第2部_#6 有明の巨大倉庫、眠れる野生の目覚め
石垣島を出てから、雪は必死だった。
図面引きのバイトを始めて、数週間がたった頃。
前職で一緒に仕事をしていた後輩から連絡が届いた。
彼女は、大阪の大企業の社長の娘さんでもあった。
「父が有明に家具屋を作るらしくて。雪さん、どうかね?って父が言ってますが。」
五月。飯田橋のホテルの部屋へ呼ばれた。
そこには、不思議な光景が広がっていた。
ベッドの端に、社長夫人がちょこんと静かに腰を下ろしている。その凛とした佇まいが、これから始まる嵐を予感させる静けさのように見えた。
部屋の角のテーブルで、社長と向き合って座る。
「君は仕事ができるんだってね」
「お子さんは?」
「お母さんが見てくれてるの?」
いくつか言葉を交わしたあと、社長は豪快に笑った。
「じゃ、決まりだね。よろしく頼みます」
後輩そっくりな笑顔の社長と握手を交わした。
その手の温もりを感じながら、胸の奥がすうっと軽くなるのを感じた。
雪の心臓は、これから始まる挑戦への確かな期待で脈打っていた。
そこからは、地獄のような、けれど細胞が沸き立つような日々だった。
有明にある巨大な倉庫。
一階から五階まで、途方もない空間が私の戦場になった。
名刺には「ディレクター」って書いてあったけど、
そんな洒落た呼び名は、そこには存在しない。
重いソファを運び、軍手は汗と埃で真っ黒になった。
コンテナの到着スケジュールを睨む。
立ち上げに必要なことならなんでもやった。
夜中まで走り回り、泥のように眠り、また翌朝には巨大な倉庫へ向かう。
いつのまにか、大きなソファーだって一人で運べるようになっていた。
「離婚した女は、強いなぁ…」社長はいつもそう言って笑った。
(そうだ、その通りだ)とは言えず、微笑む雪。
心臓が「ドクドク」と暴れていたあの恐怖は、重い家具を持ち上げるための力強い鼓動に変わっていた。
けれど、代償もあった。
たまの休日。
「もう真っ暗になっちゃったー」と息子に大泣きされた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
けれど、身体がどうしても動かなかった。
東京に戻って、初めて迎えた夏。
石垣島の彼から、ライへの誕生日プレゼントが届いた。
ゆっくりと返事を書く暇もなく、現場の倉庫を走り回る毎日。
決して無視しているわけではないけれど、時間が足りなかった。
コートを着る季節になって、雪はお礼の言葉とライの成長を短く綴った。
そして、最後に一言だけ、こう書き添えてしまった。
「待ってて」
雪にとってそれは、「戻る」という意味ではなかった。
雪が自立したら、いつか笑って会えるようになる。そんな意味だった。
けれど、当時の雪には丁寧な言葉を加える時間がなかった。
その一言が、彼の中でどんな希望や誤解を育んでしまうのか。
そこに向き合う余裕が、雪にはなかった。
十か月後。
日本最大級の家具テーマパーク「アビタサローネ有明店」はオープンした。
一階から五階まで、すべてが家具で埋め尽くされた倉庫。
まさに前代未聞のプロジェクトだった。
その達成感の絶頂の、しばらく後。
店長として迎えられた「おじさん店長」とぶつかる。
女を端から馬鹿にし、部下をアゴで使うことでしか威厳を保てない、古いタイプの男だった。
「黙って返事しろ!」
「俺の言うことを聞け!」
「だったら来るな!」
「黙れー!」
顔を真っ赤にして、雪の襟首を掴むおじさん店長。
雪は冷めた目で見下ろした。
そして、持っていたペンを置き、
「……だったら、帰るわ」
雪は短く言い捨て、事務所のドアを出た。
十か月間、共に汗を流した戦友たちが
「待てよ!」
「行くなよ!」
と必死で追いかけてくる。
「真鍋、頼むからあいつに謝ってくれよ。そうすれば収まるから」
「なんで、私が謝るの?」
雪の声は、自分でも驚くほど静かで、迷いがなかった。
「すげーやだけど、あいつが上司なんだからさ、形だけでもさ……」
「いや、無理。ごめん。ホントにごめん」
仲間たちの声を背に、私は従兄弟から借りていたスポーツカーのエンジンを力強く轟かせた。
社内では他部署の部長も中に入って、うまくまとめようとしてくれた。
「もう一度店長と話し合って」
そう言われて、おじさん店長に再会したが、彼の顔を見た瞬間に確信した。
この人の下で、私は仕事ができない。
雪はきっぱりと辞退した。
あー、仕事なくなった……。
次の「おじさん」が、雪に電話をかけてきたのは、そのすぐ後のことだった。
「真鍋、暇だろ? ちょっと可愛い絵、描いてよ」
そのおじさんには、あまり良くない噂があった。
仕事を外に振るだけ振って、最後はお金を払わない……。
「え? やだよ。お金くれないじゃん。」
「なんだよお前、失礼なこと言うなよ。」
「暇つぶし」の延長で、ちょっと可愛い絵を描いた。
それが、日本中を「赤」に染める、巨大なプロジェクトの入口になるとは、そのときの雪は、まだ知らなかった。
そして、それがやがて、孫正義へと続く道になることを。
――つづく
▷ 第2部_#7 愛宕グリーンヒルズの赤いボーダフォン
この物語が、今どこかの暗闇で息を潜めている方たちの、そして自分を失いかけている「誰か」の救いになりますように。
この物語は、雪の視点で綴られたノンフィクションです。
登場する組織や人物の描写は、雪の記憶と視点に基づいています。
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『ソフトバンク黎明期・孫正義を唸らせるまで──35年間の全記録 真鍋 雪』
