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日本人の道徳心には「武士道」の名残がある

新渡戸稲造が書いた『武士道』が外国で人気である。

〈新渡戸稲造の『武士道』〉


武士道と聞くと、九州佐賀藩の『葉隠』が有名だ。

その中にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があまりにも有名すぎて、武士道の本当の中身を知らない人が多い。

しかし、武士道についてよく調べてみると、次のような道徳観に重点を置いていることがわかる。

・嘘をつかない
・利己主義にならない
・礼儀作法を正す
・上の者にへつらわらず、下の者わ侮らない
・人の悪口を言わない
・約束を破らない
・人の窮地を見捨てない
・してはならないことをしない
・死すべきところでは一歩も引かない
・義理を重んじる


「死すべきところでは一歩も引かない」は現代では困難だろうが、だいたいは人間として「してはいけないこと」「すべきこと」を重視したものなのである。

新渡戸稲造は『武士道』の中で、現代日本人の道徳観の基本は武士道にあると書いている。

江戸期には人々を「士・農・工・商」に分けた(その下に「穢多・非人」という階級外の人々もいた)。

武士が一番偉く、次が農民、そして職人、商人と続く。

それなら武士が威張っていたのかというと、どうもそうではない。

武士には「斬り捨て御免」の特権が与えられていたものの、そんなことをしたら騒ぎになって、場合によっては「お家取り潰し」なんてことにもなりかねないから、武士たちは案外おとなしくしていたようだ。

武士で裕福な暮らしができたのは大名や高禄の武士だけで、多くの武士は貧しかった

それでも武士たちは、人からさげすまれるようなことはせず、卑怯なことはせず、凛々しく生きた

農民や職人や商人の模範になるような生き方をしたのだ。

武士たちのそうした生き方や考え方が、庶民にも浸透していったと考えるのは自然だろう。

江戸中期、赤穂浪士の仇討ちがあった。

主君の仇を討った彼らを庶民は絶賛した。

そのころには、庶民の間でも「武士道精神」が入り込んでいたからだろう。

幕末、会津藩は京都守護職を務めさせられた。

尊王攘夷を叫ぶ志士たちが全国から京に集まり、天誅騒ぎが続いた。

京は無警察状態になった。

そこで幕府は、京都守護職という新たな機関を作り、京の治安を守ることにした。

白羽の矢が立ったのは会津藩に対してだ。

会津藩は武士教育が盛んで、薩摩藩と並んで「日本最強」とみられていたからだ。

会津藩では、武士教育で「什の掟」というものを作って藩士教育をした。

〈「什の掟」〉


会津藩は、徳川二代将軍の秀忠の隠し子の保科正之から始まっている

保科正之は「隠し子」という境遇で日の目を見ることはできないだろうと思っていた。

しかし三代将軍の家光が、弟だということで正之に会津を与えた

そのことに恩を感じた正之は、会津藩に家訓を作り、その第一条に「大君(タイクン。将軍のこと)の義、一心大切に忠勤を存すべし」と書いた。

〈会津藩の「家訓」〉


「会津藩主と藩士は将軍家のために働け」と、自分の子孫や藩士とその子孫に命じたようなものだ。

「武士道」は主君への忠義を最も大切にする。

藩主がそういう家訓を作ったのなら、藩士たちはそれに従うしかない。

幕末の会津藩主は松平容保(かたもり)である。

容保は病弱で若かったし、京の治安維持のため働けば、尊王攘夷思想が席巻していた時代なので、藩主も藩士もどんな目にあうかわからない

だから容保は初めは辞退したが、「会津には家訓があるだろう」と幕府から言われ、やむなく京都守護職を引き受けた

京に駐留した会津藩は、新選組を配下に持ち、志士たちを斬りまくった。

そのため、後に明治政府を作る薩長土の藩士たちから激しく憎悪された

こうして、幕府が倒れると悲惨な戊辰戦争が始まる。

会津若松城は砲弾であちこち崩れ、十代の武士で編成された白虎隊の悲劇も起きた。

〈無惨な姿になった会津若松城と松平容保〉
〈町が火に包まれる様子を見て白虎隊士は城が堕ちたと勘違いして自刃した〉

会津藩は官軍に降伏するが、明治政府は会津藩を下北半島の僻地に飛ばした

それでも会津藩士たちは凛々しく生きようとした

彼らの心には「武士道」が叩き込まれていたからだ。

自分を律して凛々しく生きようという思いは、今でもわれわれ日本人の心の中のどこかにあると思う。

それは、新渡戸稲造が言うように、「武士道」から生まれた生き方だと思う。

〈再建された会津若松城。鶴ヶ城とも呼ばれる〉