音楽史・記事編180.ベートーヴェン、女性のための創作史(後編)
本編ではベートーヴェンの中期から後期に関わった不滅の恋人とみられるアントーニア・ブレンターノとその子マクシミリアーネ、またベートーヴェンがウィーンで使用したピアノの改良にたずさわったナネッテ・シュトライヒャーのために作曲した作品について見て行きます。
また、ベートーヴェンの不滅の恋人のアントーニア・ブレンターノ説については現状において確定的なものではありませんが、なぜアントーニアが不滅の恋人たりえないのかという一般に言われている疑問について述べ、女性学の青木やよひ氏の著作(1)を参考に不滅の恋人のアントーニア説を考察して行きます。
(再掲載)

〇アントーニア
アントーニア・フォン・ビルゲンシュトック、伯爵令嬢
アントーニア・ブレンターノ
(1780-1869)
ベートーヴェンはゲーテと親しい才女ベッティーナ・ブレンターノの訪問を受け、その教養溢れる振る舞いとイタリアの血筋をひく情熱的な容貌に惹かれ、当時結婚を考えていたテレーゼ・マルファッティを差し置いて毎日のようにベッティ-ナと会っていました。しかし、このことがテレーゼの両親に知れることとなり、ベートーヴェンのテレーゼへの結婚の申し込みは断られてしまいます。友人のグライヘンシュタインに「ぼくの誇りは貶められた」と述べると、ベッティーナへの接近を試みるようになり、ベッティーナがウィーンを離れると足しげくベッティーナの異母兄フランツの嫁のウィーンの実家であるラントシュトラッセのビルゲンシュトック邸にベッティーナの消息を求めて訪ねるようになったようです。ビルゲンシュトック邸にはフランクフルトのブレンターノ家に嫁いだアントーニア・ブレンターノとその娘の当時10歳のマクシミリアーネが滞在し、教養豊かで美貌のアントーニアは父ビルゲンシュトック伯爵の膨大な美術品などの遺品整理にあたっていました。1811年になるとアントーニアは体調を崩し病床に伏しますが、ベートーヴェンは毎日訪れて隣室でピアノを演奏し黙って帰っていく、というお見舞いの演奏をアントーニアの体調が回復するまで続けたようです。このことでアントーニアはベートーヴェンに強く惹かれるようになったと思われ、アントーニアはベッティ-ナに手紙で「ベートーヴェンは私の最も愛する人となりました」と伝えています。そして、3月にはベッティーナは兄の友人のフォン・アルニムと結婚していますので、この頃からベートーヴェンとアントーニアは急接近していったようです。ベートーヴェンにとってもこれまで愛してきた女性は貴族の女性であり、一方のアントーニアは貴族の身分を捨てて平民となった女性ということもアントーニアに引き付けられた大きな理由であったようです。ベートーヴェンはこの時期に喜びにあるれる名曲ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」を作曲しています。ベートーヴェンはいつもの夏はウィーン近郊に出かけて創作活動を行っていましたが、1811年は主治医からテープリッツでの温泉療養を勧められたという理由でテープリッツで過ごしています。テープリッツ行きには秘書のオリヴァーを同伴していましたが、9月にはオリヴァーを無理やりウィーンに返してしまい、ベートーヴェンは謎の行動を行っています。後に、オットー・ヤーンの報告に基づいたセイヤーのベートーヴェン伝によってこの時期にベートーヴェンはシレジアのグレーツの教会でミサ曲ハ短調を演奏したという事実が記載され、一般にはシレジアのリヒノフスキー侯爵を訪問し侯爵と和解したのではないかと言われてきました。しかし、実際はプラハでアントーニアとアントーニアの従兄の軍人ネフツェル一行と合流しシレジアへ旅行したことが明らかになります。この理由は、シレジアがアントーニアの母方のハイ家の出身地であること、セイヤーがベートーヴェン伝でシレジアのミサ曲ハ長調の上演状況を詳しく述べているが、この情報の出所が1854年にオットー・ヤーンが高齢のアントーニア・ブレンターノから聞き出したものであることが有力であることからであり、ベートーヴェンとリヒノフスキー侯爵との和解は根拠のないもののように思われます。シレジア旅行でアントーニアとの愛を確信したベートーヴェンは後期の3つの交響曲の作曲を思い立ち、1811年末には交響曲第7番イ長調の作曲に着手しています。そして、1812年7月にはベートーヴェン、アントーニア・ブレンターノ、アントーニアの夫のフランツ・ブレンターノの3人による不可解で奇妙なカールスバート、フランツェンスブルンへの旅行が行われ、ベートーヴェンはテープリッツで3通の不滅の恋人への手紙を書き、更にゲーテ、ベッティーナと出会い、そして9月末、事態の急変によりリンツでの1ヶ月の滞在という行動を行い、この間、アントーニアはウィーンのビルゲンシュトック邸を売り払いフランクフルトに完全に引っ越すという事態になり、ベートーヴェンは人生最大の苦悩のどん底に叩き落されるということになります。ここで、不滅の恋人のアントーニア説を疑問とする一般的な見解と青木やよひ氏の見解および筆者の見解を見て行きます。
(1) 有能で気立ての良い夫と4人の子供に恵まれ、なに不自由ない生活を送っていたアントーニアが、家族を捨ててベートーヴェンに走る必然性がない・・・
【青木説】
アントーニアは10歳のころに母をなくし、女子修道院で寄宿生活をして、教養豊かな女性として成長しています。しかし、嫁いだ先のフランクフルトのブレンターノ家はイタリア系独特の大家族であり、しかもブレンターノ家の当主の妻という立場は、過酷な状況にアントーニア追い込んでいったようです。商社と銀行を合わせたような大企業の当主の夫のフランツは夕食の後も職場に出向いていたようで、アントーニアのストレスは高まり、とうとう重度の心身症を患い、ウィーンの父の危篤の報に接し、ウィーンに逃避したものと見られます。
(2) 1812年7月のボヘミア旅行において、すでに判明しているはずのアントーニアの妊娠という事実について、ソロモンはファクターとして取り上げていない。事実、アントーニアは翌年3/8に男児を出産している・・・
【青木説】
7/3にベートーヴェンがアントーニアから告白されたのは、この妊娠という事実だった。「不滅の恋人への手紙」の中で語られている「やむを得ないこととはいえ、この深い悲しみはなぜでしょう」「どうしようもないことを乗り越えて」などの言葉が、それを裏付けるものととれる。ベートーヴェンは「私たちが完全に結ばれていれば、あなたもわたしもこうした苦しみをそれほど感じなくてすんだでしょうに」と言外に無念さをにじませている。運命の不意打ちに動転している相手を何とかなだめようと、自分の気持ちを抑制していたのだろう。第2信では「あなたは苦しんでおられる」と述べ、第3信では相手を許しながら、相手を励ます内容となっています。アントーニアはフランクフルトで重度の心身症で苦しみながらも、夫のフランツに対しては「善良なるフランツ」と述べており悪意は持っておらず、心身症の原因は夫フランツに関係するものではなかった。このことを知っていたベートーヴェンは苦しみに耐えたのかもしれません。
(3) もしアントーニアが「恋人」であるとすれば、カールスバートからフランツェンスブルンへの1ヶ月半にもわたる旅行中、ベートーヴェンが彼女と狭い宿泊空間を共有していたのは不自然ではないか・・・
【青木説を参考にした筆者の説】
ウィーンでアントーニアは、姉のクニグンダと姉の夫で弁護士のサヴィニーを呼び寄せ、夫との離婚協議を進めたものと見られ、この時にベッティーナを同行させていたため、アントーニアはベートーヴェンと会うこととなります。なお、筆者の仮説ではアントーニア、夫のフランツ、ベートーヴェンの滞在したボヘミアのフランツェンブルンはウィーンとフランクフルトの中間の地であり、弁護士による離婚調停を行うためであったのではないかと見ています。しかし、アントーニアの計画もベートーヴェンとヨゼフィーネの一件であえなく霧散し、激怒したアントーニアはベートーヴェンに1ヶ月の謹慎を命じ、自らは急遽ウィーンへ戻りビルゲンシュトック邸の家財を整理し、建物を売却しています。リンツで謹慎していたベートーヴェンはアントーニアがウィーンを離れた後、ウィーンに戻りますが苦悩のどん底に落ち込み、日記には「Aとのことはすべて崩壊に至る」と記し、10年に及ぶ苦悩の時期を送ることになり、エルデーディ夫人には「苦悩から歓喜へ」と書き送っています。
なお、ベートーヴェンとアントーニアとの関係が崩壊した原因ですが、テープリッツにいたベートーヴェンに1812年9月末にテレーゼ・ブルンスヴィクからヨゼフィーネの妊娠について知らせが来たようです。1812年9/22のテレーゼの日記には・・・妹ヨゼフィーネが宿した子供を、生まれたあかつきには「気高い厳粛な気持ちで」「子供にそなわる神性をなにもそこなわないように」、自分が養育しよう・・・という決心が記されています(1)。ベートーヴェンは自分もアントーニアの妊娠を許したのだから、という安易な考えでアントーニアにこのことを知らせたものと見られ、これを聞いたアントーニアは烈火のごとく怒り狂ったことが想像できます。このようにして「Aとのことはすべて崩壊に至る」という状況に陥ったと考えられます。
・歌曲「恋人に寄せて」第2稿WoO140、1811年3/2
歌曲「恋人に寄せて」に献呈者はいないが、現在パリの国立図書館に残されている手稿譜には「わたしのお願いで作者から、1812年3/2」との書き込みがあり、メイナード・ソロモンは筆跡照合の結果、これをアントーニア・ブレンターノの筆と断定している。この曲はギターまたはピアノの伴奏であり、ギターの弾けるアントーニアのために書かれたと考えられる。(1)
・ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」Op.97、1811年3/3~3/26に作曲
ベートーヴェンが残したピアノ三重奏曲の最高傑作であるばかりではなく、このジャンルにおける古今の最高傑作として名高い作品である。ベートーヴェンはOp.70において、すでにピアノ三重奏に関するおおよその作法を完成していたが、このOp.97で、計り知れないほどの大きな飛躍を遂げることになった。自筆譜には冒頭に1811年3月3日、最後には1811年3月26日の日付が記載されているため、わずか3週間ほどで作曲されたかに見えるが、1810年のスケッチブックにこの作品のスケッチがいくつか残されており、実際はさらに長期を要したと思われる。作品はルドルフ大公に献呈された。(5)
この作品はベートーベンの室内楽作品の最高傑作であり、アントーニアから深く愛された幸福感が溢れ出ています。ベートーヴェンがこの作品を作曲中の3/11に、まだ病床を離れきれずにいたアントーニア・ブレンターノはベッティーナに次のような手紙を送っています。・・・ベートーヴェンは、私のもっとも愛する人となりました。彼の卓抜さそのままのつきあい方、いかなる感情にもたとえようのない感情を呼びさます彼の演奏、それは彼のほの暗くかげった高い丸天井に覆われた音芸術の霊がやどる聖櫃の中から、それらを神々しいすがたによみかえらせるかのようです。彼の在り方すべてが素朴で気高く善意にみち、そして彼の心のやさしさは、もっとも感じやすい女性のそれにもまさるものです。(1)
・交響曲第7番イ長調Op.92、1812年作曲
ベートーヴェンが交響曲第7番イ長調の作曲に着手したのは1811年9月のシレジア旅行の後であろうと見られます。この年、ベートーヴェンは8月初めには静養のためボヘミアの温泉地テープリッツに滞在し、9月には秘書のオリヴァーを一人でウィーンに帰らせるなど謎の行動を行っています。その後はプラハあたりでアントーニア一行と合流してシレジアへ旅行したものと見られます(1)。シレジアのトロッパウのミノリーテンの教会ではミサ曲ハ長調が上演され、その状況が詳しくセイヤーのベートーヴェンの伝記によって報告されていますが、オットー・ヤーンは1853年にアントーニア・ブレンターノに会ってミサ曲上演の様子を聞き出し、セイヤーはオットー・ヤーンからこのことの報告を受けたのではないかとされます。アントーニアとの愛を確信したベートーヴェンは三たび自らの理想とする「夫婦の愛の勝利」をテーマとする後期の3曲の交響曲を構想したのかもしれません。交響曲第7番イ長調はベートーヴェン自身のアントーニアへの愛情を高まりを表現し、序奏の冒頭のように突然恋愛が始まったようです。第2楽章では当時イギリスのトムソンからの依頼で編曲していたアイルランド民謡「どうすればこの愛を示せるか」WoO152-6が用いられています。ベートーヴェンが構想した3曲セットの交響曲は、2曲を仕上げたところで中断し、ベートーヴェンは苦悩を乗り越え新たな境地に至るわけですが、3曲目の第9交響曲の終楽章で高らかに歌い上げるつもりであった「夫婦の愛の讃歌」を、ベートーヴェンは「人類愛の讃歌」に変貌させ、音楽史上初めて合唱を伴ったオラトリオの様式を交響曲に持ち込み、壮大なフィナーレを歌い上げることとなります。
・交響曲第8番ヘ長調Op.93、1812年作曲
ベートーヴェンの後期の3曲セットの交響曲の第2曲はアントーニアのための交響曲であるように見られます。全曲が舞踏のリズムによって構成され、第3楽章ではこれまでテンポの速いスケルツォを置いてきたベートーヴェンですが優雅なメヌエットを置いています。トリオでは思い出のカールスバートのポストホルンの旋律が現れ、終楽章ではおそらく一緒に語り合ったイギリスのバグパイプがファゴットによって現れています。
・6曲の連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」Op.98、1816年4月作曲
歌曲史上はじめての「連作歌曲集」として独自の位置を占めるばかりではなく、ベートーヴェンの全作品のうち最も感動的な音楽の1つとなる。1816年10月ウィーンのシュタイナー社から出版され、フランツ・ヨーゼフ・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。(5)
その頃まだ医学生だったボヘミア出身のアロイス・ヤイテレスから連作詩「遥かなる恋人に」の手書きのコピーがベートーヴェンのもとに贈られてきた。その詩は美しい自然を背景に、遠く離れた恋人を想う切々とした心情を歌ったものだが、当時のベートーヴェンにとってこれほど心を動かされるものはなかった。6連からなるその詩をベートーヴェンは全体を一つの雰囲気の中でつなげ、循環してゆくという新しい様式によって、一挙に作曲した。こうして後にシューベルトやシューマンなどに大きな影響を与えることになる音楽史上はじめての連作歌曲(リーダークライス)「遥かな恋人に」Op.98が誕生した。(3)
ベートーヴェンは1816年頃にたびたびフランクフルトへ宛てた手紙を書いたことが日記に記載されおり、恐らくアントーニアとのことが再燃した可能性もあり、この連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」はフランクフルトのアントーニアへ宛てたものと見ることができます。
・歌曲「いずれにしても」WoO148、1817年作曲
現存するこのリートの初稿譜にはベートーヴェン自筆のアントーニアへの献辞が書き込まれている。(1)
・歌曲「あきらめ」WoO149、1817年末に作曲
パウル・フォン・ハウクヴィッツ伯爵の詩による。ベートーヴェンの日記の1816年末の頁に、女性の頭文字である「T」について2回にわたる意味深長な文章が現れている。そしてそれと連動するかのように「フランクフルト人」としか書いてない相手とひんぱんに手紙のやりとりした記録が残されている。そして、またもイギリス旅行が話題になっている・・・この出来事は1817年末に作曲した歌曲「あきらめ」WoO149によって、その結果が推測できる。おそらく彼としてはいったん過去のものとしたはずの恋人問題がなんらかの理由で再燃し、そして1年ほどで決定的な終焉を迎えたに違いない。「消えよ、わが光!」で始まるハウクヴィッツによるその歌詞は、当時のベートーヴェンの心境を痛ましいばかりに代弁している。(3)
ベートーヴェンと不滅の恋人であるアントーニアの恋は1816年から17年頃に再燃したものの、17年末の歌曲「あきらめ」によって完全に消え去り、ベートーヴェンはハンマークラヴィーアソナタや後期の弦楽四重奏曲などによって、苦難の歳月の末に勝ち取った堂々たる新たな心境とともに音楽史においては異次元の幽玄の世界に導かれてゆきます。
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110、1821年12/25作曲
Op.109と同様にミサ・ソレムニスの仕事の間に作曲される。ロマン・ロランはベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタを献呈の意図からして「ブレンターノ・ソナタ」と呼ぶべきだとしている。ベートーヴェンの最後の3つのソナタはマクシミリアーネ・ブレンターノに捧げられたOp.109の他の2つのソナタは、彼女の母親のアントーニア・ブレンターノに捧げられる予定であり、ベートーヴェンの「不滅の恋人」の3幅対・・・Op.109の「幸福の追憶」、Op.110の「喪失の苦悩」、Op.111の「自己克服と浄化」・・・となるはずであったからである(8)。したがって、この3曲は1812年、13年以来のベートーヴェンの内面の苦闘とそこからの脱出による後期様式への変貌、つまり個人的経験や主観性を通じての表現から、それらを超えた人類にとって普遍的な世界の表現にいたる変貌を、いわば連作として示しているといえる。(2)
作曲はOp.109と同様、1821年ミサ・ソレムニスの仕事の間に行われる。自筆譜にはこの年のクリスマスの日付がある。終楽章のアダージョとフーガ部分の修正は翌1822年春頃まで続いたと見られる。叙情性と思索性の両面でOp.109よりいっそう深化している。(5)
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111、1822年初春ころ作曲
Op.110の第31番のピアノ・ソナタと並行して1821年中に大部分が作曲され、全曲は1822年初春に完成する。ルドルフ大公に献呈される。(5)
この作品はベルリンなど4都市で出版されたが、そのうちロンドン版だけがアントーニア・ブレンターノへの献呈となっている。これを単なる事務上の手違いとする向きが多いが、1812年頃ベートーヴェンがしきりに(アントーニアと共に)イギリス移住を望んでいたことを考えれば、筆者としてはそこに彼の追憶のしるしを感じないではいられない。1812年の晩秋にアントーニアとマクセを連れて、ウィーンからフランクフルトへ帰宅したアントーニアの夫フランツ・ブレンターノは翌年生まれた末子が重度の障害児であったことなど、家庭内の多くの問題に直面したに違いない。だが、4年後には自由都市フランクフルトの市参事会議員に選出され、その後もさまざまな要職についている。アントーニアもまた、文化事業や福祉事業に力をつくし、フランクフルトで最も尊敬される貴婦人として生きた。しかもベートーヴェンを決して忘れることなく遠くから見守り、夫妻で彼を支援し、「世界で最良の友」と呼ばれる関係になった。特に1820年から23年頃には遅々として完成しない「ミサ・ソレムニス」の出版社との交渉過程で、フランツは作曲家の代理人として仲介に立ち、経済的苦境にあったベートーヴェンのために印税の立て替え払いまでしている。ベートーヴェンもその恩義に深く感じ、顧問弁護士のJ・B・バッハに、自分の死後入ってくる収入は第1に、この最も高貴なお二人への返済に当ててほしいと伝えている。(3)
・ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲Op.120、1823年4月作曲
1819年に作曲に着手され、中断の後、1822年から23年4月に作曲される。ベートーヴェンの変奏曲の頂点にあるこの作品は鍵盤音楽史上、否、変奏曲史のなかにあってバッハのゴールドベルク変奏曲と双璧をなしている。バッハが対位法様式の究極を示したのに対し、ベートーヴェンは和声法様式のそれを代表している。この変奏曲は本来、ウィーンの出版社カッピ&ディアベリ社が企画したピアノ変奏曲集のための主題として、アントン・ディアベリ自らが作曲し、1819年春頃にウィーン在住あるいはオーストリア圏で活躍する有名無名の50人の作曲家たちに与えられた競作用の共通課題であった。(5)
ベートーヴェンは1823年に完成された作品120の変奏曲をアントーニアに献呈している。ここにもまた交響曲第8番で使われたポスト・ホルンや作品110のピアノ・ソナタの嘆きの歌のメロディーが現れるが、もはや生々しさはなく、すべてが自在で華麗な音のアラベスクとして昇華されている。彼は恋愛というもっとも秘められた情念から出発して、運命に翻弄され、同時にそれに鍛えられながら、「われらの内なる道徳律とわれらの上なる星々!/カント」の心境に至りついたのだった。(3)
・交響曲第9番ニ短調Op.125、1824年2月作曲、5/7初演
ベートーヴェンが合唱の詩句シラーの「歓喜に寄す」の全篇の作曲しようとの意欲を示したのは、ウィーンに来る直前の1792年、まだボンにいたときである。つまり、最初にベートーヴェンが歓喜を唱おうとした時から32年たって交響曲として結実したのであった。この交響曲の主題となる歓喜のメロディーの最も最初の形は、1794~95年作の歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」(相愛)WoO118である。この歌曲を第1歩として、1803年には歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)Op.88、1808年のピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」Op.80に、1810年の歌曲「彩られたリボンで」Op.83-3に、1819年の歌曲「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)WoO105に1822年の歌曲「盟友歌」Op.122にと、1本の赤い糸のようにベートーヴェンの作曲活動の間をぬってきている。(6)
(参考:9.ベートーヴェン、歓喜の主題の源流)
5/7、ウィーンのケルントナートーア劇場で初演される。総指揮者ベートーヴェン、実質指揮者は宮廷楽長ウムラウフ、コンサートマスターはシュパンツィヒ、独唱はSop:H・ゾンターク、Alt:K・ウンガー、Ten:A・ハイツィンガー、Bar:J・ザイペルト、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に献呈される。当日プログラムは祝典劇「献堂式」序曲Op.124、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123より「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」、続いて交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125が初演される。(5)
初演当日、宮廷劇場は満席になった。痛風で病臥中だったズメスカルは輿に乗って来場し、遠くブダペストから夫婦でかけつけたヨゼフィーネの兄のフランツ・ブルンスヴィクの姿もあった。(3)
〇マクシミリアーネ
マクシミリアーネ・ブレンターノ
愛称:マクセ
・Pf、Vn、Vcのためのアレグレット変ロ長調WoO39、1812年6/26作曲
ベートーヴェンはウィーンのアントーニアの実家であるビルゲンシュトック邸を訪問し、当時10歳のアントーニア・ブレンターノの第3子マクシミリアーネに贈る。ボンのベートーヴェンハウスに所蔵されている自筆譜には「ウィーン、1812年6月26日、私の小さな友達マクセ・ブレンターノに、ピアノを弾く励ましに」と自らの手で、記載されている。この楽譜には珍しく指使いまで書き込まれていて、ベートーヴェンの少女への愛情がにじみ出ている。(1)(5)
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109、1820年秋作曲
アントーニア・ブレンターノの娘マクシミリアーネに献呈される。ウィーン時代にはまだ10歳前後だったお茶目でいたずらっ子のマクセも今では19歳になっているはずだった。出版にあたりベートーヴェンは次のような献呈文を添えている・・・献呈!!!これはどこにでもあるようなありふれた献呈ではありません。この地上の高貴な人々を結び付け、時の流れにも滅びることのない精神、その精神がいまあなたに語りかけ、幼き日のあなたを眼前に彷彿とさせるのです。同じように、あなたのよき両親、すばらしく心豊かなお母さま、いつもわが子の幸福を願っている真に善良で高潔な特性をそなえたお父さまを、目の前に思い浮かべています・・・(3)
〇ナネッテ
ナネッテ・シュタイン
ナネッテ・シュトライヒャー
(1769-1833)
ベートーヴェンは16歳の時に初めてウィーンを訪問し、モーツァルトに会っています。しかし、母の容体悪化の報を受け急遽ボンに返りますが、その帰途アウグスブルクのシュタインのピアノ工房に立ち寄り、その時に初めてナネッテに会ったものと見られます。ナネッテはシュトライヒャーと結婚しウィーンでピアノ工房を初め、宮廷ピアノ製作者の称号を得ています。この時期、ピアノは改良が続けられ、ナネッテによって調製されたピアノによってベートーヴェンの名作が生み出されています。また、ナネッテと夫のシュトライヒャーはベートーヴェンと家族のように親しく付き合い、ナネッテはベートーヴェンの洗濯などの身の回りの世話も行っています。
(参考:12.ピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャー)
・ピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ワルトシュタイン」Op.53、1804年作曲
エラール製のピアノ入手後の1803年から翌1804年にかけて作曲される。フェルディナント・ヴァルトシュタイン伯爵に献呈される。1802年10月に「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためたのち、ベートーヴェンは再度創作に情熱を注ぎこむため、ウィーンに戻るが、その時にボン時代の宮廷楽団の同僚である作曲家レイハの訪問を受ける。レイハは一時ウィーンに滞在していたが、その後はパリに本拠を移して活躍していた。そのレイハがベートーヴェンがヤケッシュ製の使い古されたピアノしか持っていないことを知り、パリに戻ってからベートーヴェンへ楽器をプレゼントする後援者を探したとみられる。そして、1803年8月パリのピアノ製作者エラールから、5オクターヴと5度の幅広い音域をもつ、イギリスアクションのピアノが贈られる。この新しいピアノには4本のペダル機構が備えられ、全音域にわたって3重の弦が張られていた。このエラールのピアノの存在こそが、ベートーヴェンの中期のドラマ的ソナタ様式を飛躍的に充実させるようになる。(5)
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106、1818年秋作曲
ルドルフ大公に献呈される。「ハンマークラヴィーア」の呼称は初版のタイトル「ハンマークラヴィーアのための大ソナタ」に由来する。この作品でベートーヴェンはふたたび4楽章構成による形式拡大を見せる。(5)
この夏から秋にかけてのよみがえった生命力の充温の時期にベートーヴェンが作曲していたのは、のちにピアノ作品の最高峰と呼ばれるピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」(「グランド・ソナタ」)Op.106であった。そして、おそらくそれと同じ時期に絶望で始まって6年間続いた彼の日記は、次の文章をもって終わっている。ここには傾倒していた18世紀の宗教哲学者シュトゥルムの言葉を借りて、苦難の歳月の末にかちとったベートーヴェンの堂々たる心境が表明されている。それは、ハンマークラヴィーアのあの確信にみちた出だしと、なんと類縁性を感じさせるだろう・・・それゆえ私は、心静かにあらゆる変転に身をゆだねよう。そして、おお神よ!汝の変わることなき善にのみ、私のすべての信頼を置こう。汝、不変なる者は、わが魂の喜びたれ、わが巌、わが光、わが永遠なる信頼であれ!(3)
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179.ベートーヴェン、女性のための創作史(中編)へ
【参考文献】
1. 青木やよひ著、決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
2. 青木やよひ著、決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求、北沢方邦編、楽譜にみる「不滅の恋人」への手紙(平凡社)
3. 青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
4. 青木やよひ著、ベートーヴェンとゲーテ(平凡社)
5. ベートーヴェン事典(東京書籍)
6. 平野昭著、作曲家人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
7. 小松雄一郎訳編、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
8. ベートーヴェン、1823年のロンドンのフェルディナンド・リースへの手紙
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