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虚構は武器である:五輪書の身体技法はなぜ『精神哲学』に化けたのか

みなさんは、大学教授から突然、タイガー・ジェット・シンと『サーベル』ではなく、『活人剣』をどう考えるかと問われたとき、うまく答えられるだろうか。おそらく困る。いや、困って当然だ。

『活人剣』と聞けば、まず沢庵宗彭の『不動智神妙録』が思い浮かぶ。そこから『剣は心に従う』という『剣禅一致(剣禅一如)』の思想へとつながり、その思想を『』に翻訳し『拳禅一如』を掲げた人物が宗道臣である。

宗道臣。本名は中野理男。名前だけ見れば中国拳法の達人のようだが、れっきとした日本人だ。彼は嵩山少林寺の伝統や中国武術の香りをまとわせつつ、戦後日本において『精神修養と武技の一致』を旗印とした新興武術の少林寺拳法を創設した。

ここで重要なのは、宗道臣が『事実としての歴史』ではなく『語られる歴史』によって、自らの武術の正統性を構築した点だ。系譜とは血統ではなく物語である。

そして、ここで対比として浮かび上がるのがもう一人の巨人、大山倍達(崔永宜)である。大山は『昭和五輪書』という、論理を気迫でねじ伏せた書物を残し、『体重こそ武力の根源』とする原始的な身体哲学を日本中に浸透させた。

宗道臣は、これとは逆を行った。大山が『質量と衝撃』を神格化したのに対し、宗道臣は『精神と物語』を神格化した。大山は身体を絶対化することで物語を生み、宗道臣は物語を絶対化することで身体を生んだ。

ここに共通する構造がある。武術における『実戦よりも系譜が重視される』という事実だ。『私はこの系譜に属している』という語りの連続こそが、権威をつくる。

そしてこれは、宮本武蔵の『生涯無敗』が形成されていった過程とよく似ている。人は、事実ではなく『そうであった方が望ましい歴史』を信じる。そして、信じられた歴史は、実際の歴史以上の力を持ち始める。

ここまで来れば、五輪書がなぜ『精神哲学』として受け取られるようになったのか、答えは明らかだ。武道史の最大の技法とは、技そのものではなく『物語の設計』である。

では、その物語はどのように形を得たのか。

宮本武蔵は『生涯無敗の剣豪』『孤高の求道者』『悟りの達人』と語り継がれている。しかし、それは歴史的実像というより、後世が重ねた語りによって形づくられた武蔵像である。武蔵は史料の余白が多い人物であり、その余白は物語の土壌となった。

武蔵は最初から『空白の多い人物』だった。
1935年、吉川英治『宮本武蔵』が連載を開始する。

この作品が定着したことで、武蔵は歴史人物ではなく『人々が望む理想像』へと変化していった。

武蔵は『思想を投影する器』へと変わっていく

吉川以降、武蔵は作家・読者・時代によって語り直され続けた。

坂口安吾は意志と破滅の相克を描き、柴田錬三郎は人間的苦悩を強調し、井上雄彦『バガボンド』は内面の成熟と成長を現代的に描いた。

武蔵は、それぞれの時代の価値観を宿す、『語られるための存在』となったのである。

小林秀雄は『精神の武蔵』ではなく『身体の武蔵』を読んだ

戦後、小林秀雄は武蔵の強さを『悟り』ではなく、身体がそのまま判断する段階に至った状態として解釈した。

武蔵の強さは、精神論ではなく、身体知の明晰さにある。

しかし、社会が受け取ったのはその逆であった。

五輪書は『精神修養書』ではなく『兵法の指南書』である

五輪書の核心は、身体と判断をどのように用いるかである。

・視線の配り方
・間合いの測り方
・拍子の移り変わり
・武器を選ぶ基準
・型を崩すための構造

これは『精神を清めよ』という話ではない。
実際にどう戦うかの手ほどきである。

五輪書は本来、兵法の指南書であった。

……で、ここで登場するのが水戸黄門である

この乖離がどれほど大きいかは、水戸黄門を例にすれば一目でわかる。

徳川光圀が、助さん格さん、うっかり八兵衛と風車の弥七を連れて、全国を回って悪代官を成敗していた……と信じるようなものだ。

光圀は旅に出ていない。
あれは講談とテレビが作り上げた、『理想の善政者』という物語である。

しかし一度物語を見てしまえば、人は『黄門様は旅をする生き物』だと思い始める。

武蔵も同じだ。

史料の武蔵ではなく、みんなの中の『俺たちの武蔵』が歩き始めてしまった。

人は歴史を知るのではなく、都合のよい歴史を持ち歩くのである。

孫正義は『未来』を同じ構造で形成している

孫正義は言う。

超知能(ASI)は遠くない。

ここで問うべきは、予測が当たるかどうかではない。
重要なのは、『来つつあることにしておく』ことによって前提と信用を先に押さえることである。

武蔵が『勝っていたことにしておく』ことで強さという物語を得たように、孫は『未来がすでに始まっていることにしておく』ことで、資本と人と時間の流れを先に動かす。

現実は、語りの後から追従する。

虚構を自覚して扱う者が、現実を動かす

虚構は虚偽ではない。
虚構は、世界を動かす『前提の設計』である。

虚構を信じる者は信者となり、虚構を批判する者は観客にとどまる。

しかし、虚構を見抜き、設計し、運用する者は、現実そのものを動かす側に立つ。

これが、現代におけるハッタリ武士道である。

(了)

著者・武智倫太郎

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