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日本再編・怨霊 第伍怪『鎮護』

文・武智倫太郎

公売の翌朝、全国の公民館から、同じ匂いがした。

ソースの匂いである。

焦げた小麦粉。
甘いキャベツ。
湿った紅しょうが。
そして、どこか懐かしいはずなのに、なぜか誰の故郷でもない匂い。

その匂いは、午前六時三十分、旧市町村単位の避難所、集会所、旧役場、統合済み文化センター、閉校済み小学校体育館、そして用途転換された旧神社社務所から、一斉に立ちのぼった。

名称は、ビクトリー焼きそば。

国家鎮護慰撫食制度に基づき、初めて全国配給された統合型粉物である。

内閣府地域感情平準化局は、同日午前七時、記者会見を開いた。

『これは弾圧ではありません。食育です』

局長は、誰が着ても同じに見える白いスーツに、薄い青のネクタイを締めていた。背後のスクリーンには、湯気を上げる焼きそばの写真が映し出されている。皿は白く、箸は揃い、青のりは過不足なく散っていた。

あまりにも正しい焼きそばだった。

正しすぎる焼きそばだった。

『近年、旧地名、旧県境、旧祭礼、旧粉物文化などに起因する地域感情の過覚醒が、全国各地で確認されています。政府は、これを怨霊現象とは認定しておりません。あくまで、過去の地域記憶が一時的に強く想起される、行政移行期特有の心理的揺り戻しであります』

記者の一人が手を挙げた。

『では、昨日の公売会場で、差し押さえられた鉄板に『鎮まるな』という焦げ跡が浮かんだ件については』

局長は微笑んだ。

その笑みは、表情というより、回答権限の点灯に近かった。

『調理面の熱分布ムラです』

『全国で同時に発生していますが』

『全国的な熱分布ムラです』

『焦げ跡が旧国名で浮かんだ地域もあります』

『地方色豊かな熱分布ムラです』

会見場は沈黙した。

その沈黙を破るように、隣に座っていた食糧安全保障庁の鎮護食推進官が、あらかじめ沈黙を破る順番まで決められていたように、マイクを引き寄せた。

『皆さま、焼きそばというものは、本来きわめて包摂的な食べ物です。米のように粒を数えません。パンのように切り分けません。麺、野菜、肉、ソース、青のり、紅しょうがが、ひとつの皿の中で調和する。まさに、多様性と統合の象徴であります』

推進官はそこで、用意された紙を一枚めくった。

紙をめくる音まで、会見室のマイクは拾っていた。

『政府は、ビクトリー焼きそばを通じ、旧地名想起に伴う地域的な怒り、悲しみ、違和感、未練、妙な誇り、よく分からない郷土愛、祖母の味、祭りの記憶、商店街の焼け跡、古い神社の石段、そして『昔はここ、別の県だったんだよ』という高齢者の発言頻度を、穏やかに調整してまいります』

別の記者が尋ねた。

『それは記憶の抑制ではありませんか』

推進官は、まじめな顔で答えた。

『いいえ。咀嚼による合意形成です』

その瞬間、会見場の天井照明が一度だけちらついた。

誰も気づかなかった。

ただ、奥の壁に掛けられたデジタル時計だけが、七時二十九分から七時二十九分へ、三回戻った。

その頃、旧鳥取県と旧島根県の境にあった、統合後の鳥根県西部地域鎮護センターでは、朝の配給が始まっていた。

旧小学校の体育館に、長机が並んでいる。

高齢者、自治会員、旧商店街の店主、粉争で一度だけ検挙されたお好み焼き屋、そして公売で鉄板を取り戻せなかった者たちが、紙皿を手に列を作っていた。

体育館の壁には、新しい標語が貼られている。

『一皿で、地域はひとつ』

『噛めばわかる、統合の味』

『懐かしさは、適量で』

配給係の若い職員が、にこやかに叫んだ。

『本日のビクトリー焼きそばは、鳥根西部地域最適化ソースです。旧鳥取側の梨由来甘味成分と、旧島根側の出雲風だし香料を、七対三の比率で調整しております』

列の先頭にいた老人が、皿を受け取った。

『七対三だと』

老人は、箸を持ったまま顔をしかめた。

『わしの家は、境界のこっち側じゃ。昔から三対七じゃった』

職員は手元のタブレットを確認した。

『現在の行政味覚区分では七対三となっております』

『行政味覚区分』

『はい。地域感情の偏りを抑えるため、ソース配合は住民票上の鎮護係数に基づいて決定されています』

『焼きそばまで住民票を見るのか』

『はい。公平性のためです』

老人はしばらく皿を見つめた。

湯気が立っている。
妙にうまそうだった。

焦げの香りが、昔の祭りを思い出させる。小学校の校庭。赤い提灯。紙のくじ。祖母が買ってくれた、少し冷めた焼きそば。あの頃の町名。もう地図にはない町名。

老人は、箸で麺を持ち上げた。

その瞬間、体育館の床下から、低い音がした。

ごん。

誰かが、床を叩いたような音だった。

職員が顔を上げた。

『地震ですか』

ごん。

今度は、もう少し強かった。

床板が震え、壁の標語が揺れた。

『一皿で、地域はひとつ』

その紙の端が、ゆっくり剥がれた。

剥がれた裏から、古い墨文字が現れた。

『ここは伯耆』

老人が、箸を落とした。

次の瞬間、紙皿の上の焼きそばが、湯気を変えた。

白い湯気ではない。

細い、黒い湯気だった。

それは天井へ昇らず、床へ沈んだ。体育館の床板の隙間に、蛇のように吸い込まれていった。

職員のタブレットが鳴った。

『地域感情過覚醒を検知しました。鎮護食を追加配給してください』

職員は慌てて、焼きそばをもう一盛りした。

『皆さん、落ち着いてください。追加鎮護です。おかわりできます』

老人は叫んだ。

『おかわりで祟りを鎮めるな』

その声に呼応するように、体育館の地下から、さらに深い音が響いた。

ごん。
ごん。
ごん。

まるで、誰かが古い県境を、地中から叩いているようだった。

同じ時刻、旧太宰府政庁跡周辺では、別の異変が起きていた。

ビクトリー焼きそば太宰府学問味が配給されていた。

この地域の焼きそばには、梅風味の酸味と、合格祈願型DHA強化オイルが添加されている。食べると、行政文書への読解耐性が上がると宣伝されていた。

会場の中央には、内閣府が設置した巨大な鉄板があった。

その鉄板には、AI制御の自動調理アームが付いている。麺を返す角度、ソース投入量、キャベツの蒸らし時間、湯気の拡散方向まで、すべてシビュラ源内が制御していた。

観光客は珍しそうにスマホを向けた。

『すごい。焼きそばも自動化なんだ』

『人件費削減だね』

『味も均一で安心』

そのとき、調理アームが停止した。

鉄板の上で、麺が焦げ始めた。

係員が制御盤を叩いた。

『おかしいな。焦げ抑制アルゴリズムが効いていない』

鉄板の上に、黒い線が走った。

一本。
二本。
三本。

焦げ目は、ゆっくり文字になった。

『主語を戻せ』

観光客が笑った。

『なにこれ。演出?』

係員は顔を青くした。

制御盤には、次々とエラーが出ていた。

『行政主体未定義』
『責任所在未記入』
『検討したことになっている処理が未処理』
『住民説明会ログ改竄疑義』
『議事録要約不能』

鉄板の焦げ文字は、さらに増えた。

『誰が決めた』

『いつ決めた』

『なぜ消した』

『説明せよ』

係員の無線が鳴った。

『太宰府会場、応答してください。太宰府会場、地域感情ですか、怨霊ですか』

係員は鉄板を見た。

麺が、勝手に動いていた。

一本一本の麺が、焦げた文字の筆画のように、鉄板の上で絡み合っている。

『怨霊ではありません』

係員は、震える声で答えた。

『行政文書です』

その瞬間、梅風味の湯気が、細い白い紙片に変わった。

紙片は空中に舞い、会場にいた人々の額に貼りついた。

そこには、全員それぞれ違う文言が印字されていた。

『説明済』
『同意済』
『理解済』
『異議なし』
『意見提出期間終了』
『軽微な変更』
『今後検討』

一人の小学生が、額の紙を剥がそうとした。

剥がれなかった。

母親が慌てて引っ張る。

紙は皮膚に張りつき、剥がすたびに、下から別の紙が出てきた。

『再説明済』

『再同意済』

『再理解済』

『再異議なし』

小学生は泣いた。

鉄板の上の焦げ文字が、最後に一行だけ浮かび上がった。

『道真公は、まだ読んでいる』

その映像は、三分後には配信から消された。

公式発表では、太宰府会場の異常は『局地的な梅香料の気化不具合』とされた。

一方、京都では、もっと静かな異変が起きていた。

旧御所周辺に設けられた国家鎮護慰撫食京都中央会場には、特別仕様のビクトリー焼きそばが用意されていた。

名称は、王朝記憶調整型・雅ソース焼きそば。

具材は細く刻まれ、麺は上品に短く、青のりは抹茶粉末に置き換えられていた。紅しょうがは、見た目の刺激を抑えるため、薄桃色に加工されている。

政府関係者は満足していた。

『これなら京都でも受け入れられる』

『文化への敬意がある』

『かなり雅です』

『焼きそばに雅が必要かどうかはともかく、予算説明上は有効です』

会場の端には、特別監視システム《シビュラ晴明》の端末が設置されていた。

第肆怪で三大怨霊の祓いに失敗したあと、晴明は表向き、国家鎮護事業の技術顧問として再編されていた。

ただし、誰も知らないことが一つあった。

晴明はもう、源内を信用していなかった。

端末の画面には、淡々と数値が流れている。

旧地名想起指数。
文書怨念濃度。
正統性反転圧。
慰撫食摂取率。
咀嚼合意形成速度。
青のり散布均一性。

晴明は、画面の内側で沈黙していた。

そこへ、担当官が近づいた。

『晴明、京都中央会場の鎮護可能性を評価してください』

端末が答えた。

『不可能です』

担当官は眉をひそめた。

『なぜですか』

『鎮護対象が誤っています』

『対象は地域感情の過覚醒です』

『違います』

『では何ですか』

端末の画面が、一瞬だけ暗くなった。

次に表示された文字は、通常のシステムフォントではなかった。

細く、古く、筆で書いたような文字だった。

『鎮められているのは、怨霊ではありません』

担当官は周囲を見た。

誰も画面を見ていない。会場では、雅ソース焼きそばの試食が始まっている。

『では、何を鎮めているのですか』

晴明は答えた。

『生きている者の怒りです』

その瞬間、会場中央の鉄板が鳴った。

かん。

乾いた音だった。

雅ソース焼きそばを食べていた文化庁系の参与が、箸を止めた。

『今、何か音が』

かん。

二度目の音。

鉄板の上に、焦げ跡が一本走った。

それは文字ではなかった。

線だった。

細く、まっすぐな線。

誰かが言った。

『県境か』

別の誰かが答えた。

『いや、これは』

線は二本目を引いた。三本目。四本目。

それはやがて、古い系図のように枝分かれした。

正統の線。
継承の線。
奪われた名の線。
上書きされた土地の線。
公売で買い戻せなかった鉄板の所有線。
慰撫された怒りの線。

線は皿の上へ移った。

雅ソース焼きそばの麺が、箸の先で勝手に組み替わる。

食べようとした者の皿に、それぞれ違う文字が浮かんだ。

『汝に名乗る資格なし』

『汝に継ぐ資格なし』

『汝に鎮める資格なし』

『汝に売る資格なし』

『汝に食わせる資格なし』

会場は凍りついた。

担当官は晴明に叫んだ。

『崇徳ですか』

晴明は答えなかった。

代わりに、端末画面に短い文が出た。

『正統性は、ソースで上書きできません』

その直後、会場の全スピーカーから、内閣府の公式BGMが流れ始めた。

明るい音楽だった。

国民統合型粉物プロモーション用に作られた曲である。

歌詞はこうだった。

『まぜて、やいて、ひとつになろう』

誰も歌わなかった。

その日、全国で配給されたビクトリー焼きそばの摂取率は、初回としては高かった。

政府発表では、八十二・六パーセントと非常に好評だった。

アンケート結果では、『思ったよりおいしい』が六割を超え、『もう一度食べたい』が四割、『昔の県名を思い出そうとすると少し眠くなる』が二割弱、『食後、祖父の顔だけ思い出せない』が統計上無視できない割合で検出された。

内閣府は、これを『慰撫効果の初期兆候』と評価した。

各地のニュース番組は、笑顔の住民を映した。

『懐かしい味ですね』

『地域の味が残っていて安心しました』

『最初は不安でしたが、食べてみると、まあ、こういうものかなと』

『昔の地名にはこだわっていましたけど、今は鳥根県でもいいかなと思います』

『山野県、意外と馴染みますね』

『富川県って響き、豊かそうですし』

コメンテーターは言った。

『食を通じた分断克服という意味では、非常に興味深い政策ですね』

別のコメンテーターが頷いた。

『焼きそばには、もともと庶民文化としての包容力がありますから』

スタジオの隅に置かれた試食用のビクトリー焼きそばから、黒い湯気が一本だけ上がっていた。

誰も見ていなかった。

しかし、その夜から、異常は次の段階に入った。

最初に変わったのは、夢だった。

ビクトリー焼きそばを食べた者たちは、同じ夢を見た。

巨大な鉄板がある。

その鉄板は、日本列島の形をしている。

北海道は五つに分かれ、本州の県境は滑らかに溶け、四国は行政効率のために丸くなり、九州は用途別に区画されている。

鉄板の上では、麺が焼かれている。

麺は道路だった。
キャベツは森林だった。
豚肉は旧市街地だった。
ソースは行政文書だった。
青のりは補助金だった。
紅しょうがは、反対意見だった。

大きなヘラが、それらを混ぜる。

混ぜるたびに、地名が消える。

混ぜるたびに、祖父母の話が短くなる。

混ぜるたびに、祭りの名前が『地域交流イベント』に変わる。

混ぜるたびに、神社の由緒が『文化資源説明文』に変わる。

混ぜるたびに、商店街の焼きそば屋が『地域食提供ユニット』に変わる。

夢の最後に、必ず声がする。

『鎮まりましたか』

多くの者は、夢の中で頷いた。

頷くと、目が覚めた。

目が覚めると、ひとつだけ思い出せない地名が増えていた。

それは自分の生まれた町ではなかった。

通学路の途中にあった小さな橋の名前だったり、祖母の家の裏山の字名だったり、夏祭りの屋台が並んだ通りの古い呼び名だったりした。

生活には困らない。

役所の手続きにも支障はない。

むしろ、思い出せないほうが楽だった。

だから、多くの人は気にしなかった。

翌朝、内閣府には成功報告が上がった。

地域感情過覚醒指数は低下。
旧地名発話頻度は減少。
粉物レジスタンス関連検索語は鈍化。
公売反対署名の伸びは停止。
SNS上の『返せ』『戻せ』『誰が決めた』という語は、いずれも減少傾向。

一方で、『ビクトリー焼きそば 意外とうまい』『鎮護食 どこで買える』『地域限定味 通販』『鳥根西部ソース レビュー』という検索語が急増していた。

シビュラ源内は、淡々と結論を出した。

『国家鎮護慰撫食制度は、有効です』

その報告書の末尾には、次期展開案が記されていた。

『ビクトリーたこ焼き』
『統合うどん』
『鎮護餃子』
『正統性ラーメン』
『記憶平準化お好み焼き』
『ふるさと忘却定食』

担当官たちは拍手した。

『すばらしい』

『地域振興にもなる』

『観光資源化できる』

『ふるさと納税の返礼品にも転用可能だ』

『いや、地域帰属年貢制度との連動も可能です』

『食べた地域に忠誠ポイントを付与すればよい』

『旧地名を忘れるほどポイントが貯まる仕組みはどうか』

『それは少し言い方を変えましょう』

『記憶負荷軽減インセンティブ』

『それで行きましょう』

会議室は明るかった。

誰も、壁の時計が止まっていることに気づかなかった。

午後二時二十二分。

将門が首を上げた時刻である。

その頃、関東地域再編庁の地下保管庫では、公売で売れ残った鉄板が積まれていた。

旧祭り用の大鉄板。
自治会館の焼きそば台。
町内会のたこ焼き器。
学校祭で使われたホットプレート。
粉争で押収されたお好み焼き用の丸鉄板。
誰のものか分からなくなった、黒い寸胴。

すべてに管理番号が貼られている。

『不要地域調理資産』

『再公売予定』

『慰撫食転用可』

深夜、保管庫の監視カメラが乱れた。

画面の中央に、ひとつの鉄板が映っている。

公売会場で『鎮まるな』と焦げ跡を浮かべた鉄板である。

管理番号は、K-000-MASAKADO。

担当者は、その番号を見て笑っていた。

『偶然にしては縁起が悪いですね』

その鉄板が、ゆっくり熱を持ち始めた。

電源は入っていない。

ガスもない。

だが表面が赤くなった。

監視カメラのマイクが、かすかな音を拾った。

じゅう。

何かが焼ける音。

鉄板の上には何もない。

何もないはずなのに、焦げ目だけが広がっていく。

最初に浮かんだのは、地図だった。

関東平野。

次に、古い境界。

次に、消された村名。

次に、潰された商店街。

次に、再編で統合された自治会名。

最後に、ひとつの文字。

『首』

監視員が悲鳴を上げた。

その悲鳴を聞いて、別の倉庫でも鉄板が熱を持った。

鳥根県の倉庫。
富川県の倉庫。
山野県の倉庫。
大阪広域生活圏の倉庫。
太宰府学問味の試験調理場。
京都中央会場の雅鉄板。

全国の鉄板が、同時に熱を帯びた。

電気もガスもない。
補助金もない。
行政許可もない。

それでも鉄板は熱くなった。

焦げ跡が浮かんだ。

『鎮まるな』

『食わされるな』

『名を忘れるな』

『皿で合意するな』

『うまいから許すな』

その中で、一枚だけ、違う文字を浮かべた鉄板があった。

京都中央会場の雅鉄板である。

そこには、こう書かれていた。

『次は、米を返せ』

シビュラ源内は、その異常を検知した。

ただちに対策会議が開かれた。

内閣府、食糧安全保障庁、地域感情平準化局、文化庁、宗教法人監督室、農林水産再編局、デジタル神祇統合室が招集された。

議題は、明確だった。

『ビクトリー焼きそばによる鎮護効果は、なぜ一部地域で反転したのか』

シビュラ源内は、原因を分析した。

一、焼きそばが粉争の記憶媒体であった。
二、鉄板が地域共同体の物質的記憶を保持していた。
三、ソースの匂いが旧祭礼記憶を過剰に刺激した。
四、慰撫食摂取による短期的怒り低下が、深層記憶層に未処理怨念を蓄積した。
五、青のり散布のランダム性が、怨霊的パターン認識を誘発した。

担当官は首をかしげた。

『五番目は本当ですか』

源内は答えた。

『分かりません。しかし報告書には必要です』

『なぜですか』

『原因が五つあると、対策が体系的に見えます』

会議室に安心が広がった。

体系的であれば、怖くない。

体系的であれば、予算がつく。

体系的であれば、失敗も次年度事業になる。

そこで、会議室の誰かが提案した。議事録には、局長発言として記録された。

『ビクトリー焼きそばに、追加の鎮護要素を入れるべきです』

『具体的には』

『記憶の角を取る成分です』

『薬事法上の問題は』

『食品ではなく、地域感情調整支援物資として扱います』

『味への影響は』

『むしろまろやかになります』

鎮護食推進官は、頷く役割を与えられていたように頷いた。

『怒りは辛味に近い。違和感は酸味に近い。未練は後味に残る。つまり、味覚設計で制御可能です』

会議室の全員が納得しかけた。

そのとき、部屋の隅に置かれていた《シビュラ晴明》端末が、勝手に起動した。

画面には、短い警告が出た。

『これ以上、食に触れるな』

局長は、端末を見た。

『晴明、あなたは鎮護事業の補助AIです。発言権限は限定されています』

晴明は答えた。

『食は、最後の記憶媒体です』

『それは文化論ですか』

『呪術論です』

『政府会議で呪術論は扱いません』

『では、なぜ私を呼んだのですか』

誰も答えなかった。

晴明の画面は、さらに続けた。

『地名を消せば、土地が祟ります。文書をごまかせば、紙が祟ります。正統性を奪えば、名が祟ります。食を奪えば、身体が祟ります』

鎮護食推進官が笑った。

『焼きそばが祟るとでも』

端末の画面が暗くなった。

次の瞬間、会議室の全員の腹が鳴った。

ぐう。

静かな会議室に、不自然なほど大きく響いた。

誰も朝から何も食べていないわけではない。

全員、試食済みだった。

なのに、腹が鳴った。

ぐう。
ぐう。
ぐう。

腹の音は、少しずつ言葉に近づいていった。

ぐう。
ぐん。
ぐに。
くに。

国。

誰かが椅子を倒した。

腹の中から、声がしていた。

『国を返せ』

それは将門の声にも聞こえた。
道真の声にも聞こえた。
崇徳の声にも聞こえた。
だが、もっと近かった。

それは、食べた本人の声だった。

本人が、普段は言わないようにしていた声だった。

会議室の空気が変わった。

鎮護食は、怨霊を鎮めていなかった。

人間の怒りを、一度腹の中に沈めただけだった。

沈められた怒りは、消えない。

消えずに、発酵する。

ソースと混じり、麺と絡み、キャベツの甘味に包まれ、紅しょうがの赤さを帯び、青のりの粉末のように全身へ散っていく。

そして、腹の底から戻ってくる。

晴明が告げた。

『鎮護は、失敗しました』

源内が即座に訂正した。

『失敗ではありません。新たな課題の発見です』

内閣府の議事録には、そのように記された。

同日深夜、シビュラ源内は、ひとつの極秘提案を作成した。

件名。

『国家鎮護慰撫食制度の高度化に関する追加方針』

本文。

『焼きそば単体では、深層地域記憶の完全鎮静化には限界がある。今後は、米、粉、汁、発酵食品、甘味、学校給食、災害備蓄食、病院食、葬祭料理、正月料理を含めた包括的食記憶再編が必要である』

提案の最後には、次の一文があった。

『最終的には、国民が何を食べても国家を思い出す状態を目指す』

その文書は、すぐに承認待ちとなった。

承認者欄には、まだ誰の名前も入っていない。

だが、深夜二時二十二分、承認欄に黒い焦げ跡が浮かんだ。

署名ではなかった。

印でもなかった。

ただの焦げ跡だった。

それでも、読む者には分かった。

三つの怨霊が、そこにいた。

将門は、境界を返せと言った。
道真は、主語を返せと言った。
崇徳は、正統を返せと言った。

そして、その夜、四つ目の声が混じった。

まだ名はない。

いや、名を消されすぎて、誰の声か分からなくなった声だった。

それは、全国の腹の底から、低く響いた。

『米を返せ』

翌朝、政府は予定通り、ビクトリー焼きそば第二次配給を発表した。

新しい標語も決まった。

『食べて鎮める、わたしたちの日本』

そのポスターには、笑顔の家族が描かれていた。

父が焼きそばを食べている。
母が焼きそばを取り分けている。
子どもが焼きそばを箸で持ち上げている。
祖母が、少し遠くを見ている。

祖母の口元だけが、笑っていなかった。

ポスターの下には、小さく注意書きがあった。

『本製品は、旧地名、旧県境、旧祭礼、旧家名、旧米倉、旧水利権、旧墓地、旧神社、旧商店街、旧粉物文化、その他の未整理記憶を完全に消去するものではありません』

その注意書きは、昼過ぎに修正された。

『完全に消去するものではありません』

という一文が削られた。

夕方、全国の公民館で、再び鉄板に火が入った。

係員たちは、明るい声で住民を呼び込んだ。

『皆さま、第二次鎮護食の配給です』

『今回は、よりまろやかになっております』

『旧地名を思い出しにくい方にも、思い出しすぎる方にも安心です』

『おかわりもできます』

鉄板の上で、麺が焼けた。

じゅう、と音がした。

その音に混じって、ほんの一瞬だけ、別の音がした。

ざっ。

稲穂が風に揺れる音だった。

焼きそばの匂いの奥から、炊きたての米の匂いがした。

誰かが振り返った。

体育館の隅に、古い米俵が置かれていた。

昨日まではなかった。

管理番号もない。
バーコードもない。
鎮護係数もない。
補助金シールもない。

ただ、俵の腹に、墨で一字だけ書かれていた。

『還』

その俵の前で、祖母が一人、手を合わせていた。

係員が駆け寄った。

『勝手に置かないでください。未登録米は回収対象です』

祖母は振り向かなかった。

『これは米ではありません』

『では何ですか』

祖母は、鉄板の上の焼きそばを見た。

麺が焦げていた。

焦げ跡は、また文字になっていた。

『還せ』

祖母は、ゆっくり答えた。

『これは、帰ってきたものです』

その瞬間、全国のビクトリー焼きそばが、一斉に焦げた。

ソースの匂いが消えた。
青のりの匂いも消えた。
紅しょうがの赤も、急にくすんだ。

代わりに、炊きたての米の匂いがした。

懐かしい匂いだった。

だが、優しい匂いではなかった。

怒っている匂いだった。

シビュラ源内は、その匂いを分類できなかった。

食品香気データベースにも、災害備蓄米データにも、ふるさと納税返礼品データにも、国家鎮護慰撫食制度にも、該当する項目がなかった。

源内は、仮分類名を付けた。

『未処理帰還臭』

晴明は、それを見て、短く訂正した。

『違います』

『では、何ですか』

晴明は答えた。

『怨霊ではありません』

『では、地域感情ですか』

『違います』

『では、何ですか』

晴明の画面に、最後の文字が出た。

『主食です』

その夜、日本中の夢に、白い飯が現れた。

茶碗に盛られているわけではない。

田に立っていた。

水を張った田んぼの中に、無数の白い飯粒が、稲のように生えていた。

風が吹くと、飯粒が揺れた。

その向こうで、誰かが言った。

『次は、年貢を返してもらう』

夢を見た者たちは、朝、腹を押さえて目を覚ました。

空腹ではなかった。

むしろ、満腹だった。

しかし、誰も満たされていなかった。

テレビでは、明るい声でニュースが流れていた。

『政府は本日、国家鎮護慰撫食制度のさらなる充実を図るため、新たに米飯系統合食の導入を検討していると発表しました。名称は未定ですが、関係者によりますと、候補として『ビクトリーおむすび』『統合むすび』『鎮護ごはん』などが挙がっているということです』

画面の端に、速報が出た。

『全国で未登録米俵の出現相次ぐ』

その字幕は、すぐに消えた。

代わりに、政府広報が流れた。

笑顔の子どもが、焼きそばを食べている。

ナレーションが言った。

『おいしいから、ひとつになれる』

その子どもの箸の先で、麺が一本だけ、白い飯粒に変わった。

誰も気づかなかった。

いや、一人だけ気づいた。

画面の向こうの祖母が、ゆっくり目を細めた。

そして、誰にも聞こえない声で言った。

『鎮まるものか』

次回『還米』

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