第2部_#7 愛宕グリーンヒルズの赤いボーダフォン
結局、イラスト代は、おじさんとの食事に変わった。
「ほらね、やっぱりくれないじゃん」
分かってはいたけれど、おじさんの口八丁には呆れるしかない。
しかし、おじさんは、もっともっと大きな「対価」をテーブルに置いた。
「うち(ボーダフォン)に来て、中で描けばいいじゃん」
おじさんはすぐに承認を取り付け、愛宕グリーンヒルズにそびえ立つボーダフォン本社の中に、時給二千八百円という席を雪に用意した。
こうして、雪はボーダフォンの真っ赤な世界へと飛び込んだのだ。
朝、都営三田線の御成門駅を降りる。
地上に出れば、朝の光を浴びた愛宕グリーンヒルズがそびえ立っている。
周囲を見渡せば、高級そうな人たちがそのタワーへと向かっている。
1階のスタバでコーヒーを買う。
金髪の紳士が、蜂蜜のボトルを指さしてウインクした。
「これを入れると美味しいよ」
おおおー。これが外資か。これが時給二千八百円か。
雪の席は、小さな会議室の中だった。
そこには、おじさんのボスが連れてきたらしい、外部スタッフが三人ほど座っていた。
しばらくたったある日、おじさんがやってきて言った。
「ちょっとさ、店舗見て、意見してよ」
「うん、わかった」
指定された横浜の店舗へ行ってみると……
「うわ、……なんじゃこれ?」
宇宙空間のようなイメージはいいとして、一番大切な商品が見えない。動線はぐちゃぐちゃ。奥のスペースは意味不明のデッドスペース。
会社に戻った雪は、おじさんに報告した。
「あれじゃ売れないよ、ぐちゃぐちゃじゃん。動線が滅茶苦茶だし、商品が見えないし。お客さん、途中で帰っちゃうよ。」
「へー、お前すげーな、仕事できるじゃん〜」
「あ、それ、レポートにしてさ、下に俺の名前入れといてね〜」
口八丁おじさんだった。
おじさんの手柄として提出されたそのレポートが、アメリカ人ボスの目に留まった。
「二時から次の店舗の会議だから、真鍋も来い」
突っ込まれるのを恐れたおじさんは、雪を会議へ連れて行った。
大きくて綺麗な会議室。
名刺も持たず、誰だか分からない雪はテーブルの端に座る。
シャネルやエルメスを手がけてきたという噂の高級設計事務所。
全身真っ黒のチーフデザイナーさんが、英語でプレゼンを始めた。
雪はただ静かに「ものすごく綺麗な店舗」のプレゼンを聞いていた。
議論が実務的な売り場構成に及ぶと、雪はおじさんに囁いた。
「これヤバくない? 動線計画されてないし、商品も見えないじゃん」
するとおじさんは、流暢な英語で雪を紹介した。
「あ、真鍋です」堂々と日本語で話す。それ以外の方法はない。
「あの……これだと、お客さんに商品を見てもらえないと思うんですけど」
「誰?」という視線が刺さる。
黒ずくめのチーフデザイナーが雪を睨みつけた。
雪はペン先で、図面を静かに指した。
「ここの什器はこのくらいにして、こう置くと、お客さんは自然に奥に流れてくれます。」
エリートボスたちや、コンサルのベイン・アンド・カンパニーの面々。
腕を組んでいた偉そうな人たちが、一斉に席を立ち、雪の指す図面を覗き込んだ。
「で、次はこの什器に当てて、こっちに流せば、商品は全部見てもらえます。」
「で、最後にレジへぶつけて……お買い上げいただく。」
雪のペンがなぞる軌跡に合わせて、高級エリートたちの視線が吸い寄せられた。
アメリカ人ボスは、通訳なしで満面の笑みで頷いた。
「……なるほどねー!」
(あ、日本語なんだ……)
その瞬間から、雪は猛烈に必要な人間になった。
同時に、高級設計事務所から煙たがられる存在にもなった。
誰も理由を説明できない。ただ、空気が「これだ」と告げていた。
雪の中に確かな自信を芽生えさせた。
つづく
次回▷ 第2部__#8 業務委託社員・真鍋雪の「開戦」
雪の新しい世界が始まりました。ビジネスという戦場で、雪が何を捨て、何を掴もうとしていたのか。その『開戦』の合図となったエピソードも、ぜひ覗いてみてください。
この物語が、今どこかの暗闇で息を潜めている方たちの、そして自分を失いかけている「誰か」の救いになりますように。
この物語は、雪の視点で綴られたノンフィクションです。
登場する組織や人物の描写は、雪の記憶と視点に基づいています。
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『ソフトバンク黎明期・孫正義を唸らせるまで──35年間の全記録 真鍋 雪』
