虚像の王国|3話:ジャズだけが、共犯を知らない
雑居ビルの地下へと続く階段を、赤海は静かに下りた。扉を開けると、煙草の煙が薄く漂っていた。
客は畦地だけだった。
赤海は入口で少し止まった。一秒にも満たない時間だった。
「畦地先生、この度の参院選での大勝、誠におめでとうございます。今晩はお一人で美酒を味わっていらっしゃるのですか」
畦地が顔を上げた。驚いた顔だった。しかしすぐに、その顔が別の表情に変わった。
「突然現れたと思ったら、いきなり皮肉か。今日は独りで飲みたい気分だったんだが。あんなもの大勝でもなんでもないよ」
「ご謙遜を。野党大惨敗のなか、唯一、議席数を伸ばしたではないですか」
赤海は、一つ席を開けて座り、畦地と同じものを頼んだ。
バーテンダーが無言でグラスを置いた。ジャズが低く流れていた。
赤海は一口飲んだ。静かにグラスを置いた。
「契約違反です」
声が変わった。
「今回の件、私は聞いておりませんでしたね」
畦地が、手に持っていた煙草を灰皿に置いた。
「赤海さん──」
「玄水会を、選挙の道具に使った。しかも、私に断りもなく、花城をけしかけて動かした。そういうことですね」
畦地が口を開きかけた。しかし赤海が続けた。言葉が、静かなまま鋭くなった。
「玄水会は、私のものです。無論、花城も私のものです。先生が勝手にお使いになるものではない。最初からそういう約束だったはずです」
「わかっている。だが──」
「先生」
赤海が、畦地の言葉を遮った。
「もっとも腹立たしいのは、あの男です」
一行だけ言った。
「花城が玄水会を自分の商売に使った。会員たちを営業の道具として動かした。あれも、私は聞いておりませんでした」
畦地が、何も言わなかった。
煙草が灰皿の上で、静かに燃えていた。
「先生と花城が二人で動いた。そういうことですね」
「……赤海さん、それは──」
「これまで、先生の党に流してきた資金のことは、まさかお忘れではないですよね。村岡先生が生きておられた頃から、磯山さんを通じて、ご奉仕させて頂きました」
畦地の体が、わずかに固まった。表情は変わらなかった。しかし椅子に座ったまま、何かが固まった。
「資金提供は、明日をもって取りやめます」
静かな一行だった。
トランペットが鳴っていた。
それ以外、何も聞こえなかった。
長い沈黙があった。
畦地が、ゆっくりと息を吐いた。
それから、頭を下げた。
「赤海さん、申し訳なかった。わしが勝手をした。あんたに断りを入れるべきだった。それは認める」
頭を下げたまま、続けた。声が、少し変わった。
「ただ……わしにも守らなければならんものがある。あんたも知っているはずだ。村岡先生から引き継いだものを、このまま潰すわけにはいかん」
頭を下げたまま、少し間があった。
「玄水会からの金がないと、党はつぶれる。そこだけはなんとか」
しばらく、黙っていた。一口飲んで、置いた。
「わかっています。頭をあげてください」
畦地が顔を上げた。
赤海はもうその顔を見ていなかった。
グラスの水面を見ていた。
「それにしても、想定以上でしたね」
「何がだ」
「玄水会の力です。最初、あなた方の勝手な行動に腹が立ちました。しかし、選挙の結果をみて、徐々に興奮しました。玄水会の組織票が、取るに足らないあなたの政党に流れた。私が設計した通りに、いや、設計を超えて動いた」
畦地が、苛立ちの表情を殺して、煙草に火をつけた。
「わしが一番驚いている。玄水会を作るときにあんたはこう言った。選挙に勝つには、金と妄信的な組織票だと」
「そんなことを言いましたかね」
赤海が、かすかに笑った。
「先生は、これからも玄水会の組織票を思う存分使えばいい。ただし、次からは私に一言入れてから動いてください。ただし、花城は絶対に許しません」
「ああ。約束する」
畦地は煙草を深く吸った。
煙が天井に向かった。急に咳き込んだ。
今日のタバコの匂いは、不味い。
「なぜ、花城にそこまでこだわるのだ。あいつも、そろそろ気づく頃だ。すべて世間に話すかもしれない」
赤海が、少し間を置いた。
「大丈夫です。花城はもう共犯です」
静かに言った。
「あの男は、もう戻れません。あの一筆は、消えませんから。玄水会を使って商売をした。署名もした。今さら知らなかったとは言えない。あの男は、自分でそこまで踏み込んだ。戻れる場所は、もうない」
畦地が、煙草を灰皿に戻した。
「情報については、私が管理します。どこに何があるかを知っているのは私だけです。巧妙に隠せる」
一拍置いた。
「ただ──永遠に隠せるものなど、この世にはありませんがね」
その言葉が、どこに向かって言われたのか、畦地には分からなかった。
「すべてはあんたが決める、か」
呟くように言った。それ以上は言わなかった。
「そうです。だから面白い」
赤海が、グラスを持ったまま続けた。
「彼らは、自分が何に従っているかも分からないまま、人生を差し出す」
「今回の選挙で、玄水会の力が証明された。花城という虚像の王の声に従う。自分の目で見ることもできないものに踊らされて。その様は──」
赤海は笑った。
今度は先ほどとは違う笑いだった。
「滑稽であり、同時に──たまらなく美しい」
畦地の背中を何かが通り過ぎた。
右膝が、テーブルの下でわずかに揺れていた。
「壊れる瞬間が、一番きれいなんですよ」
「恐ろしい人だな。次はなにを考えているんだ」
赤海が、少し間を置いた。
「あれは、よく出来ていましたよ。この前の総会の幸せそうな顔、あれが夢にでてくるのです。私に従順であれば、それでいい」
畦地は、何も言わなかった。
「そのためには、ストーリーが必要だった。目の前に楪葉が描いた夢物語があった。庄の国なんてあるわけもないのに。夢というのは便利ですね。誰も見たことがないものほど、人は熱狂する」
畦地の右膝は、まだ揺れていた。
「まるで、あんたにとっては、玄水会も花城もおもちゃだな」
赤海は答えなかった。
畦地が、その沈黙の中で何かに気づいた。背筋が、わずかに伸びた。煙草の灰が、落ちる前に折れた。
「わしも、か」
返事を待たずに、畦地は笑った。自分でも何に対して笑ったのか、分かっていなかった。
赤海が、可笑しくてたまらないかのように笑った。
「あんた、狂っているよ」
畦地がグラスを置いた。乱雑に置いた。
音が静かな店に響いた。
「最高の褒め言葉です」
畦地の右膝が、止まった。
「赤ちゃんはすぐおもちゃに飽きますが、ボケ老人におもちゃを与えたら、一生離しませんよ」
それから、赤海は自分のグラスを静かに持ち上げた。
「先生、今夜は良い酒です」
畦地は、しばらく止まったままだった。手が、わずかに震えていた。二人は、黙って飲んだ。
ジャズだけが、何も知らないまま続いていた。
トランペットが、ひどく陽気だった。
──すべては、もう決まっていた。
