だとすれば、婚礼は、円と円とをつなぐ見栄だった。閉じた村に唯一あけられた窓。その窓から、家の見栄と村の見栄が同時に外へ流れ出していた。
五
ここまで来ると、近世農村の見栄の像が、いくらか立体的に見えてくる。
村は見栄を嫌い、日常からそれを追い出した。だが見栄を消し去ることはできない。財に差がある以上、それを示したいという欲は残る。そこで村は、見栄に置き場所を与えた。儀礼という容れ物に閉じ込め、決まった日にだけ放出させた。慎みと見栄は、そうして共存していた。
そしてその容れ物のうち、葬儀や法事は村の内に閉じ、婚礼だけが村の外へ開いていた。婚礼は、家の格と村の格が交差する一点だった。
近世の村人は、見栄をなくすことはできないと知っていた。なくせないなら、どこに置くかを決めるほかない。日常ではなく儀礼に。そして儀礼の中でも、内に閉じるものと、外へ開くものとを、暮らしの必要に応じて使い分けた。
見栄を消す村ではなく、見栄を然るべき場所に収める村。
近世の農村が長く保たれた理由のひとつは、案外、この置き場所の決め方の巧みさにあったのかもしれない。
