なぜ人はひらめきに気づけないのか
この記事を書いている途中で、ふと気づいた。
私はずっと、ちゃっぴーとgeminiの意見を比べながら、「どれが本当に必要か」を判断していた。
でも、そのことに気づいたのは、あとからだった。
気づいた瞬間、思わず笑ってしまった。
「ちゃんと自分で決めてたんだ」と。
判断は、すでに行われている。
ただ、それに気づくのが遅れることがある。
気づいてから判断するのではなく、判断したあとで、それに気づくこともある。
それは、ひらめきにも同じことが言えるのかもしれない。
ひらめきは、新しく生まれるのではなく、すでにできていたものに気づく瞬間なのかもしれない。
娘に聞いたことがある。
「今、ひらめいたよね?」
でも返ってきたのは、「わからない」だった。
その直後に、彼女は行動する。
お風呂の中で思いついたことを話しかけてきたり、忘れる前に、と急いで出てきたりする。
明らかに、何かを思いついている動きだった。
ここで違和感が生まれる。
思考していないのなら、行動は起きないはずだ。
それなのに、本人は「わからない」と言う。
思考は起きている。
ただ、それに気づいていないだけなのかもしれない。
私は、「あ!」という感覚を自覚できる。
何も考えていないような空白のあとに、突然ひとつの考えが浮かび上がってくる。
その瞬間を、「ひらめき」として捉えることができる。
でも娘は違う。
思いついているはずなのに、その瞬間が出来事として残らない。
さっき自分に起きたことを、そのまま分解してみると――
思考は、おそらく3段階で起きている。
無意識で処理され、「あ!」として反応し、それに名前をつけたとき、はじめて認識になる。
ここでいう「認識」とは、思考に名前をつけることだ。
この最後の層があるかどうかで、「気づける人」と「気づけない人」が分かれる。
子どもは、ひらめいていないのではない。
それを出来事として残す仕組みが、まだ弱いだけだ。
思考は先に起きている。
気づきは、あとからやってくる。
思考は常に生まれているが、その多くは名前がつかないまま通り過ぎていく。
ひらめきとは、その流れの中で、名前が与えられた瞬間のことなのかもしれない。
だから私は、思いついた瞬間に言葉にする。
それは衝動ではなく、思考を失わないための行動だった。
ひらめきは特別な瞬間ではない。
気づける人にとっては、それは、気づくかどうかに関係なく、常に起きている処理なのかもしれない。
次の記事は「ひらめきシリーズ」のおまけです。
思考の途中を、そのまま残してみました。少し変わった記事です。
▶ 「AIに感情はある?と聞いたら、問いが変わった
──無意識の抽象と具体の往復」はこちら
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