李禹煥(LeeUfan)展-[関係]の探究,そして秀逸な解説!-国立新美術館(六本木)
李禹煥(リ・ウファン)展 (国立新美術館、~11月7日)を鑑賞してきた。珍しく感情を先に伝えるなら、期待を大きく超えていた。見せ方はもちろんのこと、解説の手段とその内容がすばらしく、一見難解な作品を、予備知識のない鑑賞者にもわかりやすい言葉で伝えていた。
■2018年、直島の「瞑想の間」で瞑想(もどき)
2018年に直島の李禹煥美術館を訪れた。来訪者がまばらな時間で、あまりの心地よさに長居した挙句、閉館間際の「瞑想の間」では本当に座って、瞑想、みたいなこともさせてもらった(一応、スタッフの方に、ここに座っていてもいいですか、と聞いてから)。


■Wi-Fi完備、無料「音声ガイド」がナビゲート

アート鑑賞は、心の赴くままに解釈すればいいという考え方もある。しかし李禹煥の作品は、予備知識がないと、例えば立体作品では「鉄板と石がただ置かれている(ように見える)」ものなので、予備知識がないと作家がなにを探究し、そこにどう近づいたのか想像するのは難しいのではないか。
本展覧会のすばらしさは、音声ガイドが無料で提供されることだ。
入口で、スタッフが熱心にQRコードからからのダウンロードを勧めていたので「でも、ヘッドフォンがないんです」と言ったところ、「電話と同じように、耳にあてて聞く」でOKとのこと。
会場のWi-Fiも強いので、ダウンロードも聞くことも鑑賞者の負担にならない。中谷美紀さんのナレーションは耳に心地よく、さらに、その内容が、手短で非常にわかりやすい。その言語化、伝え方に、作家本人と展覧会企画者たちの「伝えたい」という想いが伝わってきた。
■作家自らが展示構成を考案、入門者にもやさしい
本展は、李禹煥が自ら展示構成を考案している。時系列に展示され、最後には白い空間の壁に直接描いた作品、初期の作品に立ち戻るような作品で締めくくられており、流れがスムーズでわかりやすい。長編小説を読破し、物語が自分の中を通り抜けたような満足に浸ることができる。
プロローグとして、白い空間の3面の壁に1枚ずつ展示された、ビビッドな蛍光塗料を画面いっぱいに塗った抽象画3作《風景I》、《風景II》、《風景III》(1968年)からスタートする。
視覚を攪乱させるような錯視効果を強く喚起する作品です。トリッキーな視覚効果を引き起こすこれらの作品は、1960年代末の日本に興隆していた傾向を反映しています。
わたしには、白い空間に、色彩が果てしなく拡張していくようなパワーと開放感が感じられた。ロスコの壁画のときとは逆で、解釈に違和感を覚えるようなことはなく、受け入れられた感じがした。空間内に響き合う、3枚の関係が胆になってくるのかな、とも感じた。
■「見え方」が変わる、知的な喜びの瞬間
次に、1968年頃から制作された、石、鉄、ガラス等を組み合わせた立体作品のシリーズ〈関係項〉の鑑賞に入る。
大きなガラス板の上に庭石のような巨大な石が置かれていたり、複数の巨大な鉄板が滑り落ちるように並んでいて一部は床に置かれた形になっていたり。あえて不完全で不安定に並べた石畳を音を立てながら踏みしめて歩く空間や、広い空間の土の上にアクリル板が敷かれて土と遮断され、大きな円柱の中にも土が閉じ込められていたり・・・。
これらの素材には殆ど手が加えられていません。李は、観念や意味よりも、ものと場所、ものと空間、ものともの、ものとイメージの関係に着目したのです。1990年代以降、李はものの力学や環境に対しても強く意識を向けるようになり、石の形と鉄の形が相関する〈関係項〉も制作しています。
これは、「なんでもいいから感じてみましょう」ではなくて、音声ガイドで「関係」「距離」といったキーワードをもらうと、だんだん「そういうこと?」と腑に落ちる瞬間がある。
そして、単なる石であったり空間であったりしたものの「見え方」が変わってくる、この知的なマジック。作家が一歩ずつ次に進んでいくことの追体験へのワクワク感とともに、「アートの面白さ」という、本質的なものを伝えてくれている気がする。
■アーチをくぐる前後で世界の捉え方が変わる
展覧会の折り返し地点が、休憩場所からも臨める屋外展示、唯一の撮影許可作品でもある「関係項―ヴェルサイユのアーチ」(下記の説明文で、アーチ状の野外彫刻の新作が披露される予定、という箇所の完成品)だ。
李は2014年にフランスのヴェルサイユ宮殿を舞台に個展を開催しました。そこでは2 つの石が両脇を支えるように配された、ステンレスの巨大なアーチ状の野外彫刻《関係項―ヴェルサイユのアーチ》が設営され、大きな話題となりました。ひとたび巨大なアーチを通り抜けた観者は、周囲の空間に新鮮な印象を受ける経験をすることになるでしょう。2019 年には香川県の直島町に、《無限門》が恒久設置されました。本展では、国立新美術館の野外展示場でアーチ状の野外彫刻の新作が披露される予定です。

音声ガイドによれば、この作品は、ベルサイユに展示する作品を考案するにあたって、昔に日本の田舎道を歩いていたときに美しい虹を見た、その経験が呼び起こされたからところから発想したという。ベルサイユでの展示の場合は、アーチをくぐらなければ庭に入れない、まさに門としての役割もあった。

ある空間に「門」が設置された場合、その場所はそれまでと別の方法で「開かれる」。それを「くぐる」という行為をすると、前後での世界の捉え方が変わってくる。
音声ガイドに促され、門をくぐった。ただ門が置かれただけなのに、その前後でわたしたちは、そこに関係や意味を見出す。


■「わかった!」に鑑賞者を導く力量
後半は、主に絵画作品だ。
1971年にニューヨーク近代美術館でのバーネット・ニューマンの個展に刺激を受けた李は、幼年期に学んでいた書道の記憶を思い起こし、絵画における時間の表現に関心を強めました。1970年初頭から描き始めた〈点より〉と〈線より〉のシリーズは、色彩の濃さが次第に淡くなっていく過程を表しています。行為の痕跡によって時間の経過を示すこのシステマティックなシリーズは、10年ほど続けられます。
太い筆(刷毛?)にたっぷりと絵の具を塗り、絵の具を塗り足さないで線を引いていく、あるいは点を打っていく。絵の具が尽きて描けなくなったら再びたっぷり絵の具を取って、同じことを延々と繰り返していく。
展示の前半ですでに学習したわたしたちは、それが関係であったり余白だあったりと結びつくのだろう、となんとなく勘所が生まれてくる。
さらに絵からは、刷毛でひと塗りしただけのキャンバスの、全くなにも描かれていない「余白」の存在感が増してくる。描いたことによって生まれる、描かない空間の無視できない存在感、意味。その「感じ」は、前半の立体作品とも強く結びつく。
そしてついに、展示の終盤では、広く白い空間の壁に、刷毛でひと塗りされた白からグレーへのグラデーションだけが描かれた「壁画」に迎えられる。「余白」はついに空間全体へと移行し、響き合う。
これまで鑑賞してきた作品たちのことが浮かび、それらはみな「つながっている」のだという確信が生まれる。そして「そうか、わかった!」という、喜びが自分の内面を駆け巡る。
しかしもちろんそれは、そう導いた作家であり企画者、キュレーターの力のなせる業なのだ。
■置いてきぼりにされない、とてつもない展覧会
エピローグは再び、ものと石との「関係」をテーマにしたインスタレーション。一周して最初に戻った、そんな安心感とともに展示は終わった。
とてつもないものを観てしまった・・・。
展示室出口前の椅子に腰かけ、しばらく余韻に浸った。

本展の素晴らしさは、もちろん作品によるものだ。しかし、この作品たちを、「小難しく」、いかにも「アートっぽく」、「わかる人にわかればいい」という解説することはできる。(たとえば、「もの派」についてネット検索して読んだところで、わたしは、なかなか、「ああ」と直感的な理解はできない)。
しかし、このわかりやすさと、鑑賞者を「わかった!」という高みにまで導く(それも、やさしく)力量。「誰一人として取り残さない」と謳うSDGsのごとく、だ。
鑑賞したあとに、「もの派」をけん引した李禹煥~、と読んでも「ああ、あの感じね」と体感でイメージが浮かんでくる。
まさにこれが、作品作りを通じて作家が目指したことなのだろう。その伝える力は、長い年月をかけて創り出され、磨かれてきた宝のようなものなのだろう。
記憶に、強く残っていく展覧会だ。

