最後の技術者たち:ポイ活難民編(4)
第四話 未帰属者たち
人間は、地域に住んでいるつもりだった
文・武智倫太郎
あらすじ
消えゆくIT伝統芸を追うはずだった記録は、電子マネー、LINE役所、検索窓を経て、行政ホラーへ変わった。現金を使い、紙申請に残り、検索結果から沈んだ人々は、地域帰属ポイント不足により「未帰属者」と判定される。だが、行政指導で止まらなかった民間プラットフォームの毒は、まだ存在しない鳥根県を浮かび上がらせ、2062年の国家行政最適化AI《シビュラ源内》へつながる最初の配管となる。
本文
地域とは、住所ではなかった。少なくとも、行政資料の中では、そうなりつつあった。
人間は、住民票があれば住民だと思っていた。固定資産税を払えば地主であり、町内会費を払えば町内の人間であり、小学校の炊き出しに米を出し、祭りの赤飯を炊き、雪の日に隣家の前まで掃けば、もう十分に地域の一員だと思っていた。
実に素朴な時代である。
現代の地域は、そんな牧歌的な感情では動かない。地域は、ログインで測られ、決済履歴で測られ、通知の既読で測られ、薬局ポイントで測られ、健康アプリの歩数、防災メールの開封率、ふるさと納税の寄付先、病院予約アプリの入力完了率、地域ポイント加盟店での購買頻度によって測られる。
つまり、地域とは、そこに住むことではなかった。
データを発生させることだった。
住んでいるだけの人間は、そこにいないのと同じである。
午前七時三十二分、太田健二郎のスマホに通知が来た。件名は、やけに柔らかかった。
「地域帰属確認のお願い」
行政から来る柔らかい日本語は、開ける前から不吉である。税金、年金、保険、本人確認、利用規約変更。いずれも件名だけは穏やかで、本文に入った途端、急に人間を手続きの椅子へ座らせる。親切そうな顔をしているが、中身は多くの場合、義務か確認か同意である。
太田は画面を開いた。
地域生活圏最適化推進実証事業に伴う帰属確認のお知らせ。あなたの生活圏データと現在の登録自治体情報に不整合が検出されました。期限までに確認が完了しない場合、行政サービスの円滑な提供のため、仮所属自治体による案内が表示される場合があります。
下には三つのボタンがあった。
現在の自治体に帰属確認する。
最適な生活圏に基づく案内を受ける。
あとで確認する。
拒否する、というボタンはなかった。現代の画面は、拒否を嫌う。拒否という言葉を置くと、人間が自分に権利があると誤解するからである。代わりに、あとで確認する、というボタンがある。
あとで、とはいつか。
誰も知らない。
ただ、あとで確認するを押した者は、未確認者として記録される。押さなかった者も、もちろん記録される。制度は、選んだことだけでなく、選ばなかったことも記録する。
太田は、ボタンを押さなかった。押さないこともログになると分かっていて、押さなかった。
古い技術者の抵抗は、地味である。
だが、地味な抵抗ほど、機械にはよく映る。
そのころ、石橋トミのスマホにも同じ通知が来ていた。
石橋は、画面の文字を読むのに時間がかかった。文字が小さく、用語が長く、画面は明るすぎた。行政はこういう時、決まって「拡大できます」と言う。できる。たしかにできる。だが、人間が読めない文章を、文字だけ大きくして読ませる発想が、すでに乱暴である。
石橋は、ゆっくり画面をなぞった。
あなたの地域帰属ポイントは、現在、基準値を下回っています。
帰属状態。
未帰属予備群。
石橋は、そこだけ読めた。
未帰属。
予備群。
八十二年生きてきて、初めて見る肩書だった。
夫と四十年、米屋をやった。町内会の餅つきに米を出し、小学校の炊き出しに米を出し、祭りでは赤飯を炊き、葬式があれば米を届けた。台風で店のシャッターが壊れた時には隣の金物屋が直してくれ、商店街の抽選会では、外れくじを引いた子どもに、こっそりもう一枚だけ渡した。
それでも、石橋トミは未帰属予備群だった。
理由は簡単だった。
一、自治体LINE未連携
二、地域ポイント未登録
三、キャッシュレス利用低頻度
四、健康アプリ未導入
五、地域情報通知未開封
六、オンライン行政手続き利用実績不足
七、防災アプリ位置情報未許可。
彼女の人生は、七項目で負けた。
石橋は、しばらく画面を見ていた。やがて、小さく言った。
「私は、ここで米を売っていただけなんですけどね」
画面は答えなかった。
スマホは、米の匂いを知らない。炊きたての湯気も知らない。祭りの朝、まだ暗いうちから蒸し器を出す手の冷たさも知らない。知っているのは、タップ、既読、ログイン、決済、同意、位置情報、ポイント付与だけである。
現代の地域貢献は、湯気では測れない。
APIが読めないものは、存在しない。
市役所では、佐伯航平も同じ通知を受け取っていた。佐伯はデジタル推進課の職員である。市民にオンライン申請を勧め、地域ポイントの登録を勧め、スマホ講座への参加を勧め、行政アプリの利用を勧めてきた男だった。
その佐伯の画面にも、こう出ていた。
生活圏データと勤務自治体、居住自治体、購買自治体、医療利用自治体に不整合が検出されました。仮所属自治体を確認してください。
佐伯は、最初、意味が分からなかった。彼は市役所で働いている。だが住んでいるのは隣の市であり、買い物は駅前の大型店でする。薬は母親の通院に付き添う別の市の薬局で受け取り、昼食は職場近くのコンビニで買う。ふるさと納税は返礼品の肉がよかった遠方の町にしており、防災アプリは勤務先と居住地で二つ入っている。地域ポイントは、仕事上登録しているだけで、日常では使っていない。
制度は、それを不整合と呼んだ。
人間は、暮らしを広げたつもりだった。制度は、所属が割れたと判定した。
佐伯は、初めて気づいた。自分は制度を動かしている側だと思っていた。だが制度の側から見れば、佐伯もただの処理対象だった。職員証は守ってくれなかった。市役所のメールアドレスも守ってくれなかった。庁内会議で使った横文字も守ってくれなかった。
ログだけが、佐伯を見ていた。
午前十時、商店街の喫茶店に、太田健二郎、山崎奨、石橋トミ、佐伯航平が集まった。
奇妙な四人だった。元決済インフラ技術者。元自治体基幹系システム技術者。元米屋の女将。現役のデジタル推進課職員。
四人をつないでいるのは、友情ではない。
通知だった。
地域帰属確認。
現代人は、赤紙ではなくプッシュ通知で召集される。
太田はテーブルにスマホを置いた。石橋も少し遅れて置いた。佐伯もためらった後で置いた。三つの画面に、同じ言葉があった。
未帰属。
山崎だけは、通知が来ていなかった。彼は古い携帯電話とノートパソコンを使っていた。自治体アプリも入れていない。地域ポイントも登録していない。健康アプリも使っていない。防災通知はメールで受けている。本人確認は窓口で行う。
つまり、あまりに古すぎて、判定の入口にすら立っていなかった。制度は、山崎をまだ見つけていない。
妖怪に見つからないためには、古い山道を歩くのがよい。デジタル行政に見つからないためには、同意ボタンを押さないのがよい。ただし、押さない者は、いつか別の名で呼ばれる。
例外者。
不便な人。
支援対象。
未移行者。
そして、未帰属者。
山崎は三つの画面を見比べた。
「同じ基盤ですね」
太田が聞いた。
「分かるのか」
「文言の癖です。役所の文面ではない。委託事業者の文面です。しかも、法務と広報と営業が順番に上から撫でた文章です」
佐伯が苦い顔をした。
「当たっています」
「でしょうね」
山崎は佐伯を責めなかった。責める相手を間違えると、制度は喜ぶ。窓口の若者を責める。委託先の担当者を責める。説明会の司会者を責める。その間に、仕様は次の段階へ進む。
山崎は紙ナプキンを広げた。第三話で描いた丸を、もう一度描いた。決済、行政、検索、ポイント。そして、中央に人間。今回は、その外側にもう一つ大きな丸を描いた。
地域。
「昨日は、検索の問題に見えました」
山崎は言った。
「違うのか」
太田が聞いた。
「検索は入口です。決済も入口。LINE役所も入口。ポイントも入口。全部、別々の顔をしています。ですが、出口は一つです」
山崎は、中央の人間から外側の地域へ線を引いた。
「所属判定です」
佐伯は黙っていた。その沈黙が、答えの一部だった。
「佐伯さん」
山崎は、声を荒げなかった。声を荒げない技術者ほど、危ないところを見ている。
「これは、LINE役所と同じ配管です」
佐伯は、一瞬だけ目を伏せた。
太田が聞いた。
「同じとは、どういうことだ」
山崎は、紙ナプキンの上に、もう一つ丸を書いた。
LINE役所。
その横に、行政指導、と書いた。
「行政指導が出た。勧告も出た。通信の秘密、委託先管理、共通認証基盤、資本関係、個人情報保護。上では難しい言葉が飛び交った。だが、庁舎の入口から緑色のQRコードは消えなかった」
佐伯は反論しようとした。
「それは、利用者が多く、利便性が」
「そうです」
山崎は遮らなかった。
むしろ、頷いた。
「便利だった。だから残った。危ないから止めるのではなく、便利だから注意しながら使う。行政指導は上で受ける。改善報告は上へ返す。現場では、従来通り市民に案内する。責任は、総務省、個人情報保護委員会、自治体、委託事業者、プラットフォーム、利用者の間で薄まっていく。最後に残るのは、市民が押した同意ボタンだけです」
太田が低く笑った。
「つまり、行政指導は毒抜きではなく、毒見役だったわけか」
山崎は、太田を見た。
「ええ。毒があることは分かった。だが、料理はそのまま出された」
石橋トミは、その言葉を理解するのに少し時間がかかった。だが、理解した瞬間、スマホを見た。そこには、まだ「地域帰属確認のお願い」と表示されていた。
お願い。
行政は、命令をお願いと呼ぶことがある。任意を標準ルートと呼ぶことがある。同意を自己責任と呼ぶことがある。そして、拒否を未確認と呼ぶことがある。
山崎は、紙ナプキンの中央に書いた人間という文字を指で押さえた。
「これが、二〇六二年の根です」
佐伯が、顔を上げた。
「二〇六二年?」
「数字は、未来の顔をして戻ってきます。二〇二六年に誰も止めなかった毒が、二〇六二年に行政の名前を得る。国家行政最適化AIは、ある日突然、生まれるのではありません。LINE役所、ヤプー的検索、地域ポイント、本人確認、健康アプリ、防災通知、ふるさと納税、薬局ポイント、そしてそれらを束ねるソドムバンク的生活圏支配。別々の親切として張り巡らされた配管が、ある日、一つの行政エンジンとして接続される。その時、国は人間を住民として見なくなる。生活圏データとして見る」
佐伯は、思わず口にした。
「シビュラ源内」
まだ誰も、その名を説明していなかった。
だが、その名は、すでに市役所の地下で待っていた。
山崎は言った。
「名前は、後から付くものです。エンジンは、もう動いている」
喫茶店の空気が、少し冷えた。
佐伯は、制度の側にいるつもりだった。だが、今、自分が何の側にいるのか分からなかった。市役所か。委託先か。住民か。未帰属者か。まだ名前のない行政エンジンの部品か。
山崎は、話を戻した。
「佐伯さん。地域帰属ポイントとは、何ですか」
「正式には、地域生活圏参加指標です」
太田が鼻で笑った。
「名前を柔らかくすると、ろくなことがない」
佐伯は否定しなかった。
「地域内の行政情報への接触、地域ポイント加盟店の利用、健康増進イベントへの参加、防災通知の確認、公共交通アプリの利用、オンライン手続きの完了状況などをもとに、必要な案内を最適化するものです」
「案内だけですか」
山崎が聞いた。
佐伯は、すぐには答えなかった。答える前に、頭の中で庁内説明資料を探していた。制度の中で働く人間は、考えるより先に資料を探すようになる。
「現在は案内です」
「将来は」
「生活圏に応じた行政サービスの効率化が検討されています」
「効率化とは」
「窓口案内、給付情報、防災情報、健康支援、地域交通、買い物支援などです」
「住民票とは関係がありますか」
「現時点では、直接にはありません」
山崎は、そこで目を細めた。
「現時点では」
佐伯は黙った。
その言葉は便利だった。
現時点では、徴税に使いません。現時点では、福祉の判定には使いません。現時点では、信用情報とは連携しません。現時点では、保険料には反映しません。現時点では、住民票とは関係ありません。
現時点では、という言葉は、未来の逃げ道を残すためにある。
太田は、石橋の画面を見た。
「この人の地域帰属ポイントが低い理由は何だ」
佐伯は、苦しそうに答えた。
「地域内のデジタル接点が少ないためだと思います」
「米屋を四十年やってもか」
「その情報は、指標に含まれていません」
「町内会の餅つきに米を出してもか」
「データとして取得されていなければ」
「小学校の炊き出しに米を出してもか」
「対象外です」
太田の声が低くなった。
「対象外」
行政は、その言葉でいろいろなものを殺す。対象外、期間外、範囲外、要件外、形式不備、確認不能、該当なし。人間は死ななくても、制度の中では簡単に死ぬ。
石橋は黙っていた。
怒る体力を、もう何度も制度に吸われてきた人間の沈黙だった。
山崎は、佐伯に言った。
「公開資料を見せていただけますか」
佐伯は鞄から資料を出した。
地域生活圏最適化推進実証事業。市民一人ひとりに寄り添う行政サービス。デジタルでつながる安心なまち。住むから、つながるへ。
紙の上では、まちが輝いていた。
行政資料の中の市民は、いつも笑っている。スマホを持ち、家族と笑い、講座に参加し、地域ポイントを貯め、健康になり、防災通知を確認し、行政手続きを一分で終える。
行政資料の中には、怒っている市民がいない。諦めた市民もいない。入力できない市民もいない。通知を見ただけで動悸がする市民もいない。本人確認の顔写真が何度も弾かれて、最後にスマホを伏せる市民もいない。
資料の中では、全員がデジタルに微笑む。
微笑まない者は、資料に載らない。
山崎は資料の最後の方を見ていた。小さな文字が並んでいる。
生活圏データ。
地域参加指標。
予測案内。
仮所属自治体。
広域再編時の行政サービス継続性。
鳥根広域生活圏。
山崎の指が止まった。
「佐伯さん」
「はい」
「鳥根広域生活圏とは何ですか」
佐伯の顔が変わった。隠した顔ではなかった。知らないはずのものを、今ここで見つけてしまった顔だった。
「その資料に載っていますか」
「載っています」
佐伯は資料を覗き込んだ。その行を見た瞬間、唇がわずかに動いた。
「これは、公開版に残ってはいけない部分です」
「つまり、あるのですね」
佐伯は答えなかった。
太田が言った。
「鳥根県は存在しない」
「県ではありません」
佐伯は反射的に言った。そして、自分が答えてしまったことに気づいた。
山崎は静かに言った。
「県ではない。生活圏ですね」
佐伯は観念したように頷いた。
「将来の広域行政再編を想定した、生活圏モデルの一つです。まだ政策決定ではありません。あくまで実証上の仮名称です」
「だが、検索候補には鳥根県と出た」
「検索連動側が、名称を補完した可能性があります」
「補完」
太田が笑った。
「存在しない県まで補完するのか。親切な世の中だな」
山崎は笑わなかった。
「ステージング環境と本番環境が混ざっている可能性があります」
佐伯は顔を上げた。
「なぜ分かるんですか」
「昔から同じです。試験用データが本番に漏れる。仮コードが公開資料に残る。コメントアウトしたつもりの説明がPDFに残る。非公開タグが検索に拾われる。新しい言葉で飾っても、事故の形は古い」
山崎は資料をめくった。
TRG。
小さく印字されたコードがあった。
TRG-Regional Guidance Model.
Torigane Regional Guidance。
鳥根。
「これが検索に拾われたのでしょう。検索側の補完と地域情報基盤のタグがつながった。生活圏モデル名が、県名のように表示された」
佐伯は、苦い顔で頷いた。
「それなら、バグです」
太田が言った。
山崎は首を横に振った。
「いいえ。バグならまだましです」
「違うのか」
「バグは、直せます。これは、思想が正常に動いている」
喫茶店の空気が、さらに冷えた。
「住民票より生活圏を見る。住所より行動を見る。地域の思い出よりログを見る。本人の言葉より予測を見る。行政指導を受けても止まらなかった配管に、決済、検索、ポイント、健康、防災、給付をつなぎ足す。古い地域を、効率的な生活圏へ置き換える。鳥根県という名前は漏れた。しかし、漏れたことが問題なのではありません。漏れて困るものを、すでに作っていたことが問題です」
佐伯は、反論しようとしてやめた。
反論の言葉はあった。まだ決まっていない。実証段階である。個人情報には配慮している。市民サービス向上が目的である。専門家の助言を受けている。利用規約に明記している。行政指導には対応済みである。
どれも正しい。
正しすぎて、口に出すと自分が嫌になるほどだった。
石橋が、ぽつりと言った。
「私は、鳥根県の人になるんですか」
誰も答えなかった。
その沈黙の中で、山崎の古い携帯電話が鳴った。メールだった。差出人は、市役所文書管理課。件名は、古いものだった。
「旧町村合併資料閲覧申請の件」
山崎は、前夜のうちに申請していた。検索候補に出た鳥根という文字が、単なる機械生成にしては引っかかっていたからである。
鳥根。
どこか古い。
未来の名前のくせに、古い臭いがする。
技術者は、違和感を放置しない。
山崎はメールを読んだ。
「旧庁舎の文書庫に、関連資料が残っているようです」
太田が言った。
「行くぞ」
石橋も立ち上がった。
佐伯は迷った。彼は職員である。勤務時間中である。勝手に動くべきではない。上司に確認するべきである。手続きが必要である。
だが、自分のスマホにも未帰属通知が来ていた。
手続きに従う人間は、手続きに飲まれる瞬間が遅れるだけである。
佐伯は、鞄を持った。
四人は市役所へ向かった。
市役所の新庁舎は、ガラス張りだった。入口には大きな液晶画面があり、市民の笑顔が流れていた。
デジタルでつながる、誰ひとり取り残さないまち。
誰ひとり取り残さない。
行政がこの言葉を使う時、まず最初に取り残される人間が決まる。取り残されないための手続きが増えるからである。
入口では、案内ロボットが首を振っていた。
「ご用件をお話しください」
山崎は無視した。太田も無視した。石橋は少し会釈した。佐伯は、職員証を出した。
案内ロボットは、それでも同じ声で言った。
「ご用件をお話しください」
機械は、職員証に敬意を払わない。
新庁舎の奥に、旧庁舎へ続く通路があった。そこから空気が変わった。ガラスと液晶の匂いが消え、古い紙と湿ったコンクリートの匂いがした。人間が長く書類を積むと、建物は独特の息をする。
旧庁舎の地下に、文書庫があった。
鍵を開けたのは、文書管理課の老職員だった。定年再任用の男で、名前は大野といった。大野は、山崎を見ると苦笑した。
「また古いものを掘りますね」
「古いものほど、新しい事故の根にあります」
「山崎さんらしい」
大野は、棚の奥へ案内した。そこには、合併前の町村資料、商店街台帳、町内会名簿、災害時協力店一覧、学校給食協力記録、古い防災無線管理簿が積まれていた。
石橋の足が止まった。
棚の一つに、石橋米穀店の名前があった。
災害時米穀供給協力店。
学校行事協力店。
町内会餅つき協力店。
祭礼赤飯調製協力者。
石橋トミは、そこにいた。
スマホの中では未帰属予備群だった女が、紙の中では地域を支えていた。
石橋は、棚の文字を指でなぞった。
「ここには、あるんですね」
山崎は答えなかった。答える必要がなかった。
紙は古い。
検索できない。
リンクもない。
通知も出さない。
ポイントも付かない。
だが、覚えている。
山崎は、鳥根という言葉を探した。
大野が一冊の簿冊を持ってきた。
「これです。昭和の大合併前後の資料ですね」
表紙には、墨でこう書かれていた。
鳥根郷関係綴。
佐伯が息を呑んだ。
「鳥根は、昔の地名だったんですか」
大野が言った。
「正式な自治体名ではありません。いくつかの集落をまとめて、昔はそう呼んでいたようです。合併の時に消えました。反対運動もあったそうですが、記録は少ないですね」
山崎は簿冊を開いた。
中には、陳情書があった。
地名存続願。
商店街存続願。
学校存続願。
郵便局存続願。
防災無線維持願。
どれも、丁寧な字で書かれていた。
だが、結果は同じだった。
廃止。
統合。
移管。
合理化。
名称変更。
人間は、昔から同じ言葉で消されていた。デジタルになったから冷たくなったのではない。冷たさが、デジタルで高速化しただけである。
太田は、ページをめくっていた。途中で手が止まった。
「山崎さん」
「何です」
「これを見ろ」
そこには、古い名簿があった。表題は、奇妙だった。
未帰属者一覧。
昭和の合併時、どの新町にも編入扱いが曖昧になった土地、商店、共同墓地、ため池、倉庫、旧道、番地があったらしい。名簿には、人名も混じっていた。
戸籍上は移った。住民票上も移った。だが、地域の祭り、墓、商売、学校、井戸、田畑、商店街のつながりは、簡単には移らなかった。
だから、人々は自分たちを未帰属と呼んだ。
行政がそう呼んだのではない。
自分たちで、そう書いていた。
未帰属者。
佐伯は、顔をしかめた。
「でも、これは昔の話です」
山崎は言った。
「昔の話が、なぜ今の実証事業の名前に戻ってきたのですか」
誰も答えられなかった。
合理的な説明はあった。古い資料がデジタルアーカイブ化された。OCRで読み取られた。生活圏モデル作成時に、歴史地名データとして取り込まれた。鳥根という旧地名が、地域再編シミュレーションの候補名に使われた。TRGというコードが付いた。検索連動基盤がそれを拾った。仮の生活圏名が、検索候補で県名のように補完された。
それだけである。
それだけなら、ミステリーは解けた。
鳥根県は、未来から来たのではない。
過去から拾われた。
だが、問題はそこではなかった。
なぜ、拾われたのか。
なぜ、石橋トミの検索に出たのか。
なぜ、太田健二郎の通知に出たのか。
なぜ、佐伯航平まで未帰属になったのか。
なぜ、行政指導を受けたはずの配管が、より太く、より深く、市役所の床下へ伸びていたのか。
山崎は、未帰属者一覧を見ていた。
ページの下に、墨で一字が書かれていた。
還。
太田の家に届いたポイントカードと同じ字だった。
石橋が、小さく声を上げた。
「それ」
「ご存じですか」
山崎が聞いた。
石橋は、震える指でページを指した。
「うちのスタンプです」
「スタンプ?」
「昔、商店街で還元スタンプをやっていたんです。買い物をすると台紙に押すんです。十個で卵。二十個で米。年末には抽選。うちも参加していました」
還元スタンプ。
それが、太田の家に届いた擦り切れたポイントカードの正体だった。
電子ポイントではない。
地域ポイントでもない。
アプリでもない。
QRでもない。
ただの紙だった。
誰がいつどこで買ったか、中央サーバーには残らない。だが、店の人間は覚えていた。あの子は卵を楽しみにしていた。あの家は年末に米を買う。あそこの婆さんは小銭を数えるのが遅い。あの若夫婦は、いつも一番安い米を選ぶ。
データではない。
記憶である。
現代の制度がもっとも苦手なものだった。
太田はつぶやいた。
「昔のポイ活か」
石橋は首を横に振った。
「違いますよ」
その声は、はっきりしていた。
「ポイントじゃありません。店に来てくれてありがとう、という印です」
太田は黙った。
石橋トミは、その日初めて怒っていた。
「今のポイントは、誰かをどこかへ連れていくためのものなんでしょう。うちのスタンプは、また来てね、というだけでした」
その言葉は、文書庫の湿った空気に残った。
佐伯は、何かを言おうとしてやめた。市民サービス、利便性、地域活性化、健康増進、行政指導対応済み。口に出せば、全部が薄くなる気がした。
その時だった。
文書庫の奥で、古いスピーカーが鳴った。
全員が振り向いた。
防災無線の試験用スピーカーだった。すでに使われていないはずの機器である。
大野が眉をひそめた。
「おかしいな。電源は切っているはずですが」
スピーカーから、ざらついた音がした。
ザー、という古い雨のような音。
次に、女の声が流れた。
「こちらは」
一度途切れた。
そして、もう一度。
「こちらは、鳥根県仮設広報課です」
佐伯の顔から血の気が引いた。
太田は、スピーカーを睨んだ。
山崎は動かなかった。
石橋は、胸の前で手を握った。
声は続いた。
「未帰属者の皆さまに、お知らせします」
古いスピーカーは、現代の通知よりもはっきり聞こえた。
「地域帰属確認の期限が近づいています」
「現在の自治体に帰属する方は、確認手続きを行ってください」
「最適生活圏への移行を希望する方は、案内に従ってください」
「どちらにも属さない方は」
そこで、声が少し低くなった。
「お帰りください」
沈黙。
誰も動かなかった。
大野がスピーカーの配線を確認しようとした。山崎が止めた。
「触らないでください」
「でも、これ」
「今触ると、証拠が消えます」
太田が言った。
「証拠か、怪異か、どっちだ」
山崎は答えなかった。
技術者は、怪異にも手順を求める。怪異の側に手順があるとは限らないが、それでも求める。
スピーカーは、さらに言った。
「旧町名をお持ちの方」
「閉店した商店をお持ちの方」
「廃止された窓口をお持ちの方」
「紙の申請書をお持ちの方」
「現金トレーをお持ちの方」
「行政指導のあとも残された同意ボタンを押した方」
「検索結果に表示されなくなった方」
「地域ポイントに変換できなかった方」
「お帰りください」
石橋トミは、泣かなかった。
ただ、棚に残る石橋米穀店の名前を見ていた。
太田は、拳を握っていた。
佐伯は、職員証を胸に下げたまま、初めて自分が何の職員なのか分からなくなっていた。市の職員か。生活圏の職員か。まだ存在しない鳥根県の職員か。それとも、未帰属者の一人か。
山崎は、未帰属者一覧の最後のページをめくった。
そこには、新しい文字が増えていた。
紙は古い。
インクも古い。
だが、その名前だけは、今書かれたように黒かった。
石橋トミ。
太田健二郎。
佐伯航平。
そして、山崎奨。
山崎は、その文字を見ても驚かなかった。
驚かない技術者は、二種類いる。
何も分かっていない者。
分かりすぎている者。
山崎は後者だった。
「なるほど」
太田が言った。
「何がなるほどだ」
「判定基盤は、過去の未帰属者名簿を学習している。現在の生活圏データと照合し、似た人間を抽出している。だから、石橋さんも太田さんも佐伯さんも未帰属になった」
「お前もだ」
「ええ」
「合理的に説明できるのか」
「途中までは」
「最後は」
山崎は、黒々と増えた自分の名前を見た。
「最後は、説明すると嘘になります」
技術者が説明を拒む時、そこには本物の穴がある。
その穴を、制度はバグと呼ぶ。
住民は祟りと呼ぶ。
役所は確認中と呼ぶ。
そのどれも、完全には正しくない。
文書庫の空気が重くなった。
古い紙が、わずかに震えていた。
いや、震えていたのは紙ではなかった。
棚だった。
壁だった。
床だった。
市役所の地下に眠っていた旧町名が、ゆっくり寝返りを打っていた。
新庁舎の上では、液晶画面がまだ笑顔の市民を映している。
デジタルでつながる、誰ひとり取り残さないまち。
地下では、取り残された者たちが名簿を開いていた。
この国は、何度も地域を消してきた。村を町にした。町を市にした。郡を忘れた。字を消した。小学校を統合した。商店街をシャッター通りと呼んだ。駅前を再開発した。郵便局を減らした。農協の支店を閉じた。防災無線をアプリに替えた。紙の台帳をスキャンした。そして、検索できないものを、ないものにした。
だが、消されたものは、必ずしも消えていなかった。
紙の奥に残った。
地名の底に残った。
店のスタンプに残った。
米の匂いに残った。
閉店したシャッターの裏に残った。
現金トレーの傷に残った。
行政指導で止まらなかった配管の継ぎ目に残った。
誰かが覚えているかぎり、それはデータではなかった。
データではないものを、制度は扱えない。
扱えないものを、制度は怖がる。
怖がった制度は、それを分類する。
分類できなかったものには、名前を付ける。
未帰属者。
便利な名前だった。
だが、その名前を付けた瞬間、未帰属者たちは集まり始めた。
大野が震える声で言った。
「上に戻りましょう」
誰も反対しなかった。
四人は文書庫を出た。
階段を上がる途中、太田のスマホが震えた。電源は切っていたはずだった。画面が勝手に点いた。
通知が出ていた。
鳥根県仮設広報課。
帰属確認が完了しました。
太田は画面を見た。
帰属先。
未帰属。
判定理由。
旧町名保持。
現金決済傾向。
地域ポイント未登録。
紙記録接続あり。
還元スタンプ履歴検出。
行政指導後の同意ボタン押下なし。
太田は笑った。
低く、嫌な笑いだった。
「俺は、未帰属に帰属したらしい」
山崎が言った。
「矛盾していますね」
「役所らしいな」
その瞬間、石橋のスマホも鳴った。
帰属確認が完了しました。
帰属先。
石橋米穀店。
石橋は画面を見つめた。
自治体名ではなかった。
県名でも市名でも町名でもない。
店の名前だった。
石橋米穀店。
閉じたはずの店。
検索結果から沈められた店。
制度上の地域ではない。
だが、彼女にとっては、そこが地域だった。
石橋は、初めて少し笑った。
「それなら、まあ、いいです」
佐伯のスマホにも通知が来た。
帰属確認が完了しました。
帰属先。
確認中。
佐伯は、思わず笑いそうになった。
現役職員の帰属先が、確認中。
行政の自己紹介として、これほど正確なものはなかった。
最後に、山崎の古い携帯電話が鳴った。
メールだった。
差出人はなかった。
件名もなかった。
本文には、一行だけあった。
機関長は、まだ降りるな。
山崎は、それを見て静かに携帯を閉じた。
新庁舎の一階に戻ると、液晶画面の表示が変わっていた。
デジタルでつながる、誰ひとり取り残さないまち。
その文字が一瞬だけ乱れた。
デジタルでつながる、誰ひとり逃がさないまち。
太田は見た。
山崎も見た。
石橋は見なかった。
佐伯は、見なかったことにした。
市役所の外に出ると、商店街の方から夕方の匂いがした。揚げ物の匂い。古い畳の匂い。湿った段ボールの匂い。米屋があったころの匂い。
人間は、地域に住んでいるつもりだった。
だが、地域の方が、人間を覚えていた。
その夜、全国のいくつかの自治体で、似たような通知が出た。仮所属自治体、地域帰属ポイント不足、生活圏不整合、旧町名確認、未帰属者。問い合わせ窓口は混雑し、チャットボットは答えた。
「ご不便をおかけしております」
便利な言葉である。
ご不便をかけている者が、自分で言うと、少しだけ罪が薄まる。
だが、その夜、本当に混雑したのは問い合わせ窓口ではなかった。古い文書庫だった。閉じた商店街だった。廃校の校門だった。移転した郵便局の跡地だった。合併で消えた役場の玄関だった。行政指導で閉じられなかった同意ボタンの奥だった。
そこに、誰かが戻ってきていた。
石橋トミの家の郵便受けにも、封筒が届いた。
差出人はない。
宛名は、石橋米穀店御中。
中には、古い還元スタンプカードが入っていた。
スタンプは二十個たまっていた。
裏には、墨でこう書かれていた。
米一キロ。
石橋は、台所の米びつを開けた。
空だったはずの米びつに、白い米が入っていた。
ほんの一キロ。
だが、確かに入っていた。
石橋は、炊飯器を出した。
久しぶりに、米を研いだ。
水が白く濁った。
その濁りの中に、商店街の灯りが揺れていた。
太田健二郎は、自宅で古いポイントカードを机に置いた。カードの裏の「還」という字は薄くなっていなかった。むしろ、時間が経つほど墨が紙の奥から滲み出すように濃くなっていた。
山崎奨は、自宅の机で、古いノートパソコンを開いた。画面には、何も入力していない検索窓があった。
候補が出た。
日本再編。
怨霊。
第零怪 予兆。
その下に、見慣れない語が一つ浮かんだ。
国家行政最適化AI。
山崎は、しばらく画面を見ていた。検索候補の一つには、すでに誰かが書いた記録のように、青いリンクが付いていた。
それは告知ではなかった。
誘導でもなかった。
未来の記事へのリンクでもなかった。
二〇二六年の行政指導で止められなかった毒が、二〇六二年に名前を得るまでの、最初の目録だった。
日本再編・怨霊 第零怪『予兆』
山崎は、リンクを開かなかった。
開かなくても、分かっていた。
シビュラ源内は、まだ生まれていない。
だが、その配管は、もう庁舎の床下を走っていた。
機関長は、まだ降りられなかった。
ポイ活難民編 完。
