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野呂一郎に学ぶ人間ドリブン経営の『馬鹿になれ!』(1)

なぜ日本のデータ経営は失敗し、海外は成功するのか

 経営学者・野呂一郎教授の説明は、空手や合気道といった武道や棒術、さらにはプロレスやオカルトまで自在に行き来する。そのうえ、日本語よりも英語の方が得意という特性まで備えている。これらは私との共通点であり、以下に挙げる人物について、教授が当然のように語るとき、私には一切の補足は不要である。

 松濤館流空手の開祖・船越義珍、世界的な空手家・金澤弘和、合気道の開祖・植芝盛平、キック界の沢村忠――まるで『徳川家康は説明不要』とでも言うかのように当然視される。だがその並びに、梶原一騎の実弟である真樹日佐夫までもがさらりと混ざり込むのだから、思わず笑ってしまう。

 真樹日佐夫といえば、空手家というよりも『梶原一騎の実弟』であり、チンピラ風の服装で知られた人物だ。格闘技マニアでなければ、まず名前すら出てこないだろう。

 そんなマニアックな人物たちの言動を『当然の基礎教養』であるかのように引用しながら経営学を語るのだから、突っ込まざるを得ない。『後藤洋央紀に足りないのは上田馬之助である』と語られ、さらに月刊ムー編集長の三上丈晴まで登場すれば、『そりゃそうだ』と即座に頷ける人間が日本にどれほどいるのか。

 野呂教授の語り口は、武道、格闘技、プロレス、オカルト、そして経営学を一気に横断する。常識の地平を軽々と飛び越えるそのスタイルに触れると、もはや学術講義なのか、格闘技実況なのか区別がつかなくなる。だが、この一見カオスな状況こそが、『データの奴隷になるな』というメッセージを最も鮮烈に伝える方法なのだ。

 本シリーズは、野呂教授のデータドリブン経営を解説するだけに留まらない。その前提として、教授や私が理解する『データ』と、一般的な日本人が理解する『データ』とでは意味が大きく異なる、という根本的な問題から出発する。そして、プロレス基礎教養の差によって理解が難しい経営者にも伝わるよう、武智倫太郎の視点でかみ砕きながら提示することを目的としている。

データドリブンとは何か:意味が消失するまでの道筋

1.データの本来の意味
『データ』という語はラテン語の『datum:与えられたもの』に由来し、明治期には『数値』『資料』『統計』『実験値』と訳されていた。つまり、自然を測定して人間が記録した『与件』に過ぎず、研究や意思決定のための素材に過ぎなかった。

2.データドリブンの素朴な定義
『drive』は『駆動する』、『driven』は『駆動された』という受け身を意味する。
 つまり『data-driven』『データに駆動された』という意味であり、要は『データを根拠にして動く』程度の概念に過ぎない。日本語でいえば『データ主導』『データ稼働型』で十分に説明できる。

3.カタカナ化による曖昧化
 ところが日本では『資料』『数値』『統計』よりも『データ』という語が選ばれた。

範囲の拡張性:数値に限らず文章・画像・行動記録まで含められる
科学的響き:客観性や権威が付与される
IT業界的マーケティング効果:『データ活用』と言えば説得力が増す

 同様に『ドリブン』も『主導』や『基づく』で済むはずが、カタカナ化することで横文字イノベーションの雰囲気を纏うことができた。こうして『データドリブン』は、実質以上に曖昧なカタカナ経営語として流通し始めた。

 しかも、日本の経営者の大半は、実は『データ』と『インフォメーション』の違いすら理解していない。なぜなら、日本語では両者を区別せず同じ『情報』として扱う傾向が強く、翻訳文化の曖昧さがそのまま経営の現場に持ち込まれているからである。欧米のビジネス教育では『データは素材』『インフォメーションは意味づけされた知識』という区別が基本として教えられるが、日本の経営者教育ではこの基礎が軽視されがちだ。

 さらに、日本企業では売上やシェアといった数値をそのまま『経営情報』と呼び、データを加工・解釈してインフォメーションに変えるという発想が欠けている。つまり『100』という数字が在庫数なのか販売件数なのかを読み解くプロセスを省き、ただの数値を経営判断に使ってしまうのだ。その背景には、前例主義や数字偏重の文化があり、データを『未来を読む材料』ではなく『過去の根拠』として消費する構造がある。

 要するに、日本企業では『データ=情報』という短絡的理解が一般化し、データを素材として意味を抽出する視点が欠如している。この誤解こそが、データドリブン経営を形骸化させる最大の原因となっている。

4.言説の拡散と誤用
 この曖昧化に拍車をかけたのが、ネット論壇とAI業界である。

ひろゆきの『なんかデータあるんですか?』

 データは数値や統計にとどまらず、証拠やグラフなど何でも指すようになった。議論を封じる『論破芸ための最終兵器』として武器化され、実態を失った。

松尾豊の『データさえあれば』

 AIやビッグデータをめぐる言説では『未来を導く万能鍵』として語られた。比喩的表現が誤解され、データは神格化された。

 両者が交錯した結果、データは『証拠』『真理』『未来予測』すべての役割を押し付けられ、逆に定義を失っていった。

日本型データドリブンの誤り

『データ=数字』と思い込む誤解
 売上やアンケートの点数ばかりを追い、非構造データや顧客の声を軽視する。

『データ=証拠』主義
 既定方針を正当化するためにエビデンスを探すだけで、仮説発見や意思決定につながらない。いわば『データ・ジャスティフィケーション経営』である。

『収集そのもの』が目的化
 センサーやBI(Business Information)ツールの導入自体がゴールとなり、膨大なデータは『ダッシュボード会議』で消費されるだけに終わる。ここでお気づきだろうか。日本の経営者は、このBIの段階ですでにデータとインフォメーションの区別を見失っているのだ。野呂教授なら、BIの説明となるや否や『BI砲』の話に脱線してしまうことは火を見るより明らかである。念のためプロレス教養のない読者のために補足すると、『BI砲』とは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が組んだ最強タッグを指す。

『現場 vs 本社』の分断
 数字はKPI管理に吸い上げられるが、現場に還元されず、『見せるための数字』に堕する。

日本企業に特有の要因
 合議制・前例主義と結びつき、データは『責任逃れの根拠』と化す

『データドリブン』など横文字を直訳導入し、定義を議論しないカタカナ病
 年功序列や曖昧評価と衝突し、結局『空気』が数字を凌駕する

序章の結論

 日本企業のデータドリブン経営は、『データに従っているように見せて、実は従っていない』という矛盾に陥っている。本来『与件』でしかないデータを万能鍵と誤解し、形骸化した経営手法に変えてしまった結果である。

 この誤訳と誤用を乗り越えるために必要なのが、『人間ドリブン経営』という新しい視座である。

つづく…

武智倫太郎

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