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音楽史・記事編178.ベートーヴェン、女性のための創作史(前編)

 ベートーヴェンは生涯にわたり多くの女性たちと交流し、作品の多くはこれらの女性たちのために作曲されたように思われます。本編ではベートーヴェンが公私に渡り関わった女性たちと、その女性のために作曲あるいは献呈された作品について前編、後編の2回に分けて見て行きます。

〇エレオノーレ
エレオノーレ・フォン・ブロイニング
エレオノーレ・フォン・ヴェーゲラー
(1771-1841)
 ベートーヴェンは未亡人となっていたボンのブロイニング夫人によって家族同様に教育を受け、その見返りとしてブロイニング家の子供たちにピアノを教えていました。ベートーヴェンは長女のエレオノーレに淡い恋心を抱いていたようで、エレオノーレのためにいくつかの曲を作曲し捧げています。エレオノーレはベートーヴェンの友人で医師となったヴェーゲラーの妻となりコブレンツで幸せな家庭を築いており、1726年にはウィーンのベートーヴェンに手紙を送り、子供たちがベートーヴェンのソナタや変奏曲を弾くようになったと知らせています。亡くなる前年に届いたボン時代の親友ヴェーゲラーとその妻となった幼なじみのエレオノーレの手紙は、晩年のベートーヴェンにとって最も大きな喜びであったように思われます。
・バイオリンとピアノのためのモーツァルトの「フィガロの結婚」から「もし伯爵様が踊るなら」の主題による12の変奏曲ヘ長調WoO40、1793年作曲
 モーツァルトの「フィガロの結婚」は1789年にボンで演奏され、ベートーヴェンは宮廷楽団のビオラ奏者として演奏に加わっている。ベートーヴェンは書簡で、エレオノーレに献呈したこの曲について、ウィーンでは身勝手な人々が自分の曲を盗用するので難しく書いているが、演奏の難しさに怯まないようにと、助言している。(1)
・やさしいソナタハ長調WoO51、1796年作曲
ベートーヴェンは音楽の才能が認められれ、ボンの名家であるブロイニング家の夫人から家族同様に教育を受けていたが、その代わりにこの家の子供たちにピアノを教えていた。この曲の不完全な形の自筆譜が、ヴェーゲラーと結婚したエレオノーレによってコブレンツのヴェーゲラー家に伝えられている。(1)

〇リヒノフスキー侯爵夫人
クリスティアーネ・フォン・トゥーン・ホーエンシュタイン、伯爵令嬢
クリスティアーネ・フォン・リヒノフスキー、侯爵夫人
(1765-1841)
 リヒノフスキー侯爵はチェコのポーランドに接するシレジアに大きな領地を持つ大貴族で、妻となったクリスティアーネはプラハの名門貴族トゥーン・ホーエンシュタイン家の美人と評判の3姉妹のひとりで、モーツァルトのクラヴィーアの弟子でもありました。しかし、ウィーンでは苦痛に耐えていたようで、夫の侯爵は何人もの妾を抱えており、シレジアの居城の周辺には妾とその子供のための家を何軒も構えていたとされ、このことが夫人の苦しみの原因であったようです。夫人のクリスティアーネは気を紛らすように、ウィーンに出てきたベートーヴェンに部屋を与え、夕方4時と決まっていた夕食時には夫妻と同じテーブルにベートーヴェンの席を用意するなど気を使っています。また、ベートーヴェンのボン宮廷からの手当ての送付が途絶えると、リヒノフスキー侯爵は専属作曲家としての年金600フローリン(600万円)をベートーヴェンに支給していますが、これも夫人の心配りと見られます。リヒノフスキー邸では毎週金曜日に音楽会が開催されウィーンの名士やハイドンなどの音楽家が多数集まっており、ベートーヴェンのピアノ演奏は一躍ウィーンの評判となって行きます。1806年秋、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵のシレジアの居城に招かれますが、横柄な侯爵の態度にこれまで耐えに耐えてきた堪忍袋をとうとう爆発させ、雨の中ウィーンヘ馬車を走らせます(2)。おそらくベートーヴェンと侯爵の決裂以後は、ベートーヴェンとクリスティアーネ夫人との関係も疎遠になったとみられますが、リヒノフスキー侯爵夫人は、ボンのブロイニング夫人と同様に、ウィーンでの母のような存在であったようです。
・チェロとピアノのためのヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」から「見よ勇者の帰還を」の主題による12の変奏曲ト長調WoO45、1796年作曲
1796年にベートーヴェンは1796年2月から4月半ばまでリヒノフスキー侯爵とともにプラハに滞在し、5月から6月には単身でベルリンを訪問し宮廷での演奏を行っており、自筆譜にはベルリンの紙が使用されていることから、ベルリンで作曲された可能性がある。曲はリヒノフスキー侯爵夫人に捧げられている。(1)
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」Op.43、1801年作曲
イタリアの舞踏家サルヴァトゥーレ・ヴィガノからの依頼で作曲され、1801年3/28ブルク劇場でバレエの上演とともに初演される。第16曲は交響曲第3番「英雄」の終楽章に転用される。曲はリヒノフスキー侯爵夫人に献呈される。(1)

〇ヘンリエッテ・フォン・リヒノフスキー
リヒノフスキー侯爵の妹
ピアノのための2つのロンドOp.51第2曲、1798年?作曲
1802年にウィーンのアルタリア社から出版され、リヒノフスキー侯爵の妹ヘンリエッテに献呈される。(1)

〇マリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵夫人
ピアノ、クラリネット、チェロのための三重奏曲変ロ長調Op.11、1797年末あるいは98年作曲
一般にガッセンハウアー・トリオと呼ばれる。トゥーン伯爵夫人に献呈される。トゥーン伯爵夫人はモーツァルトやハイドン、グルックらとの親交で知られ、母がロプコヴィッツ家の出、娘がリヒノフスキー侯爵家に嫁いだこともあってベートーヴェンと親しい関係を結んでいた。(1)

〇トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵の2人の令嬢
ベートーヴェンはプラハでピアノのための6つの舞曲をトゥーン伯爵の2人の令嬢のために作曲し捧げています。
ピアノのための6つの舞曲WoO42、1896年2月から4月作曲
筆写譜には「ドイツ舞曲、トゥーン伯爵家の2人の令嬢のために、2人を敬愛するルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを思い出してもらうために」というユーモラスな献辞がある。トゥーン伯爵夫人はハイドンとモーツァルトのパトロンとしても知られ、当時60歳代で3人の娘がいた。いずれも既婚者で一人はベートーヴェンがこの旅行で同行したリヒノフスキー侯爵の妻クリスティアーネ、もう一人はラズモフスキー伯爵の妻だった。献辞の文面と音楽のごく単純な様式から推察するに、伯爵家のさらに次の世代の令嬢のことであろう。(1)

〇クラリ=アルドリンゲン伯爵令嬢ヨゼフィーネ
 クラリ=ガラス伯爵クリスティアン夫人ヨゼフィーネ
 ベートーヴェンはプラハでクラリ伯爵の令嬢ヨゼフィーネにマンドリンとピアノのための小品を捧げています。
マンドリンとクラヴィーアのための4つの小品WoO43a、1896年2月から4月作曲
ボヘミアの貴族クラリ伯爵の令嬢ヨゼフィーネは優れた歌い手でマンドリンの演奏も行った。

〇ヨゼファ・ドゥーシェク夫人
ソプラノのためのシェーナとアリア「おお、不実なるものよ」Op.65、1896年2月半ば~4月半ば作曲
ベートーヴェンはイタリア語声楽曲をサリエリに師事していたが、この作品は1795年に着手され96年プラハ滞在中に完成している。モーツァルトと深い親交のあったプラハのドゥーシェク夫人のために作曲されたと推定されている。(1)
バイオリン・ソナタOp.12のうち1曲
ベートーヴェン、宮廷劇場で行われたヨゼファー・ドゥシェク夫人のための慈善演奏会でバイオリンのシュパンツィッヒと共演し、バイオリン・ソナタOp.12のうちの1曲を演奏する。(1)

〇ケグレヴィッチ伯爵令嬢、オデスカルキ侯爵夫人
アンナ・ルイーゼ・バルバラ・フォン・ケグレヴィチ、伯爵令嬢
アンナ・ルイーゼ・バルバラ・フォン・オデスカルキ、侯爵夫人
愛称:バベッテ
 ベートーヴェンはウィーンでのピアノの弟子のアンナ・ルイーゼ・バルバラにピアノソナタ第7番変ホ長調、ピアノ協奏曲第1番ハ長調、2曲のピアノのための変奏曲を献呈しています。
・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調Op.7、1797年前半作曲
ベートーヴェンのピアノの弟子であったハンガリーの貴族ケグレヴィチ伯爵令嬢アンナ・ルーゼ・バルバラ(愛称バベッテ)に献呈される。ハイドンに献呈した作品2の出版で自信を得たベートーヴェンは意欲的に新しい作品に取り組み、規模、内容ともに旧作を上回る作品を書き始め、ベートーヴェンの個性が明確に打ち出されてくる。(1)
・サリエリの「ファルスタッフ」から二重唱「まさにその通り」の主題による10の変奏曲WoO73、1799年作曲
・ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15、1801年出版
ベートーヴェンは最終稿をウィーンのモロ社から出版し、アンナ・ルイーゼ・バルバラ・オデスカルキに献呈する。1797年からピアノを教えていたケグレヴィッチ伯爵令嬢アンナ・ルイーゼ・バルバラはアマチュアとしてはかなりしっかりとしたピアノ演奏テクニックを身につけていたようで、1801年にプレスブルクでインノチェンス・デルバ・オデスカルキ侯爵と結婚している。(3)
・ピアノのための7つのバガテルOp.33、1803年4月出版
・ピアノのための6つの変奏曲Op.34、1803年4月出版
ライプツッヒのブライトコプフ&ヘルテル社から出版され、アンナ・ルイーゼ・バルバラ・オデスカルキに献呈される。(1)
 
〇ブロウネ伯爵夫人アンナ・マグレーテ
 ベートーヴェンはピアノの弟子のブロウネ夫人に3曲のピアノソナタと2曲の変奏曲を献呈しています。ブロウネ伯爵夫人は夫のヨハン・ゲオルグとともに若いベートーベンの支持者であったとされます。
・ピアノのためのヴラニツキーのバレエ「森の娘」からロシア舞曲の主題による12の変奏曲WoO71、1897年4月作曲
・ピアノソナタ第5番ハ短調Op.10-1、1897年前半に作曲
・ピアノソナタ第6番ヘ長調Op.10-2、1897年中に作曲
・ピアノソナタ第7番ニ長調Op.10-3、1798年前半に作曲
・ピアノのためのジュースマイヤーのオペラ「ソリマン2世」から三重唱「戯れ、ふざけて」による8つの変奏曲WoO76、1899年12月出版

〇ブラウン男爵夫人
ヨゼフィーネ・フォン・ブラウン、男爵夫人
 ベートーヴェンはウィーンでのピアノの弟子のブラウン男爵夫人に2曲のピアノソナタ、ホルンソナタを献呈しています。しかし、1806年アン・デア・ウィーン劇場で行われた歌劇「フィデリオ」第2稿初演後に、ベートーヴェンはブラウン男爵とトラブルを起こしており、その後は意図的に気に入らない貴族を避けるようになり、男爵夫人とも疎遠になったようです。
・ピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1、1798年作曲
・ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2、1799年作曲
・ホルン(チェロ)・ソナタへ長調Op.17、1800年作曲
ボヘミア出身のホルンの名手ジョヴァンニ・プント(本名ヨハン・ヴェンツェル・シュティヒ)のために作曲される。当時のヴァルト・ホルンにはバルブがなくホルンのあさがおに突っ込んだ右手によって音程を変えるという高度な奏法が求められた。曲はブラウン男爵夫人に献呈される。(1)

〇テレーゼ・ブルンスヴィク
テレーゼ・フォン・ブルンスヴィク、伯爵令嬢
(1775-1861)
 テレーゼはベートーヴェンの音楽に心酔し、終生「神のごときベートーヴェン」と呼び、ひそかにベートーヴェンを慕っていました。長生きしたテレーゼは終生独身を通し、後半生は生まれ故郷のマルトンヴァシャールで過ごし、自費で託児所を開設しハンガリーの幼児教育の先駆者と呼ばれるようになります。テレーゼは「ベートーヴェンとヨゼフィーネが一緒になっていれば二人とも幸せになれたのに」と繰り返し日記に書いたとされます。(4)
・ピアノ連弾のための、ゲーテの詩「君を想う」による6つの変奏曲WoO74、1799年5/23献呈
ブルンスヴィク姉妹に魅惑されたベートーヴェンは記念帳にこの歌曲を記載し姉妹に献呈する。この曲と献呈がベートーヴェンとブルンスヴィク兄姉妹と後々まで結びつけることになる。(5)
・ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調Op.78、1809年作曲
正にロマン主義的ともいえる「嬰へ長調」という調性と形式、さらに主題にはカンタービレな性格が現れる。1808年の運命交響曲と田園交響曲とによって徹底的な動機操作による主題労作の極致に達したベートーヴェンは主題の動機的な細分化とは別な方法を模索する時期に入る。終生ベートーヴェンを「神のごときベートーヴェン」と呼び、尊敬していたテレーゼに献呈される。(1)

〇ヨゼフィーネ
ヨゼフィーネ・フォン・ブルンスヴィク、伯爵令嬢
ヨゼフィーネ・フォン・ダイム、伯爵夫人
ヨゼフィーネ・フォン・シュタッケルベルク、男爵夫人
(1779-1821)
 本編のヨゼフィーネに関する記載は女性学者でベートーヴェン研究家の青木やよひ著・「ベートーヴェン・不滅の恋人の探求」(4)に基づき、筆者の仮説を織り交ぜて見てゆきます。ベートーヴェンは上記「ベートーヴェン、女性のための創作史」に示すように、3度ヨゼフィーネに恋心を燃やしています。ウィーンに母親に連れられてきたヨゼフィーネにベートーヴェンは惹かれたものと見れますが、ダイム伯爵の強引な求愛によりヨゼフィーネはわずか2週間でダイム伯爵に嫁いでいます。ダイム伯爵が亡くなると、ベートーヴェンのヨゼフィーネへの思いは再燃し、二人は相思相愛の関係となりますが、ヨゼフィーネはベートーヴェンと結婚すればダイム伯爵との4人の子供が貴族から平民になるということからベートーヴェンとの関係をあきらめています。姉のテレーゼとともにスイスのピスタロッツィの教育論を学びに2人の子供を連れてスイスへ向かいますが、ヨゼフィーネは雇入れた家庭教師のシュタッケルベルクに結婚しなければ子供の教育はしないとの強引な求婚におされ再婚します。しかし、経済力の全くないシュタッケルベルクはダイム伯爵が子供たちのために残した遺産をも使いつくしてしまい、逃亡します。子供たちをハンガリーの姉のもとに預け、生活費にも事欠く状況を見るに見かねたベートーヴェンは、2000フローリン(約2000万円)をヨゼフィーネに届けたものと思われます。ヨゼフィーネは頼りになるのはベートーヴェンのみであること悟らされたようで、ヨゼフィーネはベートーヴェンにしがみついて離れなかったのでしょう。不実を犯したことを後悔したベートーヴェンは翌朝4時にはウィーンを離れプラハに向かっています。アントーニアとの将来を夢想していたベートーヴェンですが、テレーゼからヨゼフィーネが身ごもったことが知らされ、このことがアントーニアにも知れるところとなり、激怒したアントーニアからは謹慎が命じられ、ベートーヴェンは1ヶ月に渡って弟のいるリンツに滞在しました。この間にウィーンに戻ったアントーニアは実家のビルゲンシュトック邸を全て整理し、さらに売却し、フランクフルトに引き上げます。ベートーヴェンはアントーニアがウィーンを去った数日後にウィーンに戻ります。人生最大の苦悩のどん底に叩き落されたベートーヴェンは日記に「Aのことはすべて崩壊に至る」と記し、その後10年に及ぶ孤独な戦いを続けています。この間、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」最終稿は大成功を収め、交響曲第7番イ長調と「ヴィットリアの戦い(戦争交響曲)」の圧倒的な演奏にウィーンの聴衆は熱狂し、ベートーヴェンは銀行券8枚(1枚2000フローリンの価値、約2000万円/枚×8=1億6千万円)という思わぬ蓄財を行っています。しかし、ベートーヴェンは苦悩から抜け出しすために必死に戦っていました。そして、新たな境地に至ったベートーヴェンは音楽でもロマン派という新しい様式へと移行して行きます。後期の3曲セットの最後の交響曲では「夫婦の愛の勝利」という自身の理想を「人類愛の勝利」に変貌させ、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」を初演し大成功を収めます。なお、1813年3月にはヨゼフィーネの7人目の子供ミノナが生まれますが、おそらく姉のテレーゼによってベートーヴェンがヨゼフィーネに宛てた13通の恋文はミノナに託されたものと考えられます。ミノナは幼いころは女総督とあだ名され、自身がベートーヴェンの子であることは公にしておらず、シュタッケルベルクに養育された後はウィーンでピアノ教師をし生計を立て生涯独身であったようです。13通のベートーヴェンの恋文はミノナの女中によって持ち逃げされ、1949年アメリカで競売に出され世に出ています。
・ピアノ連弾のための、ゲーテの詩「君を想う」による6つの変奏曲WoO74、1799年5/23献呈
テレーゼとヨゼフィーネに捧げられる。
・フルート時計のための5つの小品WoO33、1800年作曲
ベートーヴェンはヨーゼフ・ダイム伯爵の提案によってこの作品を1799年に作曲したが、ダイム伯爵は当時19歳のヨゼフィーネ・ブルンスヴィクと結婚したばかりで、そのお祝いの心つもりもあった。フルート時計はオルゴール付き時計のようなもので、18世紀後半に貴族社会で流行した。(1)
・歌曲「希望に寄せて」第1作Op.32、1805年作曲
おそらく歌劇「レオノーレ」第2幕の三重唱作曲中に、第2幕で歌われる「希望」の光に満たされて書かれたものと思われる。この歌曲は1804年に夫を亡くしていたダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネに捧げられたが、1805年9月の出版譜には献呈名は記されなかった。(1)
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57、1805年作曲
1949年、アメリカでベートーヴェンがヨゼフィーネに書いた熱烈な恋文14通が発見された。ベートーヴェンがこの熱情ソナタをヨゼフィーネのために作曲したことは明らかで、平民との結婚に否定的であったブルンスヴィク伯爵家のヨゼフィーネの兄のフランツにこの曲を献呈し、結婚の許しを得ようとしたのかもしれません。
・歌劇「フィデリオ」(レオノーレ)Op.72、1805年作曲
原作はフランスのブイイの「レオノール、あるいは夫婦の愛」、この原作を知ったベートーヴェンは友人の法律家で宮廷秘書官、宮廷劇場支配人をしていたゾンライトナーに翻訳とオペラ台本の作成を依頼し、1804年の初めから1805年夏ころまでにほぼ全曲を完成する。(1)
しかし11月の初演は失敗に終わり、翌年に行われた友人のシュテファン・ブロイニングによる第2稿による初演も失敗に終わる。2回の上演後に劇場で権力をふるっていたブラウン男爵から暴言を浴びせられ、ベートーヴェンは貴族という人々にますます反抗的になっていったようにみえます。(5)
・交響曲第4番変ロ長調Op.60、1807年3月作曲
歌劇「フィデリオ」の上演が不首尾に終わったベートーヴェンは「夫婦の愛の勝利」を音楽で実現するために中期の3曲の交響曲を構想したように思われ、最初の第4番変ロ長調は長い序奏を持ち、序奏ではヨゼフィーネへの愛がマグマのように、静かに地中から湧き上がり、やがて地上に出ると大爆発を起こします・・・。このように曲はベートーヴェンのヨゼフィーネに対する自身の心の動きを描いている交響曲のように思われます。
・歌曲「想い」WoO136、1808年以前作曲
出版社への手紙でベートーヴェンはこの歌曲が「自筆楽譜が長らく美しき手のもとにあり・・・」と語り、“美しき手”とはヨゼフィーネ・ダイムであり、この歌曲の溢れる想いはヨゼフィーネに宛てたものであろう。(1)
・交響曲第6番ニ長調「田園」Op.68、1808年作曲
中期の3曲の交響曲の第2曲、ベートーヴェンがかつてヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーの首都ブダペスト近郊・マルトンヴァシャールのブルンスヴィク伯爵の宮殿での夏から秋にかけて滞在した思い出を交えて大自然をテーマとして、ヨゼフィーネのために作曲した交響曲であると考えられます。交響曲第5番「運命」と交響曲第6番「田園」の番号は出版順に振られたことによるものであり、初演時には「田園」は交響曲第5番、「運命」は交響曲第6番となっており、初演の演奏もこの順に行われています。
・交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67、1808年作曲
中期の3曲の交響曲の第3曲、フィナーレでは「夫婦の愛の勝利」を高らかに歌い上げ、壮大な楽章で交響曲は締めくくられます。ベートーヴェンの3曲セットの交響曲の様式はハイドンの初期の3曲セットの交響曲である「朝」「昼」「晩」に見られ、ハイドンの最初の交響曲は日の出をイメージした序奏付きであり、中間の交響曲は5楽章のディヴェルティメント風、最後の交響曲のフィナーレには「嵐」という標題を持っています。

〇リヒテンシュタイン侯爵夫人ヨゼフィーネ・ゾフィー
・ピアノソナタ第13番「幻想曲風ソナタ」変ホ長調Op.27-1、1801年作曲
リヒテンシュタイン侯爵夫人に献呈される。前作の変イ長調葬送ソナタに続き、更なる新しい様式への挑戦が行われる。全楽章の有機的な統一への試みであり、全楽章が連続して演奏されるだけではなく、主要な冒頭主題を楽章内あるいは楽章を超えて回帰させるという循環形式への芽生えが見られる。(1)

〇ヴァイセントゥルン夫人
・歌曲「人は炎を隠したがる」WoO120、1800年あるいは01年作曲
ヴァイセントゥルン夫人のために作曲される。

〇ジュリエッタ
ジュリエッタ・フォン・グイッチャルディ、伯爵令嬢
ジュリエッタ・フォン・ガルレンベルク、男爵夫人
(1784-1856)
 ジュリエッタはブルンスヴィク伯爵家のテレーゼ、ヨゼフィーネの父の妹が嫁いだイタリア人のグイッチャルディ伯爵の令嬢で、イタリアのトリエステで育っています。16歳の1800年ころにウィーンにやってきており、おそらくダイム伯爵のサロンでベートーヴェンに出会いピアノを習うようになったものとみられます。従姉のテレーゼやヨゼフィーネに負けまいと憧れの巨匠に対し積極的にアピールしたようです。ベートーヴェンはたちまちのうちにジュリエッタに夢中になり、生涯で初めて結婚を考えた女性になったようで、ピアノソナタの名曲「月光ソナタ」をジュリエッタに献呈しています。しかし、若いジュリエッタは心変わりし、若い貴族のガルレンベルクと結婚するものの、晩年にベートーヴェンがシントラーに語ったところによれば、ガルレンベルクに経済力はなく1年もたたないうちにベートーヴェンに泣きついたとされますが、ベートーヴェンはこれをはねつけたようです。ベートーヴェンは初期の3曲の交響曲をセットで作曲しようとしたように見られます。新しく斬新な和声で開始される交響曲第1番はドイツのライン地方の思い出と自身のこれからの新しい出発の決意をこめて作曲され、交響曲第2番はイタリアで育ったジュリエッタのための交響曲であり、交響曲第3番「英雄」は共和制の理念に自身の理想を重ね合わせフランスのナポレオンのために作曲し、ヨーロッパの兄弟国であるドイツ、イタリア、フランスの3曲セットの交響曲を作曲したのではないかと見られます。
・ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調「月光」Op.27-2、1801年作曲
このピアノソナタは正式には「幻想曲風ソナタ」嬰ハ短調「月光」との題名がつけられている。1802年3月の出版時にジュリエッタ・グイッチャルディに献呈される。前作の変ホ長調ソナタと同様に3つの楽章は連続して演奏される。この作品は本来あるべき4楽章構成ソナタの第1楽章を欠き、緩徐楽章・スケルツォ・フィナーレで構成される。(1)
故ブルンスヴィク伯爵アントンの妹とイタリアのグィッチャルディ伯爵との間に生まれたジュリエッタは従姉たちと性格がまるで違っていた。当時16歳前後だったが、すでに人目をひく美貌の持ち主で、ベートーヴェンに弟子入りした彼女は、他の従姉たちにおくれを取るまいと、憧れの若い巨匠に対して積極的に自分をアピールしたようだ。(4)
・交響曲第2番ニ長調Op.36、1802年秋作曲
ベートーヴェンは1802年の秋に交響曲第2番ニ長調を完成する。約半年間に及ぶハイリゲンシュタット滞在中に筆を進め、10月中旬にウィーンに戻り、秋のうち全曲を完成する。自筆譜は一時期、弟子のフェルディナンド・リースが作曲者から贈られたものとして所有していたが、現在は消失している。(1)

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180.ベートーヴェン、女性のための創作史(後編)へ

【参考文献】
1. ベートーヴェン事典(東京書籍)
2. 青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3. 平野昭著、作曲家人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
4. 青木やよひ著、決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人の探求」(平凡社)
5. 小松雄一郎編訳、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)

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