第1部_#2 青い陽だまりの残像
雪が、「ふーちゃん」と呼ぶようになって何度目かの秋を迎えた頃。
雪はタイ行きを誘ってくれた内装会社のデザイナーとして、正社員になった。
ふーちゃんはニュージーランドへ、一年間の放浪旅に出かけた。
雪は、彼が自由に輝く姿を、心からうれしく思った。
お正月休みに、雪はニュージーランドへ向かい、ふーちゃんと車で旅をした。
自由な時間、笑い声――楽しかった。
一年間の放浪を終えたふーちゃんが、ニュージーランドから帰国した。
そして、そのまま東京の雪の小さなアパートで暮らすことになった。
付き合い始めた頃、雪は、ほとんどふーちゃんのアパートにいた。
今度は雪のアパートで、また一緒にいられる。
雪は嬉しかった。
仕事が楽しくて仕方がない雪が、夜遅くに帰ると、ふーちゃんがご飯を作ってくれていた。
けれど、雪は、世界一かっこいいふーちゃんが作るお味噌汁が大嫌いだった。
ふーちゃんは都会の喧騒を嫌い、東京が嫌いだと言い、雪の仕事や会社の仲間を否定した。
当時の雪には、その理由が分からなかった。
彼は北海道へ一人旅に出た。期間を決めない放浪のはずだったのに、わずか数日で帰ってきた。
「頭が痛くて……」と、ぽつりと漏らす彼。
それからアルバイトを始めたものの、ものすごい勢いで痩せていった。
雪の眠るベッドの横に、キャンプ用のマットを敷いて眠る彼の姿に、雪は戸惑った。
同じ部屋にいるのに、ふたりの間には、越えられない距離があった。
決定的だったのは、ある日の夕食。
いつもは質素なふたりの食卓に、その日は珍しく豪華なお刺身が並んでいた。
「どうしたの、これ」
「いや、なんとなく」
笑いながら箸を進める彼。
久しぶりに穏やかな時間が流れた気がして、雪は少しだけ安心した。
けれど、翌日、夜遅くに雪が仕事から戻ると、部屋はひっそりと静まり返っていた。
彼の荷物がない。
昨日までそこにあったはずの、キャンプマットも、あの赤いバックパックも。
「あ……昨日のお刺身……最後の晩餐だったんだ……」
そう気づいた瞬間、雪は崩れるように座り込んだ。
彼は、最後まで「話し合う」という衝突を選ばなかった。
黙って、一番きれいな思い出を置いて、逃げるように去っていったのだ。
雪は、友人の家にいた彼を迎えに行った。
「戻ってきて」
そう言ったのは、純粋に好きだったからか、それとも「世界一かっこいい、大きくて強い彼」という自分の幻想を失うのが怖かったからなのか、わからない。
結局、雪たちは元の場所へ戻ったけれど、それは再生ではなく、ただの猶予に過ぎなかった。
彼は雪のアパートを出て、群馬の友人の古着屋を手伝いながら、独学で木工を始めた。
週末になると、雪は群馬へ通い、二人で時間を過ごした。
内装デザインの仕事をしている雪には、彼の木工がどうしても「おままごと」のように見えてしまう。
誰だって初めはそうなのに、どうしても気になってしまう自分がいた。
それでも、大工道具を握る無骨な彼の姿は、やはり雪にとって「かっこいい彼」だった。
雪が29歳を迎え、「母になりたい」という願いを抱き始めたとき、かつて包容力だと思っていた彼の沈黙は、冷たい「拒絶」へと姿を変えていた。
そして、一巡りする季節を、未来を語ることもできずにやり過ごした。
雪は決意した。
本当はもうずっと前に終わっていたんだ。
彼の電話番号を消した。
手帳の、彼のアルファベットのページを破って、小さく小さく丸めて捨てた。
数日が経ち、彼はようやく気がついた。
そして、雪の留守電に、何度も何度もメッセージが残された。
徹夜を終えて帰宅すると、玄関の前には、雪が欲しがっていた彼の手作りのMacの机が置かれていた。
ドアには、婚姻届の入った手紙が差し込まれていた。
ーー手を伸ばせば、ずっと一緒にいられたのかもしれない。
季節が変わった頃、彼から一通の手紙が届いた。
そこには、あまりにも彼らしい、優しい独りよがりの、純粋な言葉が並んでいた。
「俺に、自分を理解させてくれたのは、まぎれもなく雪、あなたです。
こんなにすっきりとした別れは、俺にとって初めてなので……。
いつかまた、素敵な笑顔を見せて下さい。それでは、また!!」
彼は「すっきりした」と言った。
雪を置き去りにして、彼は自分自身の「気づき」に感謝し、前を向こうとしていた。
――もう、終わったのだ。
何度も、何度も、何度も、雪は自分に言い聞かせた。
つづく
▷ 第1部_#3 優しさの処刑台
この物語が、今どこかの暗闇で息を潜めている方たちの、そして自分を失いかけている「誰か」の救いになりますように。
この物語は、雪の視点で綴られたノンフィクションです。
登場する全ての方々が、今、それぞれの場所で自分なりの光を見つけていることを願います。
雪の不器用で必死な歩みに何かを感じていただけたら、「スキ」や「フォロー」、「コメント」で応援していただけると、とても心強いです。
『ソフトバンク黎明期・孫正義を唸らせるまで──35年間の全記録 真鍋 雪』
