「対象のおにぎり全品100円」がスルーできない自分がいる
おにぎりは、おいしい。
それが100円だったら、うれしい。
なにも間違ってない。
「対象のおにぎり全品100円」は、うれしい。
でも、その文字列にひっかかる、スルーできない自分がいる。
なぜか。
この文字列をよろこべる人は、素直で、生きづらさとは無縁の生活を送る人だと思う。うやらましい。
ここでひっかかるのは、すこし世間をななめに見た、こころに傷を抱えている人、というのはちょっと大げさだろうか。
もろてを挙げてサービスを享受すればいいのに、まるで許せない、みたいな深刻な顔をして、それでいていくらのおにぎりを買うんだ、このタイプの人は。(私のことだ。)
なぜかというと。
(ここからは理屈パートに入るから、あきれないで読んでほしい。)
* * *
100円になるおにぎりには、条件がある。
うなぎのおにぎりは、対象外だ。
高いからだ。
スパムおにぎりなんか、もっとだめだ。
もっと高いからだ。
だから、100円になる「対象のおにぎり」は、ツナマヨとか、ごま昆布とか、ぜんぶおいしい、けど "高すぎない" やつ。
その前提があって、全体のおにぎりの中から「対象のおにぎり」が選ばれている。
(……もう、私の言いたいことはわかっていると思うけど、ここは大事なところだから最後まで書かせて?)
「対象の」おにぎりが「全品」100円なのは、あたりまえだ。
これは、叙述トリックだ。
まやかしだ。
幻想だ。
イリュージョンだ。
だまし絵だ。
パンはパンでも食べられないパンだ。
……怒りのあまり、おにぎりの話にパンのたとえを持ちだしてしまって、混乱を招いたことをお詫びしたい。動揺が隠せない。
* * *
ようするに、「情報がやさしくない」んだ。
売るために、わざとやさしくないかたちにして、それを大声で言っている。だから、ひっかかるし、スルーできない。
「対象」が「全品」とうたう姿勢は、言葉への信頼を失わせかねない。
「書くこと」が、問われてしまいかねない。
「伝える」って、相手の受けとりかたを想定した作業であるべきだ。
言葉に向き合って、「どのように伝わるか」を真摯に考えるのが、ライティングであるべきだ。
だからそれは、結果として、だれにとっても、やさしくあるべきだ。
テクニカルライターとして、私は、そんなふうに「書くこと」を信じている。
だからってどうすればいいか、それはわからないけれど、私たちはこの時期、よろこんでおにぎりを買う。
それで、いいような気もする。
ちなみに――
前述の、ここでひっかかりを覚えるタイプの人の抱えたこころの傷、その多くは、過去に、無垢な気持ちでうなぎのおにぎりをレジに持っていき100円にならなかったことに起因している――
と言っても差し支えないだろう。(そう、私のことだ。)
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