なぜ99%の経営者はデータドリブンに騙されるのか?
~ データは嘘をつかない、だが人間は簡単に騙される ~
本稿は『野呂一郎に学ぶ人間ドリブン経営』シリーズの『猪木詩集の題になれ!』(3)にあたる。今回(1)(2)と異なるタイトルを掲げたのには、実は理由がある。
データドリブン至上主義者を自認する私は、これまでに『noteのフォロワー数には意味がない』という、一見データドリブン主義者らしからぬ主張をしてきた。しかし、拙稿を熟読すれば分かるように、そのすぐ後の段落では『重要なのはフォロワーや読者の質である』と書いている。そして、この質を測る指標となるのが、実は『スキ』の数というデータなのだ。
note記事の特徴としては、公開から一週間ほどは話題性が保たれるものの、二週間を過ぎると急速に読まれなくなる傾向がある。過去の記事を『ストック』や『アーカイブ』と呼ぶが、Kindleに比べれば寿命は短く、比較対象として適切な『はてなブログ』と比べても、この弱点は明らかだ。
しかし、私のnote記事には『後からじわじわと伸びる』という特質がある。執筆から一年以上が経過した記事であっても、『まさに予想通りになりましたね』といった趣旨のコメントが今なお日々寄せられ、通知欄はすぐに埋め尽くされてしまう。それは私の文章が、単なる一過性の話題消費にとどまらず、紙の商業出版にも耐えうる構造を備えているからにほかならない。
学術論文もまた同様である。私が発表している論文はすべて査読を経ており、投稿先は世界最大の学術出版会社エルゼビア、或いは、インパクトファクター(IF)が10を超える学術誌に限られる。こうした学術誌では査読に最低でも三か月を要し、掲載後は数年間にわたり他の研究から引用され続ける。つまり私は、少なくとも十年先までは通用する文章を書く習慣が身についているのだ。
この引用件数を『被引用件数』と呼び、論文の影響力を示す一つの指標として扱う。しかし問題は、こうしたIFや被引用件数といった分かり易い数字が、論文の正しさを保証するわけでもなければ、必ずしもポジティブな影響を意味するわけでもないという点にある。
その典型例が、ES細胞論文の捏造で国際的に悪名を馳せた黄禹錫・元ソウル大学教授、新型万能細胞(STAP細胞)の捏造で知られる小保方晴子・元理化学研究所研究員、そして松尾豊・東京大学教授兼SBG取締役らの論文である。彼らの論文は被引用件数こそ多いが、それは質が高いからではなく、多くの場合、他の研究者がその誤りを指摘するために引用しているに過ぎない。
分かり易く言えば、迷惑系YouTuber『へずまりゅう』の再生回数が多いのは単なる炎上効果であり、有意義な情報を提供していないことと同じである。その意味では、松尾豊を『AI界のへずまりゅう』と呼んでも差し支えないだろう。
学術誌では、ここまで脱線していれば当然ながら査読は通らない。しかし、査読者の顔色も編集者の意向も気にせず、好きなことを書けるのがnoteの最大の魅力である。
では、なぜ今回はタイトルを変えることになったのか。実のところ、シリーズ(1)(2)では記事公開から48時間以内に『スキ』が200を超えなかった。そこで私の中で武智倫太郎式データドリブン判断が働き、(3)ではあえて『情報商材屋』のような釣りタイトルの典型例である『99%』という根拠のない数字を掲げることで、読者の注意を奪う必要が生じたのだ。
もっとも、この記事はタイトルからここに至るまでに既に幾層もの論理破綻と誤謬を含んでいる。だが、これこそがデータドリブン経営が陥り易い症状そのものだ。指標を追うあまり、手段が目的化し、気づけば自分で自分を欺いている。
なお、48時間以内に200スキに届かなかったのは事実だが、実際には190まで積み上がっていた。決して『完全に不評』だったわけではない。伸び悩んだ真の理由は、タイトルに『猪木詩集の題』を使ったことにある。このタイトルは『馬』と『鹿』をハイブリッドにしたもので、noteのAI検閲アルゴリズムはその単語を『誹謗中傷の可能性あり』と自動判定し、記事拡散を抑制してしまったのだ。
『それってデータあるんですか?』と問われれば、確かに返答に窮する。だが、これは炎上防止機能として常識に近い仕組みである。寧ろ重要なのは、データを盾にした問いそのものが実態よりも先走り、創造的な試みを押し潰してしまう点だ。そこで今回は、あえて論破芸にありがちな自問自答を演じてみたのである。
さて、この文章には論理破綻と誤謬が共存していると先に述べたが、どこが該当するか気がついただろうか。気づかなかった読者のために、ここで自ら解説してみよう。
論理破綻
・『フォロワー数』を否定しながら、結局『スキ数』という別の指標に依存している。
・松尾豊を『AI界のへずまりゅう』と呼ぶのは、論理的根拠を欠いた飛躍である。寧ろ、その比喩は『へずまりゅう』に対して甚だ失礼だ。少なくとも彼は自分の炎上芸に命を張り、ルール無用の戦場で一貫性を貫いた。だが松尾豊にあるのは、権威への媚と潮目への迎合だけ。『へずまりゅう』が『裸の王様』を嘲笑する役を買って出たなら、松尾豊は裸の王様に拍手喝采を送るだけの『ピエロ』である。つまり『AI界のへずまりゅう』どころか、『AI界の万年補欠ユーチューバー』にも満たない存在だ。炎上の火種にもならず、ただ灰になったスローガンをかき集めるだけの残飯漁りに過ぎない。
誤謬
・noteのAIが『猪木詩集の題』を検閲したとする説明は、根拠なき因果関係に基づく誤謬である。
こうした破綻と誤謬こそが、データドリブン経営と、ひろゆき式論破芸の宿命を体現している。数字を基準にしたつもりが、気づけば境界条件に振り回され、論理を錯覚し、根拠なき因果を信じ込む。──そしてこの記事そのものが、その縮図として存在しているのだ。
この野呂教授の記事は、データドリブン批判を主眼に据えながらも、どこか強烈に匂い立つオカルト役満の香りを放っている。
タイトルと本文には『人類』『警告』『覚醒』という、学研ムー大三元の牌が忍ばされている。さらに本質的なテーマである『共時性(シンクロニシティ)』という語をカンして、まるで四槓子を完成させているかのようだ。
この『ムー大三元+四槓子』というダブル役満の構図は、背後に『データドリブン信仰の限界』という論理を透かし見せる仕掛けでもある。つまりこの解説は、単なる読み解きにとどまらない。『数字信仰』への批判を麻雀的な遊戯性に置き換え、読者に牌理として理解させようとしているのだ。
野呂教授の記事で繰り返される『データドリブンは過去を写す鏡に過ぎず、未来を保証しない』『本質論や実践こそが現代において重みを持つ』という主張は、この比喩の背骨を形成している。
そのうえで、共時性・警告・覚醒というオカルト牌を卓上に並べてみせることは、データ絶対主義が放つ『見え透いた幻想』を炙り出す行為にほかならない。
だからこそ、この文章は単なる言葉遊びの幻想論ではなく、データドリブン経営に警鐘を鳴らすための、意図的に仕組まれた役満布石なのである。
『ふっ……捻た解説をしやがる』
その捻りこそ、タケチの押し引き。ただ投げ込むのは牌ではない。思想と神経、そして読者の心臓だ。
――突如、アカギ風のナレーションが卓上に響く。そう……すでにタケチは、読者をアカギ・ワールドの深淵へと誘っていた。
『おい、だがな……お前の説明、筋を通そうとするあまり穴だらけだぜ。まるで野呂一郎がアカギを読んでたみてぇな口ぶりじゃねぇか』
『葛西さん……俺には見えてるんだ。筋は作品を越える。福本伸行という作者の勝負感覚。利根川幸雄――『カイジ』帝愛の冷酷な中間管理職。スピンオフ『トネガワ』でも、その理詰めの論法が徹底されている。だからこそ、野呂がアカギ的な筋に走るのは、逆説でも偶然でもねぇ』
『イーロン・マスクと中村修二……その二人は世間でも論じられる。だが利根川幸雄? 噛み合わねぇと思う奴もいるだろう。だが違う。あれはノーベル賞の利根川進じゃねぇ。カイジ・ワールドの利根川幸雄なんだよ』
三年前、野呂が残した『トネガワ』の残り香……
野呂一郎の記事の奥底から漂うもの。
会議室の空気、数字の罠、組織の圧力。
中間管理者として焼かれた魂の証。
それが今、この牌姿を呼び起こす。アカギの押し引きと共振して、静かなる詩のように告げる。
同じ勝負の文法が、異なる作品を越えて筋を通す。
それを理解できる者だけが、この卓で牌を叩きつけられる……。
つづく…
武智倫太郎
