Adoは堂本剛である――コピーはやがて、発酵して怪物に
連載第3回:ヒントは見立てが9割
Adoは堂本剛である
Adoは、堂本剛である。
まず、堂本剛という存在は、極めて正直なマッシュアップだった。
その歌唱法は、ミスチル桜井和寿であり、その振る舞いや空気感は
松本人志の「冷め笑い」、そのままである。
ポイントは、桜井50+松本50=堂本100という、「そのままさ」である。
影響を咀嚼して再構築したものではなく、
好きなものをほぼそのまま並べたような無防備さ。フィルターがない。
だからこそ、目が離せない。
その姿はどこか、「思春期に迷走するファッション」に似ている。
自分で引き裂いたジーパンを安全ピンで止めたカスタムのように、
やりすぎで、ちぐはぐで、恥ずかしい。だが、その未整理さこそが面白い。
堂本剛は、そういう危うさをそのままエンタメにしてしまった存在だった。
この構造は、そのままAdoにも当てはまる。
Adoにおいては、それが椎名林檎的な文学オルタナ歌謡と、
エヴァンゲリオン的な自意識過剰のマッシュアップとして現れている。
サブカル強度の高い歌詞と、過剰なまでの内省と終末感を演出する
ハイパーポップ。その二つが、ほぼ等分のままアウトプットされている。
やはり、その「てらいのなさ」は、中学の卒業文集のタイトルに
「無題」とつけてしまうような、ユースな気恥ずかしさがある。
両者に共通して重要なのは、2つのインプットが「等分」であることだ。
どちらか一方に寄るのではなく、二つのエッセンスが拮抗したまま
表に出ている。この状態は、一見すると不安定だが、
実は最も伸びしろがあるともいえる。
なぜなら、ひとつの影響だけを、そのままなぞる場合、道は直線の一本道しかないからだ。
例えば、あるバンドが特定の先行アーティストの影響を
フィルターなしで表現し続けた場合、それは一直線に進み続ける。
クオリティの差はあっても、やっていることは拡大再生産でしかない。
その道はやがて、どこかで行き止まりになる。
SHISHAMOとチャットモンチーの例を出すまでもないだろう。
しかし、最初から「二本の道」を進んでいる場合は違う。
足元にスキー板を履いているイメージが近いが、
どんなにまっすぐ足を並べていても、やはりそれは
純粋な平行ではなく、ほんの数ミリずれていて、
そのまま進み続けると、やがて二つの軌道はどこかで交差する。
その交差する一点こそが、「個性」と呼ばれるものの正体なのだと思う。
言い換えれば、最初はコピーでしかなかったものが、
時間の経過とともに発酵する。
二つのエッセンスが混ざりきらないまま熟成し、
やがて歪んだ形で融合する。その結果として現れるのが、
「異形のキマイラ」としての存在感だ。
モノマネの世界にも、同じ現象がある。
たとえばコロッケが演じるロボット×五木ひろし。
そこにはもはや、演歌歌手としての五木ひろしの原型は
ほとんど残っていない。
長年モノマネを続けていると、意図とは無関係に
にじみ出てくる癖や誇張が積み重なり、最終的には別の生き物になる。
現在の堂本剛は、まさにそのフェーズにいる。
ベースにはミスチル的な歌唱法がありながら、
サウンドはP-FUNKからの影響を公言し、
歌詞は神道的な大和言葉へと接続していく。
どの文脈にも回収されない、奇妙な存在。
世界中を探しても同じ類型が見つからない。
それは例えるなら、「カツオたたきのっけラーメン」のようなものだ。
ラーメンとして成立しているのかどうかすら怪しい。
しかし、確実にそこにしかない味がある。
そして重要なのは、それがファンの期待に応える形ではない
アウトプットだということだ。
その創作のモチベーションは、端的に美しい。
刺身がどんどん加熱されていく自己矛盾も含めて。
では、Adoはどうか。
いま彼女は、重要なフェーズに差し掛かっている。
これまで匿名性の中で成立していた表現が、実体を伴い始めている。
「顔を出す」という行為は、単なる露出ではない。
表現の責任を、個として引き受ける段階に入ったということだ。
人間宣言である。
ここで鍵になるのは、新たな“異物”の混入である。
堂本剛にとって、それはある時期に訪れた「ファンク」だった。
もともとのマッシュアップ構造に、別の軸が差し込まれたことで、
表現は一気に歪み、結果として唯一無二の存在へと変化していった。
このさき、Adoにも、同じ分岐点が訪れるはずだ。
このまま椎名林檎×エヴァンゲリオンの延長線上で、
令和の戸川純としての精度を上げ続けるのか。
それとも、そこに異質な要素が入り込み、まったく別の軌道を描き始めるのか。
10年後、30歳前後のAdo。
そこで見えてくるのは、単なる自己の拡大再生産か、
それとも説明不能な「何か」か。
ポイントはやはり多分、「ブラックミュージックの咀嚼」であると思う。
今のAdoのサウンドには一切ない「黒さ」が加わるとき。
ブラックミュージックの本質が「引き算」にあるとするなら、その過程で、今のAdoのハイパーなサウンドのほとんどの要素は削ぎ落とされる。
だが、そのあとにあえて加えられる一要素があるとすれば、
それは必然ではなく、むしろ余剰だ。
さきほどの例でいえば、カツオのたたきのせラーメンにおける、
カツオの刺身にあたる説明のつかない最後の一手。
しかし、その非合理な加算こそが個性なのだ。
引いたあとに残るのではなく、引いたあとに“加えられる”もの。
それこそが彼女の素顔だ。
なぜなら彼女は、アド=Add(加える)なのだから。
次回の連載第4回の見立ては以下である。
「MEGUMIは、片岡鶴太郎である」
https://note.com/a1lo/n/nfe01892ddc61
