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音楽史・記事編182、ベートーヴェンの恋人と名曲創作

 古典派からロマン派に移行する時期に、ベートーヴェンはロマン派の作曲家のように自身の恋愛体験を音楽として表現しています。ベートーヴェンは深く愛したヨゼフィーネとアントーニアについては生涯秘匿を続け、ベートーヴェンが亡くなってから不滅の恋人への手紙が発見され、1949年に至ってヨゼフィーネに宛てた熱烈な恋文が発見されると徐々に背景の真実が明らかになってきました。しかし、不滅の恋人とはだれかなどについては長く論争が続いてきています。本編では女性学者でありベートーヴェン研究家の青木やよひ氏の著述をもとに、筆者の仮説も織り交ぜてベートーヴェンの恋人に関する真実を探りながら、ベートーヴェンが恋人のために作曲した名曲の創作背景について考察します。

〇エレオノーレ・フォン・ブロイニング(エレオノーレ・フォン・ヴェーゲラー)1771-1841
 ベートーヴェンは未亡人となっていたボンのブロイニング夫人によって家族同様に教育を受け、その見返りとしてブロイニング家の子供たちにピアノを教えていました。ベートーヴェンは長女のエレオノーレに淡い恋心を抱いていたようです。ベートーヴェンの晩年、亡くなる前年に届いたボン時代の親友ヴェーゲラーとその妻となった幼なじみのエレオノーレからの手紙は、ベートーヴェンにとって最も大きな喜びであったように思われます。
・バイオリンとピアノのためのモーツァルトの「フィガロの結婚」から「もし伯爵様が踊るなら」の主題による12の変奏曲ヘ長調WoO40、1793年作曲
 モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」は1789年にボンの劇場で演奏され、ベートーヴェンは宮廷楽団のビオラ奏者として演奏に加わっています。ベートーヴェンは書簡で、エレオノーレに献呈したこの曲について、ウィーンの身勝手な人々による自分の曲の盗用を防ぐため難しく書いているが、演奏の難しさに怯まないようにと、助言しています。

〇ヨゼフィーネ・フォン・ブルンスヴィク(ヨゼフィーネ・フォン・ダイム、ヨゼフィーネ・フォン・シュタッケルベルク)1879-1821
 ベートーヴェンは1799年、親友ズメスカルの依頼でハンガリーからやってきた美人と評判のブルンスヴィク姉妹にピアノのレッスンを行います。姉妹はベートーヴェンのピアノソナタなどの楽譜を手に入れ、その音楽に心酔していたようです。ベートーヴェンは16日間にわたって姉妹にピアノレッスンを行い、ピアノ連弾のための「君を想う」WoO74を作曲し、姉妹に贈っています。姉妹は婿探しも目的としてウィーンに来ていましたが、ヨゼフィーネはダイム伯爵に見初められ、わずか2ヶ月たらずののちに結婚します。ヨゼフィーネの結婚後もダイム邸では夜会が行われベートーヴェンが招かれ、ベートーヴェンはヨゼフィーネにピアノのレッスンを続けています。しかし、1804年には4人の子供を残して、ダイム伯爵は急死しヨゼフィーネは未亡人となり、やがてダイム邸での夜会が復活し、ベートーヴェンはヨゼフィーネに急接近します。この頃に書かれたと思われるベートーヴェンの熱烈な恋文が1949年にアメリカで発見されています。
 ベートーヴェンとヨゼフィーネは相思相愛の関係となります。しかし、ヨゼフィーネはベートーヴェンと結婚すればダイム伯爵との4人の子供が貴族から平民になるということからベートーヴェンとの関係をあきらめ、姉のテレーゼとともにスイスのピスタロッツィの教育論を学びに2人の子供を連れてスイスへ向かいます。ヨゼフィーネはスイスで家庭教師のシュタッケルベルクを雇入れますが、シュタッケルベルクから結婚しなければ子供の教育はしないとの強引な求婚におされ再婚します。しかし、経済力の全くないシュタッケルベルクはダイム伯爵が子供たちのために残した遺産をも使いつくし、エストニアに逃亡します。子供たちをハンガリーの姉のもとに預け、生活費にも事欠く状況を見るに見かねたベートーヴェンは、2000フローリン(1フローリン1万円として約2000万円)をヨゼフィーネに届けたようです。このときヨゼフィーネは頼りになるのはベートーヴェンのみであること悟らされ、ヨゼフィーネはベートーヴェンにしがみついて離れなかったのでしょう。不実を犯したことを後悔したベートーヴェンは翌朝4時にはウィーンを離れプラハに向かっています。
 約3ヶ月後、ボヘミアのテープリッツに滞在していたベートーヴェンのもとにヨゼフィーネの姉のテレーゼからヨゼフィーネが身ごもったという知らせが届きます。1812年9/22のテレーゼの日記には・・・妹ヨゼフィーネが宿した子供を、生まれたあかつきには「気高い厳粛な気持ちで」「子供にそなわる神性をなにもそこなわないように」、自分が養育しよう・・・という決心が記されています。ベートーヴェンの不滅の恋人であるアントーニア・ブレンターノはこのことを伝え聞き、烈火のごとく怒り狂ったことが想像されます。このようにしてベートーヴェンは「Aとのことはすべて崩壊に至る」と日記に記し、人生最大の苦悩のどん底に叩き落されることとなり、10年に及ぶ孤独な戦いを続けています。この間、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」最終稿は大成功を収め、交響曲第7番イ長調と「ヴィットリアの戦い(戦争交響曲)」の圧倒的な演奏にウィーンの聴衆は熱狂し、ベートーヴェンは銀行株券8枚(1枚2000フローリンの価値として計1億6千万円)という思わぬ蓄財を行っています。しかし、ベートーヴェンは苦悩から抜け出しすために必死に戦っていました。そして、新たな境地に至ったベートーヴェンは音楽ではロマン派という新しい様式へと移行して行きます。
 1813年3月にはヨゼフィーネの7人目の子供ミノナが生まれますが、おそらく姉のテレーゼによってベートーヴェンがヨゼフィーネに宛てた14通の恋文はミノナに託されたものと考えられます。ミノナは幼いころは女総督とあだ名され、自身がベートーヴェンの子であることは公にしておらず、シュタッケルベルクに養育された後はウィーンでピアノ教師をし生計を立て生涯独身であったようです。14通のベートーヴェンの恋文はミノナの家政婦によって持ち逃げされアメリカに渡ったものと見られます。
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57、1805年作曲
 ベートーヴェンは愛するヨゼフィーネのためにピアノソナタの最高傑作を捧げようと推敲を重ねたように思われます。しかし、ハンガリーのブルンスヴィク伯爵家ではヨゼフィーネの結婚相手として平民のベートーヴェンに対しては否定的であったと見られ、ベートーヴェンはこのソナタをヨゼフィーネの兄のフランツに対し許しを請うように献呈しています。
・歌劇「フィデリオ」(レオノーレ)Op.72、1805年作曲
 原作はフランスのブイイの「レオノール、あるいは夫婦の愛」、この原作を知ったベートーヴェンは友人の法律家で宮廷秘書官、宮廷劇場支配人をしていたゾンライトナーに翻訳とオペラ台本の作成を依頼し、1804年の初めから1805年夏ころまでにほぼ全曲を完成します。しかし、11月の初演は失敗に終わり、翌年に行われた友人のシュテファン・ブロイニングの改訂台本による第2稿の初演も失敗に終わり、劇場で権力をふるっていたブラウン男爵から暴言を浴びせられ、ベートーヴェンは貴族という人々にますます反抗的になっていったようにみえます。
・交響曲第4番変ロ長調Op.60、1807年作曲
 歌劇「フィデリオ」の上演が不首尾に終わったベートーヴェンは「夫婦の愛の勝利」を音楽で実現するために中期の3曲の交響曲を構想したように思われます。第4番変ロ長調は長い序奏を持ち、ヨゼフィーネへの愛がマグマのように、静かに地中から湧き上がり、やがて地上に出ると大爆発を起こします・・・。
・交響曲第6番ニ長調Op.68、1808年作曲
 ベートーヴェンがかつてヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーの首都ブダペスト近郊・マルトンヴァシャールのブルンスヴィク伯爵の宮殿での夏から秋にかけて滞在した思い出を交えて大自然をテーマとして、ヨゼフィーネのために作曲した交響曲であると考えられます。
・交響曲第5番ハ短調Op.67、1808年作曲
 フィナーレでは「夫婦の愛の勝利」を高らかに歌い上げ、壮大な楽章で交響曲は締めくくられます。
・ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調Op.78、1809年作曲
 1810年にはヨゼフィーネはシュタッケルベルク男爵と再婚し、この年ベートーヴェンはピアノソナタ第24番を出版しヨゼフィーネの姉のテレーゼに献呈しています。ベートーヴェンは「精神の偉大さと心の善良さ」を生涯のモットーとしており、これらは身分制度を超える価値と考えていましたが、身分の問題でヨゼフィーネとの別れが訪れたことについて、姉のテレーゼに音楽で問いかけたのかもしれません。

〇ジュリエッタ・フォン・グイッチャルディ(ジュリエッタ・フォン・ガルレンベルク)1784-1856
 故ブルンスヴィク伯爵アントンの妹とイタリアのグィッチャルディ伯爵との間に生まれたジュリエッタはイタリアのトリエステで育ち従姉たちと性格がまるで違っていました。1800年ウィーンに来たジュリエッタは当時16歳前後でしたが、すでに人目をひく美貌の持ち主で、ベートーヴェンはたちまちのうちにジュリエッタに夢中になり、結婚を考えたジュリエッタに幻想的な月光ソナタを献呈します。しかし、移り気なジュリエッタは若い貴族のガルレンベルクと結婚して、ベートーヴェンのもとを去っています。
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調「月光」Op.27-2、1801年作曲
 この作品は幻想曲風ソナタとして作曲され、本来あるべき4楽章構成ソナタの第1楽章を欠いています。

〇テレーゼ・マルファッティ、1792-1851
 ベートーヴェンはエルデーディ夫人や友人のグライヘンシュタインの諮らいで、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵から年金4000フローリンが支給されることとなり、安定した収入が得られるようになったことから、気のいい友人のグライヘンシュタインに妻探しを依頼します。グライヘンシュタインはベートーヴェンの主治医の姪のテレーゼ・マルファッティを紹介し、ベートーヴェンは衣類を新調し喜々としてマルファッティ家に通うようになりますが、この時期にフランクフルトの才女ベッティ-ナ・ブレンターノの訪問を受け、テレーゼを差し置いて毎日ベッティ-ナと会っていたことから恐らく狭いウィーンでうわさとなり、テレーゼの両親から誤解され、テレーゼとの縁談は破談となります。
・ピアノ・ソナタ第25番ト長調「ソナチネ」Op.79、1809年夏作曲
 ベートーヴェンはテレーゼ・マルファッティのために優しいソナタ「ソナチネ」を作曲しています。
・ピアノのためのバガテル イ短調「エリーゼのために」WoO59、1810年4/27作曲
 このベートーヴェンの名曲は長く、テレーゼ・マルファッティのために作曲されたと信じられてきましたが、最近の研究では「エリーゼ」は、歌劇「フィデリオ」初演でフロレスタンを演じたテノール歌手レッケルの妹であり「エリーゼ」と称されていたエリーザベトであろうと言われています。エリーザベトは後にフンメルの夫人となり、1827年ベートーヴェンが重体に陥った折にはウィーンのベートーヴェンの住まいを夫のフンメルとともに見舞いに訪れています。

〇ベッティーナ・ブレンターノ(ベッティーナ・フォン・アルニム)1785-1859
 ベッティーナ・ブレンターノは18110年5月はじめウィーンの兄嫁の実家ビルゲンシュトック邸を訪れ、ここでベートーヴェンの月光ソナタを聞き、このような曲を作曲する作曲家に是非会いたいとウィーン中を探し回り、5/25日頃にはメルケルバスタイの上に建つベートーヴェンの住居を訪問しています。ベッティ-ナはベートーヴェンから放射される天才の精気に圧倒され、ベートーヴェンもこの情熱的な女性に不思議な感銘を受け、ベートーヴェンはベッティ-ナに芸術論を語り、その内容はベッティ-ナを通してゲーテに伝えられます。
・歌曲「憂いの喜び」Op.83-1、1810年の春から夏に作曲
 ベッティーナはベートーヴェンとの別れに際し、このゲーテの詩に付曲した歌曲の自筆の手稿譜を贈られ、その手稿譜はベッティ-ナの手によってゲーテに渡ったものと見られます。1821年、ゲーテはツェルターとともにベルリンから訪れた若きメンデルスゾーンにある歌曲の手稿譜を見せ、これがベートーヴェンの直筆であることを知らされると、メンデルスゾーンは聖なる驚きに体はこわばり、目は楽譜に釘付けとなりみるみる畏敬の表情に変わったと伝えられています。

〇アントーニア・フォン・ビルゲンシュトック(アントーニア・ブレンターノ)1780-1869
 ベートーヴェンはテレーゼ・マルファッティとの縁談をテレーゼの両親から断られると、友人のグライヘンシュタインに「ぼくの誇りは貶められた」と述べ、ベッティーナがウィーンを離れるとベッティーナの消息を求めて、足しげくベッティーナの異母兄フランツの嫁のウィーンの実家であるラントシュトラッセのビルゲンシュトック邸を訪ねるようになったようです。ビルゲンシュトック邸にはフランクフルトのブレンターノ家に嫁いだアントーニア・ブレンターノとその娘の当時10歳のマクシミリアーネが滞在し、教養豊かで美貌のアントーニアは父ビルゲンシュトック伯爵の膨大な美術品などの遺品整理にあたっていました。1811年になるとアントーニアは体調を崩し病床に伏しますが、ベートーヴェンは毎日訪れて隣室でピアノを演奏し黙って帰っていく、というお見舞いの演奏を行ったようです。このことでアントーニアはベートーヴェンに強く惹かれるようになったと思われ、アントーニアはベッティ-ナへの手紙で「ベートーヴェンは私の最も愛する人となりました」と伝えています。そして、3月にはベッティーナは兄の友人のフォン・アルニムと結婚していますので、この頃からベートーヴェンとアントーニアは急接近していったようです。
 1812年7月、ベートーヴェンはプラハからテープリッツへの旅行に出かけますが、テープリッツでは不滅の恋人への3通の手紙を書き、また、ゲーテとも会っています。さらに、ベートーヴェンはアントーニアとアントーニアの夫のフランツ・ブレンターノの3人による不可解で奇妙なカールスバート、フランツェンスブルンへの旅行を行っており、テープリッツに戻ったベートーヴェンは9月末、ヨゼフィーネの一件でアントーニアを激怒させリンツでの1ヶ月の滞在を行い、この間、アントーニアはウィーンのビルゲンシュトック邸を売り払いフランクフルトに完全に引っ越すという事態になり、ベートーヴェンは人生最大の苦悩のどん底に叩き落されるということになります。
 ここで、不滅の恋人のアントーニア説を疑問とし、不滅の恋人はヨゼフィーネではないかとする一般的な見解と、それに対する青木やよひ氏および筆者の見解を見て行きます。
①   有能で気立ての良い夫と4人の子供に恵まれ、なに不自由ない生活を送っていたアントーニアが、家族を捨ててベートーヴェンに走る必然性がない・・・
【青木説】
 アントーニアは10歳のころに母をなくし、女子修道院で寄宿生活をして、教養豊かな女性として成長しています。しかし、嫁いだ先のフランクフルトのブレンターノ家はイタリア系独特の大家族であり、しかも豪商ブレンターノ家の当主の妻という立場は、過酷な状況にアントーニア追い込んでいったようです。商社と銀行を合わせたような大企業の当主の夫のフランツは夕食の後も職場に出向いていたようで、アントーニアのストレスは高まり、とうとう重度の心身症を患い、ウィーンの父の危篤の報に接し、ウィーンに逃避したものと見られます。
②   1812年7月のボヘミア旅行において、すでに判明しているはずのアントーニアの妊娠という事実について、ソロモンはファクターとして取り上げていない。事実、アントーニアは翌年3/8に男児を出産している・・・
【青木説】
 7/3にベートーヴェンがアントーニアから告白されたのは、この妊娠という事実だった。「不滅の恋人への手紙」の中で語られている「やむを得ないこととはいえ、この深い悲しみはなぜでしょう」「どうしようもないことを乗り越えて」などの言葉が、それを裏付けるものととれる。第2信では「あなたは苦しんでおられる」と述べ、第3信では相手を許しながら、相手を励ます内容となっています。アントーニアはフランクフルトで重度の心身症で苦しみながらも、夫のフランツに対しては「善良なるフランツ」と述べており悪意は持っておらず、心身症の原因は夫フランツに係るものではなく、このことを知っていたベートーヴェンは苦しみに耐えたのかもしれません。
③   もしアントーニアが「恋人」であるとすれば、カールスバートからフランツェンスブルンへの1ヶ月半にもわたる旅行中、ベートーヴェンが彼女と狭い宿泊空間を共有していたのは不自然ではないか・・・
【青木説を参考にした筆者の説】
 ウィーンでアントーニアは、姉のクニグンダと姉の夫で弁護士のサヴィニーを呼び寄せており、夫との離婚協議を進めたものと見られ、この時にベッティーナを同行させていたため、アントーニアはベートーヴェンと会うこととなります。なお、筆者の仮説ではアントーニア、夫のフランツ、ベートーヴェンが滞在したボヘミアのフランツェンスブルンはウィーンとフランクフルトの中間の地であり、弁護士による離婚調停を行うためであったのではないかと見ています。しかし、アントーニアの計画もヨゼフィーネの一件であえなく霧散し、激怒したアントーニアはベートーヴェンに1ヶ月の謹慎を命じ、自らは急遽ウィーンへ戻りビルゲンシュトック邸の家財を整理し、建物を売却しています。リンツで謹慎していたベートーヴェンはアントーニアがウィーンを離れた後、ウィーンに戻りますが苦悩のどん底に落ち込み、日記には「Aとのことはすべて崩壊に至る」と記し、10年に及ぶ苦悩の時期を送ることになります。
 なお、この時期ヨゼフィーネは一人でダイム伯爵が残したミューラー美術館の管理を行っており、1817年にはテレーゼの提案でダイム邸の改修を行っています。目的はダイム邸を改修しアパートとして貸し出し安定した収入を得ようとしたものの、結局は不首尾に終わったようです。テレーゼはハンガリーに引き上げ、孤独感を深めたベートーヴェンはこれ以降、精神に異常をきたしたヨゼフィーネを扶助しながら、後期の幽玄の創作に没頭していったものと思われます。
・ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」Op.97、1811年3/3~3/26に作曲
 この作品はベートーベンの室内楽作品の最高傑作であり、アントーニアから深く愛された幸福感が溢れ出ています。
・交響曲第7番イ長調Op.92、1812年作曲
 アントーニアとの愛を確信したベートーヴェンは三たび自らの理想とする「夫婦の愛の勝利」をテーマとする後期の3曲の交響曲を構想したのかもしれません。交響曲第7番イ長調はベートーヴェン自身のアントーニアへの愛情を高まりを表現し、序奏の冒頭のように突然恋愛が始まったようです。第2楽章ではアイルランド民謡「どうすればこの愛を示せるか」WoO12-6が用いられています。
・交響曲第8番ヘ長調Op.93、1812年作曲
 この交響曲はアントーニアのための交響曲であるように見られます。全曲が舞踏のリズムによって構成され、ベートーヴェンは第3楽章ではこれまでテンポの速いスケルツォを置いてきていますが、この交響曲ではアントーニアにふさわしい優雅なメヌエットを置いています。トリオでは思い出のカールスバートのポストホルンの旋律が現れます。
・6曲の連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」Op.98、1816年4月作曲
 この歌曲の詩は美しい自然を背景に、遠く離れた恋人を想う切々とした心情を歌ったものであり、当時のベートーヴェンにとってこれほど心を動かされるものはなく、6連からなるその詩をベートーヴェンは全体を一つの雰囲気の中でつなげ、循環してゆくという新しい様式によって、一挙に作曲しています。こうして後にシューベルトやシューマンなどに大きな影響を与えることになる音楽史上はじめての連作歌曲(リーダークライス)「遥かな恋人に」Op.98が誕生しました。
・歌曲「あきらめ」WoO149、1817年末に作曲
 「消えよ、わが光!」で始まるハウクヴィッツによるその歌詞は、当時のベートーヴェンの心境を痛ましいばかりに代弁しています。ベートーヴェンと不滅の恋人であるアントーニアの恋は1816年から17年頃に再燃したものの、17年末の歌曲「あきらめ」によって完全に消え去ります。
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106、1818年秋作曲
 1818年の夏から秋にかけてのよみがえった生命力の充温の時期にベートーヴェンが作曲していたのは、のちにピアノ作品の最高峰と呼ばれるピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」Op.106であり、おそらくそれと同じ時期に絶望で始まって6年間続いた彼の日記は、次の文章をもって終わっています。ここには傾倒していた18世紀の宗教哲学者シュトゥルムの言葉を借りて、苦難の歳月の末にかちとったベートーヴェンの堂々たる心境が表明されており、ハンマークラヴィーアのあの確信にみちた出だしとの類縁性が感じられます・・・それゆえ私は、心静かにあらゆる変転に身をゆだねよう。そして、おお神よ!汝の変わることなき善にのみ、私のすべての信頼を置こう。汝、不変なる者は、わが魂の喜びたれ、わが巌、わが光、わが永遠なる信頼であれ!
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109、1820年秋作曲、1821年11月出版
 アントーニア・ブレンターノの娘マクシミリアーネに献呈される。ウィーン時代にはまだ10歳前後だったお茶目でいたずらっ子のマクセも今では19歳になっているはずだった。出版にあたりベートーヴェンは次のような献呈文を添えている・・・献呈!!!これはどこにでもあるようなありふれた献呈ではありません。この地上の高貴な人々を結び付け、時の流れにも滅びることのない精神、その精神がいまあなたに語りかけ、幼き日のあなたを眼前に彷彿とさせるのです。同じように、あなたのよき両親、すばらしく心豊かなお母さま、いつもわが子の幸福を願っている真に善良で高潔な特性をそなえたお父さまを、目の前に思い浮かべています・・・
・交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125、1824・2月作曲、5/7初演
 ベートーヴェンが構想した後期の3曲セットの交響曲は、2曲を仕上げたところで中断し、ベートーヴェンは苦悩を乗り越え新たな境地に至り、3曲目の第9交響曲の終楽章で高らかに歌い上げるつもりであった「夫婦の愛の讃歌」を、ベートーヴェンは「人類愛の讃歌」に変貌させ、音楽史上初めて合唱を伴ったオラトリオの様式を交響曲に持ち込み、壮大なフィナーレを歌いあげます。

 ベートーヴェンの親友ズメスカルがテレーゼ・ブルンスヴィクに「かつてオーストリア皇帝でさえ、これほどの葬礼は受けませんでした」と報告したように、ベートーヴェンの葬儀とそれに続く葬列には2万人とも3万人ともいわれるウィーン市民が別れを告げ、まさに苦悩から歓喜へと自らの苦難を乗り越え、難聴でありながら作曲家として音楽史における傑作を生みだし、人生の最後には結婚を考えたジュリエッタ、ヨゼフィーネ、テレーゼ・マルファッティ、アントーニアのいずれの女性からも敬愛され、素晴らしい人生を全うしたのでした。

参考:178.ベートーヴェン、女性のための創作史(前編)
参考:179.ベートーヴェン、女性のための創作史(中編)
参考:180.ベートーヴェン、女性のための創作史(後編)

【参考文献】
1. 青木やよひ著、決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
2. 青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3. ベートーヴェン事典(東京書籍)

SEAラボラトリ A・HAYAKAWA

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