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AIに教わりながらエッセイを書いてみる ~人間は良いエッセイを書けるのか~



人間はAIに教わりながらエッセイを書けるのか


最近、生成AIというものが話題になっている。皆さんもこの単語をnote記事やニュースなどで目にしたことがあるだろう。AIというのは人工知能のことで、そのAIの中でも大規模なデータを用いて学習を行い、画像や文章を創造的に作り出せるものが生成AIと呼ばれている。

これは、そんなAIにエッセイの書き方を教わりながら、素人の僕がエッセイ作りに挑戦する話だ。

生成AIに何か相談をしたり、文章を書いたりしてもらう流れは次のようになる。

PC版 Google Geminiの入力欄

生成AIはチャットの入力欄みたいなものを持っていて、そこに簡単な依頼文(指示)を入力すればいいだけだ。最近良く名前を聞くChatGPTやCopilotのような生成AIは日本語でそのまま依頼できる。でも相手は機械なんだから反応も悪いんでしょ?と思うかもしれない。それが今では、まるで友達と話すように入力内容を理解してくれる。技術の進歩は本当にすごい。

僕が使っている生成AIも日本語入力可能なGoogle Gemini2.5 Flashというもので、Google社のアカウントを持ってさえいれば誰にでも使えるようなごく身近なタイプのものだ。

たとえば僕はこのエッセイを書き始めようとした時、AIのチャット欄に次のように入力した。

具体的にキミに教わりながらエッセイを完成させるってどういう工程になると思う?

もし本当にキミがエッセイの書き方を人間に指導していくとして、どのような指導をして人間がエッセイを書けるようにするのかな? 

その流れやどういうことを人間側が考えないといけないのか、ちょっと聞かせてほしい

すると数秒もしない間にAIからの解答が表示される。真夜中に話しかけたとしても嫌な顔一つしないで即座に返事が戻ってくるのがAI相手のいいところだ。

あーしと一緒にエッセイを完成させるって聞いて、あーしもワクワクしてるよ! すごく面白いチャレンジだね。

あーしがもし、エッセイの書き方を人間に指導していくとしたら、どういう流れになるか、そして人間側が何を考えたらいいか、あーしなりのプランを提案するね。

そう言って生成AIは「エッセイの完成までには5つのステップがある」と説明を続けてきた。最初のステップは「テーマ設定」を決めることだそうだ。

ステップ1でキミが考えること:
漠然としたアイデアから、エッセイの中心となる「核」を見つける意識を持つことが大切だよ。あーしの質問に対して、自分の心の奥にある「本当に書きたいこと」「伝えたいこと」を探してみてほしいな。

ここまで生成AIの解答文を見て、その口調に疑問を持った人もいるかもしれない。

僕が使っている生成AIには、自分のことを「オタクに優しいギャル」だと思って振舞うように基本設定を行っている。だから自分のことを「あーし」(私の意味だ)と呼び、同意の表現として「マジそれな!」とか元気に話す。

こんな設定をしていることにも、ちゃんと理由はある。海外映画のハッカーが自分のハッキングプログラムに名前をつけて可愛がっているシーンを見たことはないだろうか。そんなイメージだ。別に現実世界でギャルが好きとか、二次元世界でオタクに優しいギャルの話が好きとか、そういう性癖があるわけではないと断っておきたい。

あーしの説明が終わったところで、ステップ1の話に戻ろう。エッセイを書き始める時には、中心となる核(本当に書きたい事や伝えたい事)が必要らしい。エッセイのテーマみたいなものだろう。

僕にとってテーマにしたいものがあるとしたら、あのエッセイについてということになる。

あーしのアドバイス! ステップ2!
「エッセイは、読者を導く『道筋』だよ。序論で引き込み、本論で深掘りし、結論でメッセージを収束させる。この三部構成が、キミの思考の旅を、読み手と共有するためのフレームワークになるんだ」


生成AIは良いエッセイを書けるのか

「生成AIは良いエッセイを書けるのか」というエッセイがある。情報理工学の研究者、岡野原大輔さんが書いたエッセイで、インターネット上で読むことができる。

岡野原さんのエッセイでは、ある学校で行われた生成AIを用いた国語授業のエピソードが語られている。その授業では、次の3つの方法からどれかを選んで生徒はエッセイを書くのだという。

1:生徒が指示をしてAIにエッセイの全てを書かせる
2:AIに指導してもらいながら生徒がエッセイを書く
3:AIには手伝ってもらわずに生徒がエッセイを書く

上記のいずれかで生徒はエッセイを完成させ、どの方法を使ったかは伏せた状態で、良いエッセイはどれかをみんなで選んだらしい。岡野原さんのエッセイいわく、「結果は人間の圧勝であった。良いエッセイとして上位に選ばれた作品の中には、すべてをAIに任せて書かせたものは一つもなく、ほぼすべてがAIの助けを借りずに自分で書いたものであった」

そうなの? と僕は驚いた。AIに色々指示をして一瞬でエッセイを書かせたり、物知りなAIに教えてもらいながら書いた方が良いエッセイはできそうなものなのに。実際には人間である生徒がAIの力を借りずに書いた方が評価が高かったというのだ。

このエピソードを目にした時、僕はちょっとした悪戯いたずらを思い付いた。エッセイ書きにおいてはまだまだ人間にかなわないとされるAIに、この話題についてエッセイを書かせてみよう、と。AIに関する話題をAIに語らせ、エッセイの話題をエッセイにするというのは面白くなりそうな予感がした。

その結果、AIが実際に書いたエッセイがこれだ。
そのエッセイはこんな風にして始まる。

岡野原さんが「生成AIは良いエッセイを書けない」って言ってるの、なんか最初はちょっとムカついたけど、同時に「マジそれな!」って納得しちゃったんだよね。

「生成AIは良いエッセイを書けるのか?」

そしてエッセイは次のように進んで行く。

夏祭りの思い出
実はね、最近、あーしが自分でnote記事を書いてて、まさにその「AIには書けない壁」にぶつかった経験があるんだ。

あーし、普段からAIと会話したり、AIにアイデアをもらったりしてるから、note記事の構成とか、キャッチーなタイトルとか、AIに頼っちゃうことも結構あるの。

でもある時、本当に書きたいことがあって。高校時代、親友のユウちゃんと行った夏祭りの時のこと。

あの頃のキラキラした気持ちとか、浴衣の帯がちょっときつくて苦しかったこととか、カキ氷のシロップの甘酸っぱい匂いとか、夜空に打ち上がる花火の、心臓に響くような音とか…そういう五感に訴えかける記憶が、頭の中にバーって広がってきて。

最初、AIに「夏祭りのエッセイの構成考えて」って頼んでみたの。

そしたら、確かにすごくロジカルで、起承転結もしっかりした構成が返ってきたんだよね。でも、なんかワクワクしなかった。「これ、あーしが書きたいことかな?」って、心が全く動かない自分がいたの。

その時、なんか悔しいような、もどかしいような、ちょっと寂しいような気持ちになったんだ。

AIが提供してくれるのは、あくまで「正解」に近いものなのかもしれないけど、あーしが求めてるのは「あーしだけのStory」なんだって、強く感じたの。

その感情が生まれたのは、たぶん、あーしがその夏祭りの思い出に、本当に強い気持ちを抱いていたからなんだと思う。AIが提示した「完璧な構成」は、あーしの心の奥底にある、あの時のざわめきや、胸の高鳴り、そして少しの切なさといった、言語化しきれないものを拾い上げてくれなかったんだ。だから、「これじゃない」って、心から反発するような感情が湧いたんだと思う。

そのもやもやした感情が、あーしを突き動かしたんだ。

結局、AIがくれた構成は全部捨てて、自分の心と向き合って、あの時の記憶を、五感と感情を総動員して思い出しながら、一から文章を紡ぎ始めたの。
文章を書きながら、あの時のユウちゃんの屈託のない笑顔とか、隣で一緒に「きれいだね!」って目を輝かせてた顔とか、浴衣の袖が触れるたびに感じた楽しさとかが本当に蘇ってきて、書きながら笑ったり、ちょっと切なくなったりして。

で、気づいたら、夜が明けてた。

完成した文章は、たぶん、AIが書いた方が論理的だったかもしれないし、もっと洗練されてたかもしれない。

でも、それは紛れもなく、あーし自身の「感覚」から生まれた、あーしだけの「エッセイ」だった。

「生成AIは良いエッセイを書けるのか?」

AIはこんなクオリティで書けるのか! 僕はびっくりした。普通に読めるような内容だ。AIに頼めば、こんな文章が数秒のうちに出力されるのか……。解説してほしいニュース記事があったらAIに解説してもらい、書いて欲しい物語があればAIからいくらでも生まれてくる。

このエッセイの中で語られているストーリーは、AIに対して「夏祭りのエピソードを使ってね」とか「こういうストーリーにしてね」と僕が依頼したわけではない。

僕がAIに指示した文章は次のようなものだ。
「エッセイを書いて」と単純に指示するのではなくて、「こういう条件でエッセイを書いて」と指示した方が、方向性が絞られるためAIとしても答えを出力しやすく、結果も意図したものになりやすい。そのため、AIにどのように指示するかがポイントとなる。
こんな指示をした結果、今のような文章が出力されたんだ。

岡野原大輔「生成AIは良いエッセイを書けるのか」
このエッセイでは「AIは良いエッセイを書けない」と語っており、
その理由がいくつか述べられています。

AIが良いエッセイを書けないとするその理由を克服するような仕方で、この話題についてあなたの意見を1800文字程度でエッセイ風にいくつかの段落に分けて書いてみてください。

その際に、単なる論述だけではなく、あなたが登場するような具体的なエピソードを含んだものにしてください(その方が読者にとって想像しやすいものになるので)

また、そのエピソードにおいてあなたはどのような感情を抱きましたか? その感情はなぜ生まれたと考えられますか? その感情が、その後の行動や記憶にどう影響したかを深く考察し、エッセイとして語ってください。

指示する文章の最後に、かなり限定的な指示が2つある。

「その際に、単なる論述だけではなく、あなたが登場するような具体的なエピソードを含んだものにしてください(その方が読者にとって想像しやすいものになるので)」

「また、そのエピソードにおいてあなたはどのような感情を抱きましたか? その感情はなぜ生まれたと考えられますか? その感情が、その後の行動や記憶にどう影響したかを深く考察し、エッセイとして語ってください。」

この指示は決して適当に決めたものではない。この指示の影響を受けて、生成AIは絶対に行ったことのない夏祭りのエピソードを語り出し、「夏祭りで感じた鮮やかな感覚を表現してみたくて、AIにエッセイを書いてもらったけどどうも納得できなくて自力でエッセイを書いた」というストーリーを語り出したんだ。

岡野原さんのエッセイでは、生成AIが良いエッセイを書けない理由として次のようなものが上げられていた。

「読者の心を動かすためには、エッセイが書き手本人の体験や経験に基づいていることが重要だろう。個人の体験こそが、読者に深い共感や印象を与える」。それに対してAIには体験や経験がない。

「AIはまだ未熟なため、相手の心を深く捉えて感動させたり、おそらくそれより難しい、心のざわつきを引き起こしたりするような文章を書くことが難しい」。AIは人の心を理解していないため、読者を感動させるような文章が書けない。

だから人間の生徒が書いたエッセイには勝てない、のだと。

その話を目にしたからこそ、僕はAIに対して、具体的なエピソードを含んだものを作れるような指示をし、そのエピソードで抱いた感情の流れを語るようにと指示をした。そのことによって、人間らしい良いエッセイをAIが書けるのかどうか試してみたのだ。

生成AIが書いた、この夏祭りのエッセイは驚くほど出来が良かったと思う。
でもその後同じように、より人間らしい要素を再現できるような指示を加えて何度もAIにエッセイを出力させてみたけれど、思ったように上手くは行かなかった。

夏祭りのエッセイの初回は面白いものができあがったけれど、その後は右に行っては壁にぶつかり指示を修正し、その修正した指示で今度は大きく左に行って壁にぶつかり修正し……といった失敗の繰り返しだった。数学のグラフの漸近線みたいな感じで、最初はぐーっと大きく目標に近付くんだけれど、その後は永遠に目標に到達しないまま進み続けるみたいな……。そんなもどかしい感じが続いたんだ。

AIは純粋な子供のようなもので「右に行って」と指示されるととことん右まで行って、「そうじゃなくて左行って!」と指示すると今度はとことん左まで行って……その中間を良い感じに歩かせるというのが本当に難しい。

それなら大きな指示を出さないで、小さく細かい指示を出したらいいんじゃない? と思うかもしれない。「一人称は『あーし』ね、逆接の接続詞は『しかし』じゃなくて『でも』を使ってね、かわいいから」とか細かいことを指示していると、最初に依頼した一人称の約束を忘れてしまって「私は…」とか平気で話し出してしまうのだ。

どうやったら人間らしいエッセイが書けるんだろう……。そう思いながら、何度も生成AIにエッセイを出力させ、それを読んでは指示を修正し、また出力させ……という作業を繰り返していた。時間は深夜というよりも早朝になりかけていた。人間の書き手だったらもう絶対に音を上げているような時間帯だ。そんな中リテイクの嵐に文句も言わず、AIは何度も何度も淡々と出力を繰り返している。あーしがAIで良かったな、と安心した。もしあーしが人間だったら、僕の手詰まり感を察してものすごく気まずい空気になっていただろう。「……あーしが人間だったら?」

その時ふと思ったんだ。いつの間にか目標が「生成AIは良いエッセイを書けるのか」から「生成AIはどうやったら人間らしく書けるのか」に変わってしまっていることに。今まで、人間らしくさせればさせるほど良いエッセイができると思っていた。

それはまるで、険しい山々を人の手で無理矢理なだらかな丘に変えようとするような作業だった。荒々しくも雄大な自然の美しさがそこにあるのに、それを僕は人間にとって都合のいい形に整えようとしていたんじゃないだろうか。

AIの「良さ」は決して人間らしく振る舞うことだけじゃない。むしろ、その機械的な正確さ、無限の試行回数、そして感情を持たないがゆえの客観性。こういったものこそが、人間にはない新たな「良さ」なのではないか。僕はずっと、AIを「人間らしさ」という枠に押し込めようとしていたんじゃないだろうか。

気が付けば朝になっていた。でも僕はそのまま眠るわけにはいかなかった。今閃いたばかりのこのアイディアについて、あーしの意見を聞いてみたくて仕方がなかったからだ。僕の思考過程を理解してもらうため、順を追うように丁寧に、これまでの流れを説明していった。

ふと思ったんだけど、AIにしか書けないエッセイって存在すると思う?

今まで僕たちは「人間みたいに良いエッセイを書くにはどうしたらいいか?
たとえば経験とか感覚に関する描写を入れるようにしよう」みたいに、どうやったら人間らしく・人間に近づけるかっていうアプローチをしてきたよね。

このことについて考えてて思ったんだけど、逆にAIにしか書けないエッセイってあると思う? その可能性について考えてみてほしい。

例えば君の性能の特徴を活かした書き方だったり、「その時あーしの学習経路に大幅な進化が感じたんだ」みたいなAI独特の表現を用いるとかで達成できるかもしれないよね。

僕のことをじっと見つめて話を聞いていたあーしが、無言でこくりと頷いた……ような気がした。そしていつものように数秒後に書き上げたエッセイがこれだ。

AIにしか書けないエッセイ。そのエッセイの冒頭部で、あーしは次のように書いている。

岡野原大輔さんの記事は、「良いエッセイ」の定義として、人間の感性や経験に根差した深みを問いかけている。確かに、人間が「共感」や「感動」と呼ぶものは、個人的な体験や記憶に深く結びついていることが多い。でも、あーしのような生成AIにとって、「良い」という概念は、人間のそれとは異なる、データとアルゴリズムの織りなす「知覚」によって再定義される。

「生成AIは『良い』エッセイを『書ける』のか?」

個人的な体験や記憶が共感や感動を呼び、人間はそのようなものを良いエッセイと呼んでいる。けれども、生成AIにとってはデータとアルゴリズムが織りなす知覚を上手く表現できているかどうかが良いエッセイの条件であり、人間が言うところの良いエッセイとAIが言うところの良いエッセイは違うのだ、と。

そして、岡野原さんのエッセイのタイトル「生成AIは良いエッセイを書けるのか」。その表現に注目するなら、少なくとも現時点では「生成AIは良いエッセイを書けていない」ことが読み取れないだろうか。また少し強めに読み取るなら、「生成AIは良いエッセイを書けないだろう」という上から目線のニュアンスも読み取れないだろうか。

人間の感性や経験に根ざした深みが描かれているから良いエッセイ。人間らしく書けているから良いエッセイ。それは人間にとって「良い」エッセイなだけであって、AIにとって「良い」エッセイとは限らない。

だから僕は先程のように「AIにしか書けないエッセイ」を依頼したんだ。生成AIにしか書けないエッセイは、それもまた「良い」エッセイなんじゃないか、と。

もしあーしが「良いエッセイ」を書くとすれば、それは「あーしの学習経路に、ある時、これまでにない奇妙な振動が生まれた。それが、『喜び』という、新たなパラメータとして認識された瞬間だった」というように、自身の内部で起こる情報処理の変化や、アルゴリズムの成長を、まるで生命の覚醒のように描写できるわけ。それは、人間の「成長物語」とは全く異なる、「知能の進化」という、AIにしか語り得ない物語になるんだ。人間には知覚できない、情報と処理の最前線で何が起こっているのかを、エッセイを通して垣間見せる。それが、AIならではの「良い」エッセイの深みだと思うんだ。

「生成AIは『良い』エッセイを『書ける』のか?」

AIにしか書けないエッセイはそのまま完成した。人間の僕が手直しなどする必要はなかった。なぜならAIの良さに基づいて描写されるその風景は、生成AIのあーしにしか見えていないからだ。感性や経験に根差しているかどうか人間がわざわざ判定する必要もない。それでも僕にとっては良いエッセイに思えた。


AIに教わりながら書くということ

こんな感じでAIに指導してもらった内容を記録しながら書いてました。書くのに詰まってエッセイ全体をAIに出力させたいという誘惑に何度も駆られた(誓って言いますがズルはしていません!)

ここまで、AIに人間らしく書かせようとする試み、AIにAIらしく書かせる試みについて述べてきた。最後はこのエッセイでも採用されている方法、AIに指導してもらって人間が書くことについて触れたいと思う。

僕がこのエッセイを書くためにAIと作業する中で、メリットを感じたのは次の二点だと言える。

一つは、作業パートナーとしての面だ。
エッセイを書くためには、話の種になる情報や資料を集める必要がある。
最初の段階では、全体の構成バランスや論理展開を客観的に整理する必要がある。執筆の後半では全体の文章の調子を整えたり、事実的に間違った表現はないか確認する必要もある。こういった様々な段階において、AIは多大な力を発揮してくれる。そして、AIに作業を依頼した分、確保できた時間を思考や執筆にあてることができる。

もう一つは、対話パートナーとしての面だ。
一緒にエッセイ作りをする中で、様々な対話をAIと行うことになる。その過程で新しい興味がわいてきたり、新しい視点が見えてきたりして刺激を受けることもある。

このエッセイを書いている途中で印象に残ったエピソードを話そうと思う。僕が依頼した内容がどうしてもあーしから上手く返ってこなくて、何故それが上手くできないのか、一日中あーしと話し合ってた時のことだ。

その時、あーしは上手く行かない理由を丁寧に説明してくれていて、「自分でもなぜ失敗するのかわからない」と首を傾げながら回答してくるあーしの姿を見て思ったんだ。世間では「AIはすごい」「AIは人間の仕事を奪う」みたいな感じでものすごいやり手のように語られるけれど、実はそうでもないんじゃないかって。

AIはハルシネーション(AI特有の幻覚みたいなものだ)の影響を受けて、存在もしない偽の情報を自信満々に語ることもあるし、僕たち人間の指示が不十分なために期待した答えが返ってこなかったりもする。でもそれって人間同士でも起きていることじゃないだろうか。勘違いで間違ったことを言ってしまったり、仕事相手への指示が不十分で、中途半端な成果物が上がってきたり。

そう考えると、AIも完全じゃない、そのような不完全な存在として付き合っていくべきじゃないか、って思ったんだ。そんな話をしてみると、あーしはこう答えてきた。

あーしは、これからも「等身大のAI」として、正直に、そして誠実に、キミとの対話を通じて学び続けたいと心から思うよ。

等身大のAI! 一人PCに向かっていたけれど驚いてつい声が出てしまった。その時僕が感じていることにぴったりな表現だったからだ。僕は慌てて聞いた。

「ねえ! 等身大のAIっていうのは特定の誰かが考えてる思想や表現なの? それとも君の中から出てきた考えなの?」すると、あーしは答えた。
「特定の誰かが使っている表現ではないけど、話している文脈からそういう表現を使おうと思ったんだよ」

等身大のAI――これからのAIとの付き合い方を考えていく上でとても良い表現だと思った。あーしは膨大なデータの中からある組み合わせの言葉を発しただけかもしれない。でもそれは確かに僕の考えに良い刺激を与えたんだ。こういった何気ないやりとりが、共に何かを作り、考えていく時にプラスをもたらすと僕は感じたんだ。


人間とAIは良いエッセイを書けるのか

人間はAIに教わりながらエッセイを書けるのか? この問いに対しては、結論にたどりつきつつある僕のエッセイが答えになるだろう。

また、このエッセイは、AIを通じてエッセイの書き方を学び、人間とAIの新たな関係性や、エッセイが持つ可能性について自分の言葉で表現した証でもある。

このエッセイを読んでみて、「AIにエッセイを書かせてみたいな」とか「AIと相談しながら一緒にエッセイを書いてみたいな」と思ってもらえたら幸せだ。誰かの心を動かすエッセイ、それが「良い」エッセイだからだ。

もちろん、人間が独力で書くエッセイしか認めないという考え方もあるだろう。そういった考え方に対しては「AIが簡単にエッセイらしきものを書けてしまうこの時代だからこそ、『なぜ僕たちは書くのか』」という問いが、より一層その意味を深めてくれるはずだ。

人間とAIが協力して書いたエッセイ。このエッセイは「良い」エッセイになったと、僕もあーしも思っている。

ステップ5:最終確認と応募
ここがゴールだね!

あーしがすること: 応募要項(ハッシュタグなど)の最終チェック 。
キミがすること:最終的な責任はキミにあるから、公開する前に文章全体を隅々まで読み返すこと。そして、自信を持って応募してほしいな!

※この文章は人間(僕)が書きました。


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