第2部_#9 1兆7,500億円−歴史が動いた瞬間
愛宕のグリーンタワーの
ボーダフォン本社は、
どこか優雅な余韻を漂わせる場所だった。
怒号が飛ぶ店舗開発部以外は。
190cmを超える
外資のエリートたちが闊歩し、
台風が接近する日は、
即「帰宅命令」が出される。
そんなオフィスに、
買収のニュースが切り裂くように舞い込んできた。
「孫正義が、
ボーダフォンを買収するらしい」
はじめは誰かの冗談だと思った。
けれど、
「噂」は瞬く間に現実となり、
雪たちの目の前に突きつけられた。
ボーダフォンの社員たちは、
何も知らされていなかった。
買収が決まったことを知ったのは、
孫正義氏が行った記者会見の、
TVの生中継だった。
当時、ボーダフォンの携帯は、
TVチューナーが内蔵されていて、
テレビを見ることができた。
社員たちは、
それぞれの小さな画面に食い入った。
2006年3月17日、夕刻。

孫正義氏が、笑顔で語った。
——ゼロから携帯電話のネットワークを構築するのに比べれば、素早くて楽だ。
1兆7,500億円。
フロアは、静まり返っていた。
大きな窓の向こうには、
厚い雲に覆われた灰色の東京の空が、
ゆっくりと夜の色に沈みはじめていた。
「これから何が起こるんだろう——」
未知のゲームを
覗き込むような気持ちが、
雪の胸を満たす。
ワクワクしながら、
息子の待つ家路を急いだ。
次の日から、
社内はどうしていいのかわからない
空気に包まれていた。
雪は、自分のPCにある
ボーダフォンのシンボルデザインを開き、
「赤」を「黄色」に塗り替え、
ロゴを孫氏の顔に描き替えて遊んでいた。
(私のような業務委託は、真っ先に切り捨てられるだろう。)
それでも雪は、
変化の波に胸が高鳴るのを
抑えることができなかった。
何か大きな時代が、
今まさに動き出そうとしていた。
そういえば、
この頃にはもう、
アメリカ人ボスは姿を消していた。
「もっと彼女と過ごしたいからね」
――それが最後の挨拶だった。
数千億が動くディールの中心にいた男の本心か、
それとも一番スマートな言い訳だったのかはわからない。
けれど、
その芝居がかった幕引きは、
雪にとって初めて見る光景で、
どこかおもしろかった。
目の前で
巨大な既存のシステムが壊れ、
新しい何かが産声を上げようとしている。
その歴史の胎動に、
雪は興奮していた。
雪は休暇をとって、
息子のライとネパールへ旅に出た。
犬の鳴き声と
車のクラクションが入り混じる
カトマンズを抜け、
ヒマラヤの村にホームステイした。
牛や山羊がゆったり歩き、
誰かの家の庭先でチャイをいただいた。
赤ちゃんたちは何も身につけず、
よちよちと歩き回っていた。
子どもたちが元気に駆け回る、
息子も楽しそうに走っていた。
土の感触、埃まみれの風、
村人たちの逞しい生きる力。
雪は深く息を吸い込み、
目の前に広がる峰々を見上げた。
世界の騒ぎなど、
ここではほんの小さな出来事のようだった。
息子と一緒に、楽しく行こう。
そう心の中でつぶやき、静かに次の波を待った。
つづく
次話、いよいよです。
▷ 第2部__#10 孫正義-孤独な怪物
歴史が動いた。そして、雪はさらなる深淵へと足を踏み入れることになります。
この物語が、今どこかの暗闇で息を潜めている方たちの、そして自分を失いかけている「誰か」の救いになりますように。
この物語は、雪の記憶と視点に基づいており、
登場する組織や人物の描写は、雪の記憶と視点に基づいています。
雪の不器用で必死な歩みに何かを感じていただけたら、「スキ」や「フォロー」、「コメント」で応援していただけると、とても心強いです。
『ソフトバンク黎明期・孫正義を唸らせるまで──35年間の全記録 真鍋 雪』
