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キラー センテンス②

みなさんこんにちは、すーさんです。
お越し下さりありがとうございます。

夏は追いかければ追いかけるほど、逃げていくような気がします。
というのも、今までの人生を振り返って、「ああ、あれは夏らしい時間だったなぁ」という瞬間は漏れなく、その時の自分はそれほど夏らしさを追いかけてはいないからです。
「意識的に楽しもうとすると楽しめない」というのと同じ現象だと思います。

だから無理に夏を追いかけ過ぎずに、引き続き梶井を読んで過ごそうと思います。

長文になりそうなので、早速本題に入ります。


■今回の目的


今回は「キラー センテンス②」です。

「キラー センテンス」とは、、、
梶井基次郎の作品を読む中で、
僕の心に響いた文章を紹介する企画です。

前回もお話ししましたが、
厳密には「響いた」どころか、
「これは発明だ!」と言いたくなるような
レベルのものばかりです

前回(初回)の内容はこちらです。

初回から濃い内容をお届けしましたが、今回も原液そのままですので、満足して頂けるかどうかは個人差がありますが、満腹になることは約束出来ます。

■キラー リリック


前回と同様に、本編に入る前にまずはキラーリリックを紹介します。
キラーリリックとは僕の心に響いた歌詞のことです。

今回はキラーリリックと、キラーセンテンスはともに「夜/星空」がテーマとしており、記事全体の根底には一つの世界観が敷かれている感じですので、セットとして味わって頂けますと幸いです。

さて、
僕にとってのロマンチックの定義ですが、
絶望の上に成り立つ美しさです。

もしも人生において全てのことが充実し切っていたら夜空を見上げることはなくなるでしょう。

辛いから夜道を歩き、星空を眺めるのです。

今回は、そんな悲しくも美しい感性たちを紹介します。

不思議なのですが、それらの感性はいずれも根底に同じ様な世界観、虚しさ、美しさを持っています。心の終着駅の様な彩りの感性。それを活字にしてお届けします。

本当にこれが伝われば心が潤う気がする。
僕は啓蒙も成長もしなくて良い。
ただ自分の好きなことを話したい。
宝箱をこっそり見てもらう感覚。

僕には不思議というか、感慨深い、でもささやかな経験があります。
なんというか、お鍋に「熱伝導率」があるように、心にも「感動伝導率」があるように思えます。
誰かに紹介したもの。自信たっぷりだったのに、あまり反応が無い。時は流れる。
僕も忘れた頃に、「紹介してくれた〇〇、凄く良いよね!」と言ってもらえる。

この記事もそういった反応を引き起こすかもしれないです。いつか伝わる事を願います。

今もドキドキしながら執筆しています。

では、
今回紹介するキラーリリックは2曲です。

①『1000のバイオリン』
THE BLUE HEARTS

「ヒマラヤほどの/消しゴム一つ〜」のフレーズはコマーシャルにも使われたこともあり、ご存知の方も多いかもしれません。

作詞作曲は真島昌利(マーシー)です。

まずメロディーが切なくも力強く、圧倒されます。何度も聴きたくなる。マーシーは夏が好きなんだ。

ヒロトも同様の傾向がありますが、彼等は孤独な歌詞を書きます。

この曲だけでも10000字の記事がサラッと書けてしまいそうなほど、大好きです。

もうこの曲自体が発明品のような存在なのです。この文章を書いている今も聴きたくなっています。

歌詞が梶井的な価値観なのです。
マーシーが中原中也を読んでいたことはファンの間では有名ですが、梶井基次郎を読んでいたのかは不明です。

でもこの曲の中にある世界や感情は梶井の作品のように感じられます。
 
どういうことかというと、視点なのです。
夏の夜道で人は何を考えるのか?

マーシーは何度も夏の匂いをかいで、この夜を全身で感じます。心の片隅にある憂鬱すら夜に溶かしてしまう。
そこには人生の目標も、愛する人も存在しません。少年の夏なのです。
 
僕は本気で考えています。それは、何か。
「中学生くらいまでの感覚や感性だけが本当なのではないか?」と。
つまりそれ以降に生まれた感情や、欲しくなったものはほとんど建前なのだと。
だから僕は車ももっていないし、高級な服も持っていない。スマホは持ってます。YouTubeなんて中学生の大好物ですからね。
中学生に「愛」「目標」などという装飾品は不要なのです。こんなことを書いたら反感を買うことは分かっています。
でも僕は本気で思っています。

僕が少年時代の夏休みに考えていたこと、、
「あー、暑いけど、廊下に漂う夏の匂いはテンション上がるな〜」「今日の夜はなんか面白いテレビ番組無いかな〜」「花火やりたいな」「カルピス飲もうかな」「よし、ポケモンのパーティーを組み直そう」「夏休みの宿題ユーウツだな」
これくらいのものです。それが「世界」でした。

だからみなさんも『1000のバイオリン』をそんな気持ちで一度聴いてほしいです。

「成長」ではなく「純化」するイメージ。

なんというか、たくさんのごはん屋さんを知る事よりも、大好きなラーメン屋さんに通い続ける感じです。「もうこれさえ食べられるならもうほかはどうでも良い。それより替え玉ください」の精神です。
そんな人に僕は魅力を感じます。

(夏は創造力を加速させます。長文にならざるをえない。)

梶井もマーシーも同様なのですが、
「周囲の自然」と「自身の思考」が融合して「新たな思考」が生まれる、という回路の気がします。この思考回路、僕はものすごく理解出来ます。
  
 著作権などの関係で動画の転載は出来ませんが、THE BLUE HEARTS公式YouTubeチャンネルにありますので必ず観て頂きたいです。

これを聴いている時、僕はただただ感動しています。ゴールに立っているのです。

僕が思うブルーハーツの魅力は
「ダイナミックだけど、内省的」
「ストレートに見えて、皮肉っぽい」
といった「二重構造」です。

しかしブルーハーツの一般的なイメージの多くは、「ダイナミック」で「ストレート」、だと思います。

まさに今回の『1000のバイオリン』も、
曲調だけで捉えると、ダイナミックに思う人もいるかもしれまんが、極めて内省的で、心の中の物語なのです。

仲間たちと社会に楯突く「俺達の夏」的な価値観ではなく、ただただ夏の夜を1人で感じて、胸を一杯にするのです。少しの憂鬱を携えて。

何もやることが無い夏の日、僕は夕暮れを経由して夜を待ち望みます。そして夜。

この曲からは2つのキラーリリックを紹介します。本当は1つに絞るつもりでしたが、どうしても絞りきれず。

1つ目は以下のものです。

揺籠から墓場まで
馬鹿野郎がついてまわる
1000のバイオリンが響く
道なき道をブッ飛ばす

『1000のバイオリン』THE BLUE HEARTS

この歌詞は曲の中盤で、ラストスパートを目の前にして曲調というか雰囲気が変わると同時に歌われる部分です。

マーシーが具体的にどのようなイメージで作詞をしたのかは分かりませんが、センチメンタルな気持ちを抱いて、畑や山に囲まれた夜道を1人バイクでブッ飛ばす風景が浮かびます。

前後半に分けて分析します。

揺籠から墓場まで
馬鹿野郎がついてまわる

「揺籠から墓場まで」というフレーズ自体はマーシーのアイデアではなく、「行き届いた社会保障」を表す言葉として以前から使われていたものです。
この曲においては「生まれてから死ぬまで」というような捉え方で良いと思います。
「揺籠から墓場まで」。このフレーズが曲調のリズムというか譜割り?にピッタリとハマっていてすごく気持ちが良いです。

その次です。
「馬鹿野郎がついてまわる」って、ものすごくザックリとはニュアンスを感じ取れるのですが、「馬鹿野郎」とは誰を指しているのでしょうか。
僕としては「世間の奴ら」的なザックリした意味のままで良いかな、と思います。
マーシーの事なので、何かしらもっと明確な意味を持った歌詞だろうとは思いますが、ここは語感の気持ち良さを大切にします。

この2行の歌詞だけで感じ取ってもらえていると思いますが、マーシーの歌詞は文学的です。この曲に関しても、全編に渡り、絵本のような美しさを持っています。

この2行にしても意味だけで考えると
「生まれてから死ぬまで、世間が追いかけてくる」でも成立しますが、なんというか面白みや味わいが無いのです。
 
だからやはり「揺籠から墓場まで」「馬鹿野郎がついてまわる」必要があるのです。

そして次です。

1000のバイオリンが響く
道なき道をブッ飛ばす

この歌のために書かれた歌詞なんかではなくて、もともとこの歌詞の世界が確かに存在していて、そこに訪れたマーシーがその場面を描写したのではないか、と思えてくるような歌詞です。
「もともと存在していた万有引力をニュートンが発見した」に近いイメージです。

マーシーの歌詞の魅力は
「力強さ」と「繊細さ」の共存
「不良」と「文学少年」の共存
「非日常」と「日常」の共存
だと思っております。

 更にマーシーが個性的であるのはそれらを一曲、というよりも短いセンテンスの中で共存させてしまう点です。

上記の2行でもまさにそうです。
「1000のバイオリンが響く」。
とても美しく、また「1000」という表現も個性的です。つまり繊細さ、芸術性が発揮されています。

ちなみに「1000」という発想はもしかしたら
中原中也の影響もあるのかもしれません。

朝、鈍い日が照つてて 風がある。
千の天使が バスケットボールする。
私は目をつむる、 かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹びてゐる。
朝、鈍い日が照つてて 風がある。
千の天使が バスケットボールする

『宿酔』中原 中也

まず、魅力的かつ独創的な詩ですよね。
爆音のロックンロールに注ぎ込まれる文学の滴。最高の配合率です。



一方でそのあとの「道なき道をブッ飛ばす」は逆にもう不良の中学生/高校生なのです。

多分マーシーはあまり狙わずに、これを地で行っている気がします。

一般的な感覚ではもしも
「1000のバイオリンが響く」という奇跡の歌詞が浮かんだ場合、そこに続く歌詞も「オーケストラ」「メロディー」的な安直な方向に行きがちだと思います。
では何故マーシーはその方向に行かないのか?
それは「歌詞を作ろう」という気持ちよりも「感じたことを書こう」という気持ちが強いからだと思います。
つまり(ヒロトも同じタイプですが)、あまり「よく思われよう」としていないのです。 
よく考えてみると日々、僕らの頭の中も基本的にはマーシー的な思考回路を持っているはずです。

「なんて悲しいニュースなんだ、、。というかもうお昼か。何食べようかな。というか土日はどこに行こうかな。あまり無駄遣いはしたくないな」というように。

僕が感動しない歌詞、それは例えば「なんて悲しいニュースなんだ」を無理やり、努力と根性で拡げようとする魂胆が感じられるものです。あたかも「僕は以前からこの問題に胸を痛めていました」という風情のものです。

先日の記事でも「嘘と本当」について書きましたが、やはり僕はネガティブなので人の嘘っぽさが凄く気になります。

「嘘をつく」=「事実とは異なる事を発言する」だと思われがちです。間違いでは無いと思いますが、それだけでは少し短絡的な気がします。

「嘘を付く」=「本音とは異なる感情を示す」という見方もあるのではないでしょうか。

例えば、大切な人が怪我で入院したとします。
その時にどちらの方が嘘っぽいでしょうか。

A君「まあ、1ヶ月経てば直るから大丈夫!!」

B君「本当に大変だったね。いつでも君のことを想っているよ。辛い時は連絡してね。」

僕はB君が信用出来ません。
それは文章は正しいのですが、本心から言っているとは思えないからです。
もちろん僕の偽善者レーダーが過敏なのかもしれませんが、故障はしていません。

一方でA君。もし怪我が1ヶ月で治らなくても本人が実際にそう思っていたのであればそれは「嘘」とは言えないと思います。

それでも疑問が残る方にお伝えすると、
A君は「相手からどう思われるか」を気にしていないのです。むしろ「相手が安心出来るか」を軸にしています。

一方でB君は不要なアピールも入っています。それが本心に近いとしても、こんな場面においても「相手にどう思われるのか?」を視野に入れている感じが、僕は不快を超えて、もう怖いのです。

話を戻すと、この相反する要素が混在しているからマーシー(もちろんヒロトも)は信用出来るのです。偉そうにすみません。noteで好きなことを語る時だけは偉そうにさせて下さい。

そして「1000のバイオリンが響く」に再度着目します。この歌詞、まさに梶井基次郎的な世界観なのです。

それは何か?恐らくこの夜道において聞こえてくるのは、虫の鳴き声、風の音、遠くの喧騒などだと思います。
マーシーはそこから1000のバイオリンを感じ取っています。

梶井にも似たような感性があります。
今、どの作品だったか見つけられないでいるのですが、彼独自の遊びで、聞こえてくる音、例えば風、揺れる木、虫の鳴き声などをそれぞれの楽器に見立てて、頭の中で1つの音楽を作り上げるのです。かなり独特かつ集中力の要る遊びです。
まさに1000のバイオリンが鳴り響いていそうな遊びですね。

そしてその次、「道なき道をブッ飛ばす」。
繊細さ、美しさの後の破天荒な言い回し。
曲を聴きながら、この歌詞を味わってほしいです。本当に「1000のバイオリンが響く道なき道をブッ飛ば」している映像が浮かびます。

では改めて歌詞をご覧ください。

揺籠から墓場まで馬鹿野郎がついてまわる1000のバイオリンが響く道なき道をブッ飛ばす

もうこれだけで全ては充分ですが、、
更に感動を伝えたい。続けます。

引き続き『1000のバイオリン』です。

誰かに金を貸してた気がする
そんなことはもうどうでもいいのだ
思い出は熱いトタン屋根の上
アイスクリームみたいに溶けてった

もう素敵すぎて、どこからどう触れたら良いか分からない。この名画をケガしたくない、そんな気持ちになります。
 上記の歌詞も、メッセージだけで考えると
「他のことなんてどうでも良いんだ」とかになりそうですが、それをちょうど良いエピソードや比喩的な情景を入れる事で色彩が豊かになります。

見ていきます。

誰かに金を貸してた気がする
そんなことはもうどうでもいいのだ

「誰かに金を貸してた気がする」。
「先月、山田に8000円を確実に貸した」ではないのです。笑

つまり「誰に貸したのか?というか本当に貸したのか?」すらも曖昧なのです。
でもそれすら「もうどうでもいい」のです。
これは抽象度を上げると、「誰かに貸した金」は「世間との繋がり」と言えると思います。
夏の夜、むき出しの心になり、「そんなことはもうどうでもいい」のです。

そして次、心臓が高鳴ります。

思い出は熱いトタン屋根の上
アイスクリームみたいに溶けてった

これもまた、メッセージだけで言うと「過去のことは関係ないんだ」的な事でしょうか。
それをここまでうっとりする歌詞にするマーシー。

(どう表現すべきか、もう葛藤というか迷いというか手が止まった為、一旦息子とお風呂に入ります)

まずこの歌詞の凄さは、端的に言うと
「格好つけていないのに、むしろ格好つけていないから、逆に最高に格好良い」という点です。

「トタン屋根」という言葉を格好良く出来るのはマーシーだけかもしれません。
そして「アイスクリーム」。少年なのです。
更に「溶けてった」という、拙さも感じられる表現。これこそ夏休みの作文です。
 
改めて

思い出は熱いトタン屋根の上
アイスクリームみたいに溶けてった

中学生が使うような単語のみで構成されているこの歌詞。何度読んでもその見事さにため息が漏れます。

そして、何度もしつこくて恐縮ですが、こんな素晴らしい歌詞に、更にメロディーが加わるのです。これを是非味わってほしいです。
みなさん全員の心に響くかは分かりませんが、何人かにとってはこれから生涯聴き続ける曲になると思います。

改めて

誰かに金を貸してた気がする
そんなことはもうどうでもいいのだ
思い出は熱いトタン屋根の上
アイスクリームみたいに溶けてった

今回の記事は15000字くらいになるかもしれません。引き続き何日かに分けてお付き合いください。

キラーリリックの2曲目はこちらです。

②『1000のタンバリン』ROSSO

これは意図的ではなく、今回のキラーセンテンスに合うものを挙げた結果、
『1000のバイオリン』『1000のタンバリン』
になったのです。これは必然かもしれません。

ROSSOはもともとTHEE MICHEL GUN ELEFANTをやっていたチバさんがその後に組んだバンドです。
活動期間はMICHELとROSSOは1年くらい重なります。

チバさんに関してはヒロト&マーシー程詳しくはないのですが、ヒロト&マーシーと同じ、またはそれ以上の繊細な世界観を持っています。でもキャラクターは朴訥でどこかおっかない感じです。

そんなチバさんの作詞した『1000のタンバリン』(作曲はROSSO名義)。

こちらもまずはYouTubeなどで曲を聴いてほしいです。もう、切迫した切なさの種類がなんとなく『1000のバイオリン』に似ているのです。何回も何回も聴きたくなる。

その中で紹介したいのは以下の歌詞です。

そして見上げれば
1000のタンバリンを
打ち鳴らしたような星空

だからベイビー僕は
どうしたらいいとか
そんなことなんて知りたくはない

『1000のタンバリン』ROSSO

もう僕は呆気にとられるしかない。
マーシーは夏の夜道の空気を1000のバイオリンと名付けましたが、
チバは満天の星空を1000のタンバリンと名付けました。
この「1000+楽器」という言葉の構成の一致が偶然であっても、意図的であっても、その事実だけで僕は感動します。
時系列ではブルーハーツの方が10年以上前なので、もしかするとチバがブルーハーツから曲名のインスピレーションを得たのかもしれませんが、真相は分かりません。

そしてこちらの曲もなんとなく、
孤独な雰囲気をまとっていて、そこにも惹かれます。 

見ていきます。

そして見上げれば
1000のタンバリンを
打ち鳴らしたような星空

「なぜタンバリンなのか?」  
恐らくチバにとってタンバリンが比較的身近な楽器であることも関係していると思います。ROSSOの時はどうか分からないのですがMICHELの時は歌いながらタンバリンを持ち、激しく叩く事も多かった為、自然とフレーズとして出てきたのかもしれません。
ここから感じるのは、マーシーと同じくチバも思ったことを素直に歌詞にしているのだろう、ということです。
「うん、これは鐘の音とかベルの方が良いな」という微修正の思考はあまり無さそうです。  

そして、「1000のタンバリンを打ち鳴らしたような星空」とは?
感覚的な話ですがたくさんのタンバリンが、打ち鳴らされている、これは相当に星のきらめきが激しいのでしょう。
また直後の歌詞から、悩みを抱えていることがわかるため、この星のきらめきはチバにとって単純に美しいだけでなく、少しの鬱陶しさを含んでいるのかもしれません。「まぶしすぎるじゃかいか」と。
もう少し心穏やかでいさせてくれと。

続けます。

だからベイビー僕は
どうしたらいいとか
そんなことなんて知りたくはない

ここの歌詞は意味だけでなく、
細かな言い回しに感情が宿っている感じがします。
詳しくは分かりませんが、自身のこれからの道に色々と悩む中で、星空を見上げ、出てきた本音がこれなのでしょう。

「これからの道に興味は無い」とは言わずに
「どうしたらいい」のかは「知りたくもない」のです。
ドライというよりは「葛藤の末の無気力さ」を感じます。
何か悟りを開いた訳ではなく、まだ悩みの中にいる。だけど、これからどうすべきか、なんて今は知りたくない、という事は確か。

僕のイメージする「残酷」ってこれに近いイメージです。
つまり、人生に絶望し打ちのめされて悩み苦しむ自分と、そんなことは関係なく輝き続ける星空。
この構図が美しく、残酷だと思います。
もうそれで全て終わりにしましょう、と言いたくなります。

改めて見てみましょう。

そして見上げれば
1000のタンバリンを
打ち鳴らしたような星空

だからベイビー僕は
どうしたらいいとか
そんなことなんて知りたくはない

『1000のタンバリン』ROSSO

こちらも是非聴いてほしいです。
長い人生の中の数分間。
費やす価値はあります。

ここまでが「キラーリリック」でした。
前菜のサラダのつもりでしたが、もう既にデザートを待っていませんか?
これからメインディッシュでございますので、明日以降でも結構ですから引き続きお付き合い下さい。

■キラーセンテンス


やっと書けます。

今回のキラーセンテンスもこの企画を始めるきっかけになりました。

これを複数の人に読んでもらえる事が本当に嬉しいし、心臓の鼓動が高まっています。

このセンテンスを紹介するためには前置きが必要です。お付き合いください。
 
今回のキラーセンテンスは
梶井の作品『瀬山の話』の中にあります。
 
『瀬山の話』が梶井ファンの中でどれくらいの人気があるのかは分かりませんが、僕は今回のセンテンスがある、という理由で大好きです。
「全曲が好きなわけではないけど、大好きな曲が2つあるから、このアルバムが好き」現象ですね。

もちろん、この作品自体素晴らしいことは間違いないです。

作品はこちらです。
あ、、、申し訳ないのですが、『瀬山の話』は何故か青空文庫にはありませんでした。。

そのため、概要を説明いたします。

【主な登場人物】
・私
瀬山の知人?友人?
本作は「私」視点の文章で書かれている

・瀬山
「私」の知人?友人?
「私」から見るといくつもの顔を持っており、不思議な存在。
実際には様々な悩みを抱えており、その病んでいる部分がこの作品の肝となる。

【話の概要】
本作は終始、「私」が瀬山の人物やエピソード、そして彼から聞いた話について述べていく形で進んでいきます。

「瀬山は〇〇な部分があり、」とか
「瀬山から聞いた話を、私が代わりでここに述べさせてもらう」といった形です。

「私」曰く、瀬山には色々な面がある、とのことです。恐らく瀬山は梶井自身のことを書いているのだと思います。  

瀬山は酒に酔うと人格が変わり、急にだらしない顔になったり、でも極端に思い詰めるような部分もあったり。

また大勢の前に居る時、彼は「理想の自分」を演じて、彼自身それを楽しんだりします。

一方で学校へはろくに行かず、故郷の母親への申し訳無さにどうしようもない気持ちになっていたりもします。

そして本作はそんな瀬山から聞いた話を「私」が語っていきます。
その話というのは2つあり、
1つめは、なんと梶井の代表作である『檸檬』なのです。

「?」

整理します。
本作、『瀬山の話』の中で、「私」が「瀬山から聞いた話」として2つの話をします。
そのうち1つめが『檸檬』なのです。

 以下の前置きののち、「私」は瀬山から聞いた『檸檬』を語ります。

私は今その挿話を試みに一人称のナレイションにして見て彼の語り振りの幾分かを彷彿させようと思う。

『瀬山の話』梶井 基次郎

不思議な構成です。
調べてみると、梶井は先に『瀬山の話』に着手したのですが、なかなかうまくいかないため、『檸檬』の部分だけ抜き出して完成させたとのことです。

これは同世代の人にしか伝わらない例えですが、テレビ番組でいうと、『人気者でいこう!』は終了したけど、その中の人気コーナー『芸能人格付けチェック』が番組として残った、という感じに近い気がします。
かなりフランクかつ、世代を選ぶ例えですが。

つまり本作は劇中劇のような要素を持っていると言えます。

ちなみに本作の中の『檸檬』がそのまま、単品の『檸檬』のして切り抜いて作品になっているのではなく、しっかりと推敲を重ねたものが我々の知る単体の『檸檬』になっています。

そして、『檸檬』を語ったのちに、
2つめの「瀬山から聞いた話」を語り始めます。

この2つ目の話は先ほどの『檸檬』のように何か作品として完成している感じではないのですが、個人的には『檸檬』以上に心に刺さります。もし願いが叶うなら、こちらの2つ目の話も単体の話にしてほしかったです。

2つ目の話の概要は、簡単に言えば
「どうしようもない暗く、どん詰まりの気持ちで下宿までトボトボと歩く夜道」です。
その中で吐き出される瀬山の心情が、もう神がかっており、神聖な輝きを放つのです。

どんな帰り道なのか?
舞台は京都です。
帰り道の開始地点がどこなのかは分かりませんが、目的地である下宿は京都市内の白川とのことです。
僕も2000年代に京都で学生時代を過ごした為、白川という地名でイメージは湧きますが、果たして大正時代はどのような感じだったのか想像がつきません。

ただ、瀬山の心理状態としては、もうどん詰まり。大学もサボっており、もうどうしようもないところまできている。そして家賃も滞納している。また、恐らく既に梶井自身、病気を抱えていた為、何重苦にもなっていたのでしょう。
みなさんもご自身がその立場になったと仮定して、以下のキラーセンテンスを読んで頂きたいです。

キラーセンテンスは2連続で書かれています。

・1つ目


まずはこちらです。
夜、瀬山はトボトボを下宿までの帰り道を歩いています。

私は病みかつ疲れていた。
汚れと悔いに充(みた)されたこの私は地の上に、あらゆる荘厳と豪華は天上に、
、、、私はそんなことを思うともなく思いながら、真暗な路の上から、天上の戴冠式とも
見える星の大群飛(だいぐんぴ)を眺めた。

『瀬山の話』梶井 基次郎

また圧倒されて、鳥肌が立ち、僕は無表情で本を見つめる。

瀬山(梶井)は星空を
「天上の戴冠式」と例えたのです。
この前段階で自分の立ち位置を「地の上に」と前置きすることで、「どうしようもない自分とは対照的に、残酷にも夜空がきらびやかに輝く」という状態を見事に表現しています。

「戴冠式」。この権威主義すら感じさせる言葉が単なる美しさではなく、瀬山(梶井)を悪趣味にも苦しめているのではないか、と推測してしまいます。
このあとのセンテンス、そして梶井の根底の価値観に通じる部分なのですが、彼はもはや「絶望に魅せられている」のではないかと思います。

この感覚は他の作品でも描かれています。
つまり、「状況を改善する為にやらなければいけないことは理解しているのだけど、どうも動く事が出来ず、それを放置しているうちに徐々にこの放置している状態でいることに退廃的な魅力を感じ始めている状態」なのです。

本作のこの夜道においても、もうどん底だからこそ、もういっそ客観的な視点で星空を眺めている感じがします。

「こんなどうしようもない俺の気持ちとは裏腹に、なんてきれいな星のなんだ。ははは。」といった自嘲すら聞こえてきそうです。

そしてそのあと、「星空」や「星々」ではなく、「星の大群飛(だいぐんぴ)」と表現します。
僕は本作で初めて「大群飛(だいぐんぴ)」という言葉を知りました。
なんというか、圧倒的な単語ですね。
ちなみに「大群飛」で検索しても単語がヒットしませんでした。
「群飛」で調べてみると主に以下の意味が出ました。
「虫などが繁殖期に一斉に光に向かって大群で飛び出すこと」。
つい、星に関する単語かと思っていたのですが、これはあくまで星を虫に例えた表現なのかもしれませんね。
それを踏まえると、より一層まがまがしさのようなものが出てきますね。

つまり星々は瀬山(梶井)に寄り添ったり、慰めるのではなく、若干、責め立てるようなニュアンスすら感じられます。

梶井作品に頻繁に出てくる「陽と陰」の世界観です。
ギラギラ輝く星空の眩しさ(陽)に苦しめられる瀬山(陰)。

あと、これはもう完全に推測ですが、
「戴冠式(たいかんしき)」と
「大群飛(だいぐんぴ)」で若干、響きが似ており、そこにも読んだ時の気持ち良さがあります。

先ほど紹介した2曲と世界観がかなり近いと思います。

改めて読んでみましょう。

私は病みかつ疲れていた。
汚れと悔いに充(みた)されたこの私は地の上に、あらゆる荘厳と豪華は天上に、
、、、私はそんなことを思うともなく思いながら、真暗な路の上から、天上の戴冠式とも
見える星の大群飛(だいぐんぴ)を眺めた。

次にいきます。

・2つ目


上記の直後、更に圧倒的なキラーセンテンスが僕を仕留めます。
銃を突きつけられたように、僕はもう両手を上げて固まることしか出来ません。

私はそのときほどはっきり自分が独りだという感じに捕らえられたことはない。

、、、それは友達に愛想尽かしをされているための淋しさでもなかったし、深夜私一人が道を辿っているというその一人の感じでもなかった。
情けないとか、淋しいとか、そのような人情的なものではなく、、、何といったらいいか、つまり条件的(コンディショナル)ではない絶対的(アブソリュート)な寂寥(せきりょう)、孤独感、、、まあそのようなものだった。

私いつになったらもう一度あのような気持になるのかと思って見る。

『瀬山の話』梶井 基次郎

前回のキラーセンテンスに続き、こちらも僕が読書をする理由の1つでもあります。
それは「孤独感」です。
僕にとっての読書は「孤独感を少しでも緩和してくれる文章を探す作業」のような感覚です。
ただ、僕の言う「孤独感」はそんな崇高で格好良いものなんかではなく、なんとなく日々、頭の中で考えたりすることや、1人でぶらぶら街を歩いている時、頭の中に「この頭の中の発想や、この散歩の時間は、世界から見ると何の意味も無い存在なんだろうな」という思いがつきまといます。

格好良く言えば、「誰にも知られる事のない想いや時間」という感じでしょうか。そんな崇高なことではないのですが。

今から100年前、ある青年が自分と同じ様な孤独と絶望を抱えていた、という事実だけでも、僕がこれまで読書をしてきた意味があると思いました。時空を超えて心が通じ合っている感覚です。
なんというか、梶井の孤独が僕の孤独を包みこんでくれた感じなのです。

細かく見ていきます。

私はそのときほどはっきり自分が独りだ
という感じに捕らえられたことはない。

「常に孤独」という表現ではなく、
「そのときほどはっきり自分が独りだという感じに〜」なのです。

梶井らしく、その瞬間を切り取った表現をしています。
「孤独」という一般的な言葉でなく「自分が独りだという感じ」というのも、本当に自分の言葉という感じで、心にカーンと響きます。

続けます。

、、、それは友達に愛想尽かしをされているための淋しさでもなかったし、深夜私一人が道を辿っているというその一人の感じでもなかった。
情けないとか、淋しいとか、そのような人情的なものではなく、、、

この「独りの感じ」は、人間関係や物理的な環境、そしていわゆる感情とも違うのです。
このあとの説明の意味を際立たせ、分かりやすくするために、ここで丁寧に説明してくれています。

そして続きます。

何といったらいいか、つまり条件的(コンディショナル)ではない絶対的(アブソリュート)な寂寥(せきりょう)、孤独感、、、まあそのようなものだった

もうトドメという感じです。
この「独りの感じ」はつまり「絶対的」、言い換えれば「普遍的」なものなのです。

これは個人的な好みですが、明治、大正時代の作家が英語をカタカナで表記していると、無条件で格好良いと思ってしまいます。
なぜかは分かりませんが。

梶井は他の作品においても、たまにそのような表現をします。

そして「コンディショナル」ではなく
「アブソリュート」な孤独。

もう本当にこの地球で自分だけが偽物なのではないか?今まで自分がここまで生きてこれたのは、たまたま伸びた、背の高い雑草のような出来事に過ぎないのではないかという絶望寄りの不安。

なんというか、例えばあなたが孤独な夜を経験したとします。その時に感じた淋しさをある日、家族や親友に熱弁します。相手は大いに反応してくれて、その時はあなたも全て伝えきれた満足感があるとします。
でも冷静に心を分析すると、どうも何か残っている感じがするのです。瓶の内側から出しきることの出来ないケチャップのような僅かなわだかまりのような感情。
常に自分の中に残る、誰とも共有出来ない感じ。それが「孤独」の起源なのでは?と思っています。
影を踏んでも、今度はその足に影が被さっているという現象のもどかしさに似ています。

孤独感は日常でも突然、牙を剥いてきます。
かなり俗的な例ですし、下らないのですが、
例えばAという作品があるとします。僕は個人的には特に魅力を感じておらず、一過性の流行り物ぐらいに捉えているとします。しかし、自分以外の周囲の人(家族、友人)がみんなそのAを「とても面白い」と言っている時、なんだか孤独を感じます。
それは自分だけ仲間外れだとか、変なやつだと思われたらどうしようだとか、そういうことではなく、「自分の感性が少数派である」ことへの不安を感じるのです。
拡大解釈すると「この感性でこれからの人生が成立するのだろうか」という感じです。
それでいて、怖いのはその感性のズレ以外に僕は彼等に対して何の不満も感じていないのです。
だから気を抜くと、見過ごしそうな、でもそれでいて悪性のわだかまりです。

一見、同じ場所に咲いている花に見えるけれど、根元は自分ひとりだけ隔離されている感覚です。根本は別物という恐怖感。

たまたま似たような花が咲いているだけ。

この圧倒されて壊れてしまいそうな心の最後のセーフティネットが僕にとってはこのキラーセンテンスです。
100年前の時を超えて、青年同士の孤独な会話。

梶井のこの姿勢。
「孤独」を打ち負かすのではなく、
ポジティブに受け入れるのでもなく、
ただただ孤独な状況を観察し、繊細な文章で記録しているのです。

そして最後にこう締められます。

私はいつになったらもう一度あのような気持になるのかと思って見る。

なんとなく、「あの不思議な体験をもう一度味わいたい」というニュアンスを感じる文章です。
単純に「星空が綺麗で、神聖な孤独感でした」ということではなく、「あの美しい絶望の淵にもう一度触れてみたい」という危険な好奇心のようなものを感じます。
この締めくくり方も含め、非常にオーラのあるセンテンスになっていると思います。

改めて読んで頂きます。

私はそのときほどはっきり自分が独りだという感じに捕らえられたことはない。

、、、それは友達に愛想尽かしをされているための淋しさでもなかったし、深夜私一人が道を辿っているというその一人の感じでもなかった。
情けないとか、淋しいとか、そのような人情的なものではなく、、、何といったらいいか、つまり条件的(コンディショナル)ではない絶対的(アブソリュート)な寂寥(せきりょう)、孤独感、、、まあそのようなものだった。

私いつになったらもう一度あのような気持になるのかと思って見る。

『瀬山の話』梶井 基次郎

 確か中学生1年生くらいの数学で学びました。
「マイナス」✕「マイナス」は「プラス」だと。
 沈んだ僕の心に、梶井の孤独が掛け合わさると、不思議と少しの「プラス」が生まれる気がします。
だから夏の暑さも、冬の寒さも、雨だって、誰かの心を救っているのかもしれない。
そんな事を思います。

■最後に


それでは、そろそろ終了いたします。
今回は今までで最長の記事となりました。

長くなりましたが、結論としてはいつも通り「梶井基次郎の作品は素晴らしい」という、ただこれだけの事なのです。

これを読んでくれた方のうち一人でも、明日書店で梶井の本を買ってくれたらとても嬉しいです。

「この作品の何が良いの?」というご質問も大歓迎です。自分なりにですが、作品の魅力をお伝えします。

それでは引き続き、それぞれの夏をあじわいましょう。

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