ちゃんみなは武田鉄矢である――教員免許を持たないグレートティーチャー
連載第2回:ヒントは見立てが9割
ちゃんみなは武田鉄矢である
ちゃんみなは、武田鉄矢である。
きっかけは、昨年末のNHK紅白歌合戦でのパフォーマンスだった。
ちゃんみながHANAと共演し、ひとりひとりを抱きしめ、
涙で嗚咽するメンバーの頭を撫でながら、耳元で何かを語りかける。
その光景は、もはや音楽番組のワンシーンというより、
儀式に近いものだった。
あれは完全に「卒業式」の光景だった。
そしてあの瞬間、ちゃんみなは、
武田鉄矢が演じた金八先生と同じポジションに立っていた。
3年B組の生徒一人ひとりに向き合い、
人生訓を授け、社会への旅立ちに立ち会う存在。
あの、少し暑苦しくて、説教臭くて、しかしどうしようもなく情緒に
訴えかけてくる構図そのものだった。
重要なポイントとして、そもそも日本人が「卒業式」という形式を
異様に愛し、無条件でコンテクストを共有しているという事実がある。
終わりが美しければ、すべてが肯定される。
プロセスの矛盾も、途中の迷走も、
早い話が“途中すっとばしても”最後の涙で浄化される。
この文化的前提があるからこそ、「ちゃんみな=先生」「HANA=生徒」という構図はエクスキューズなしに強烈に日本国民に機能した。
一年の卒業式=大晦日に放送されたことも、
その印象を大きくブーストさせた。
さまざまな要因が、何の因果か重なったのだ。
ここで、もう一歩踏み込む。
そもそも武田鉄矢においても、「金八先生」はただの役だったはずだ。
しかし、あのキャラクターはある時点で、役者本人の実存を超えた。
現在の武田鉄矢が素で時事ネタについてのコメントを語るときでさえ、
その語り口にはどこか「金八先生」が滲む。
つまり彼は、自らが演じた役に“飲み込まれた”のである。
同じことが、ちゃんみなにも起きている。
「ちゃんみな」という存在は、すでに彼女個人のキャリアや
バックグラウンドを超え、ひとつの人格=オルターエゴとして
機能し始めている。
そしてその人格は
「誰かを導く者」「言葉を与える者」という方向へと、明確に舵を切った。
では、その「与える側」となった
彼女自身が寄りかかる“物語”とは何か。
それは「ニッポン」である。
武田鉄矢が坂本龍馬という国家的カリスマを背負ったように、
ちゃんみなもまた、ある種の「日本的情緒」を引き受け始めている。
HANAというユニット名。花。
あえて「“ハナ”肇」のような平板な発音ではなく、
「“薔薇”」と同じイントネーションを選んだこと。
そしてデビュー曲が「薔薇=ROSE」であること。これらは偶然ではない。
つまり彼女は、個人の表現者から、
「ニッポンを背負う存在」へと進化しつつある。
この流れでいけば、今後の展開はほぼ自明だろう。国際イベント、
文化事業、あるいは何らかの“日本代表”的なプロジェクトにおいて、
プロデューサー的な役割を担う未来は、かなりの確度で訪れる。
しかし、ここでひとつ、忘れてはいけない違和感がある。
それは、「金八先生って、教員免許持ってたっけ?」という問いである。
金八先生は、あくまでドラマの中の教師だった。単なる劇中人物だ。
にもかかわらず、現実世界で武田鉄矢は「先生」として扱われるようになった。
同様に、ちゃんみなもまた、「導く者」としての役割を演じながら、その役割そのものに現実が追いついてしまっている。
だが、それは本当に“実在する資格”なのか、それとも“物語がそう見せているだけ”なのか。
このズレを自覚しているかどうかで、彼女の今後は大きく変わるはずだ。
この構造を理解していれば、逆に役を操ることもできる。
ここで重要になってくるのが
「何が核で、何がトッピングなのか」という見極めである。
たとえば、蕎麦にコロッケをのせることは成立する。
それは個性として成立するし、むしろ魅力にもなりうる。
しかし、蕎麦を具にしたコロッケは存在しない。
ちゃんみなにおいて、「先生」という役割はあくまでトッピングなのか。
それとも、すでに核を侵食し始めているのか。
武田鉄矢から「金八先生」という要素をすべて引いたとき、
そこに残るものは何か。
ちゃんみなにおいて、それにあたるものは何か。
あるいは、実際に武田鉄矢が教員免許を取っていたら、という世界線。
売れたものは、必ず飽きられる。
それでも、金八先生信仰は今でも生きている。
では、ちゃんみな=武田鉄矢だとして、時代を超えて残るものは何か。
すべてが終わったあと、
誰もいなくなった場所に、理由もなく咲いている花。
たぶん、それだけが残る。
次回の連載第3回の見立ては以下である。
「Adoは、堂本剛である」
https://note.com/a1lo/n/n040de396c337
