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虚像の王国|2話:あの一筆、まだやめられた

あの夜、俺は一つの線を越えた。
正しいかどうかではなく、戻れるかどうかの線だ。
──そして、その線は、署名という形で残った。
代償は、すぐには来なかった。
──来た時には、もう遅かった。

奈緒からの連絡は途絶えたままだった。


その日の役員会が終わった後、金川社長は俺だけを部屋に呼んだ。

「いま、この会社の業績はどん底だ。お前は、自分が置かれている立場を分かっているか。そして、何をすべきかを」

改革の代償で、業績は落ち続けていた。

「お前が言いたいことはわかる。ただ、生き残るためには、そんな悠長なことを言っている時間はない。使えるものは何でも使え。泥にまみれろ。結果をとにかく残せ」

泥にまみれることと、不正をすることの境界線は、どこにあるのか。

「社長、お言葉ですが。この数字の落ち込みは一時的なものです。根を張り直しているところなので、もうしばらくお待ち下さい」

金川社長が、少し間を置いた。

「お前は相変わらず、綺麗事を言う。それが強みでもあり、弱みでもある。お前が間違っているとは言わない。ただ、間違っていなくても、負ける時は負ける。それが経営だ」

重い一言だった。反論が来なかった。


数日後、畦地から夜の誘いがあった。
高級料亭の奥の部屋で、畦地はすでに待っていた。

「急に呼んで悪かったな。ま、とりあえず一杯」

一口含んだ。富山の酒だった。舌の上で切れた。
畦地がまっすぐ俺を見た。

「あれほど人の心を打つ演説は、なかなかできるものじゃない。俺はこの世界で長くやってきたが、ああいう引力を持っている人間は、そうそういない」

「品性がないとか、理事長を辞退しろとか言ってしまって、これまでの非礼を詫びなければならない。すまなかった」

「先生、いきなり、どうしたんですか。そんなことを仰るなんて、逆に気持ち悪いですよ」

長い息を吐いた。部屋の空気がわずかに動くのを感じた。

「先生、今日はどのようなご用件ですか。私になにかさせようと企んでいるのでしょう」

畦地が猪口を置いた。

「さすが、察しがいいな」

苦笑した。それから、徳利を手に取り、俺の猪口に酒を注ぎながら言った。

「この国の政治に興味はないか。いや単刀直入にいう。日本民権党から出馬をしてくれないか」

「やっぱり無理な要求が来ましたね。冗談にも程がありますよ」

畦地も笑った。二人で笑ったのは、初めてだった。笑い声が消えた後、部屋が静かになった。

「笑い事ではない。俺は本気でお願いをしてるのだ。今度の参院選がどうなっているのかを知っているか。わが党設立以来、最大のピンチにある」

数日前の政治面だった。「日本民権党、議席半減の恐れ」という見出しの記事を見せた。

「お気持ちはわかりますが、私のようなものが政治家など務まるわけがありません。仕事もあるし、さすがにお受けすることはできません」

「そうか」

一度だけ言った。

「お前が思っているより、この話は真剣なんだ。誰でもいいわけではない。お前のような人間が政治の場に立つことに、意味がある。仕事を辞めなくてもよい。ただ、顔と名前を出してくれるだけ、党の空気が変わる」

「先生」

「聞いてくれ。今の政治には、人を引きつける人間が圧倒的に足りない。お前の総会での立ち姿を、俺は会場の端で見ていた。あれは本物だ。恥ずかしながら、お前に嫉妬したのだ」

畦地の声に、熱が来ていた。計算の熱ではなかった。

「申し訳ありませんが、お受けすることはできません。私には、今やるべきことが別にあります」

畦地が、長い息を吐いた。

「……わかった。無理強いはしない」

「なら、わしを信じて力を貸して欲しい。玄水会の会員達へ、わが党に投票するように、玄水会の理事長として宣言してくれないか」

「会員って、確か二千五百人くらいですよね。仮に会員に投票を呼びかけたとしても、国政選挙の勝敗を左右する数とは思えない」

畦地の顔に真剣さが増した。

「いま、玄水会の会員は、先月末で四千人を超えたと報告を受けている。この前の総会からこの半年で千五百人も増えたという計算だ。なぜ、そこまで増えたか分かるか」

「えっ、なぜですか」

「お前の演説だよ。会場にいた会員達が、親族や周りの人達に遺伝子検査を勧誘しまわっているらしい。だから、会員数が爆発的に増えているんだ。お前の声かけに会員達は必ず動く。その積み重ねは、馬鹿にできんよ」

総会の時に沸き起こった熱狂を思い出した。俺は、一族を結集させようと宣言してしまった。あの言葉が動かした。

「で、私に何をしろと言うんですか」

「会員向けに配る文書をこちらで用意した。直筆でサインをしてくれれば、それでいい。あとは、俺が責任をとる」

手渡された文書に目を通した。庄の国が目指した国造りと日本民権党が掲げる公約は一致すると書かれている。

『戦争はやめよう! 武器を放棄しろ! 景気を良くして我々の生活を守れ!』

俺は文書を置いた。

「さすがにこの公約で戦えるのでしようか」

「真面目にやっているさ」

畦地が、急に笑いを消した。

「政治家なんてものは、それぞれの器が違うだけで、中身は大体同じもんだ。結局は、お国よりも自分のことを考える人種さ。俺も含めてな」

沈黙があった。

「先生は、なぜそこまでして、この党を守ろうとするんですか」

聞くつもりではなかった。口が動いていた。

「村岡という男がいた。俺が若い頃に世話になった政治家だ。この党の創設者で五年前に死んだ」

なにかを思い出しながら、呟くように言った。

「あの人は、本物だった。国のことを、本当に考えていた。わしはあの人の隣で二十年見てきた。あの人が死ぬ前に言った。あとは頼むと。だから、俺は地べたを這いつくばっても守ってみせる」

畦地が顔を上げた。

「お前しか頼るものがいないのだ。この通りだ」

畦地は深く頭を下げた。

目の前の男は、この前の俺と同じだ。人は追い詰められると、どんな毒でも飲む。それは守るものがあるからだ。目の前の男の匂いがそう語っている。

この男を助けたいと──そして、使えるとも思った。
その二つは、区別がつかなかった。

その手が、文書に触れる前に、一拍だけ止まった。
それでも──指は、離れなかった。

金川社長の顔が来た。業績速報値の数字が来た。
頭を下げ続けるこの男が道具に思えた。

「頭をあげてください。先生がそこまで言うなら引き受けます。ですが、その書類に署名するかわりに、私にもお願いしたいことがあります」

「交換条件ということだな。いいだろう。なんでも力になるぞ」

畦地が安堵の表情を浮かべた。ただ、交渉の主導権は俺にある。

「昨今の公共事業の削減で苦しんでいます。もっと民間に広げたい。だから玄水会の会員を頼りたい。先生のお力で、繋いでもらえませんか」

「いい考えだ。だが、やり方を間違えている。わしの口から頼むより、お前が直接玄水会の会員に声をかければいい。採算度外視でも願いを聞くだろう。わしの方からも一声かけてやるよ」

目の前の書類に署名した。
ペンが、思ったより軽かった。

「ああ、そうだ。この話は──」

畦地は少し声を落とした。

「赤海には、まだ言っていない」

それだけ言って、また猪口を傾けた。


参院選は、与党が圧倒的多数で圧勝し、野党連合は惨敗した。日本民権党は予想を覆し、議席数を僅かながらに伸ばした。新聞の隅っこに「健闘」とだけ書かれていた。

営業第一部の部長が、業績速報値を俺に見せた。営業部に捌ききれないほどの注文が舞い込んだらしい。興奮しながら説明を始めた──頭には入らなかった。

あの夜を思い出した。署名した筆先が、いつもより軽かった。その軽さが、少し、怖かった。
──そしてその感覚は、二度と元には戻らなかった。

ただ一つだけ確かなのは、
あの時、やめることもできたということだ。

そして──やめなかったという事実だけは、消えない。

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