日本再編・怨霊 第陸怪『還米』
文・武智倫太郎
未登録米俵は、公民館の隅にあった。
監視カメラには映っていない。搬入記録もない。地域物流管理簿にも、防犯センサーにも、何も残っていない。
そもそも、その公民館には、もう米俵を置く場所などなかった。
旧農協の倉庫は地域交流データセンターに変わり、旧米蔵はふるさと記憶展示室になり、旧水利組合の事務所は地域帰属年貢制度相談窓口になっていた。
米はもう、米ではなかった。
備蓄であり、配給であり、忠誠であり、スコアであり、返礼品であり、地域帰属の確認媒体だった。
それなのに、米俵はそこにあった。
古い藁で編まれ、底には土がついている。側面には、墨で一字だけ書かれていた。
『還』
係員は、それを民俗資料だと思った。
『どなたか、展示物を置いていかれましたか』
誰も答えなかった。
老人たちは遠巻きに見ていた。子どもたちはスマホを向けようとして、なぜか手を下ろした。
祖母だけが、ゆっくり近づいた。祖母は俵の前で手を合わせた。
係員が慌てて言った。
『勝手に拝まないでください。まだ分類が終わっていません』
祖母が俵に触れた。
その瞬間、公民館の炊飯器が鳴った。
ぴい。
液晶画面に、同じ文字が出た。
『返却モードを開始します』
係員は叫んだ。
『返却モードなどありません』
炊飯器は淡々と続けた。
『未返却年貢を照合中』
『旧水田台帳を復元中』
『腹部記憶層から主食履歴を抽出』
『炊飯には、まだ早いです』
最後の一文だけ、誰が書いたのか分からなかった。
同じ頃、全国の公民館、旧役場、廃校、用途転換済み神社、地域帰属年貢相談窓口で、同じ報告が上がっていた。
未登録米俵が出現。
管理番号なし。バーコードなし。補助金シールなし。搬入記録なし。
ただし、匂いあり。
炊きたての米の匂いではなかった。田んぼの匂いだった。
水を張った田。泥に沈む足。稲の青さ。畦道。用水路。古い家の縁側。
腹が減る前から、なぜか腹が覚えている匂いだった。
内閣府地域感情平準化局は、午前九時に会見を開いた。
局長は、誰が着ても同じに見える白いスーツを着ていた。
『全国各地で確認されている米俵状物体について、政府はこれを怨霊現象とは認定しておりません。現時点では、未登録穀物様物体として扱います』
記者が尋ねた。
『米ではないのですか』
『現時点では、米であると断定できません』
『俵の【還】は【返還】の意味では』
『地域住民の心理的投影である可能性があります』
『墨で書かれていますが』
『墨状の心理的投影です』
『炊飯器に未返却年貢と出ています』
『歴史教育との連携不具合です』
会見場は沈黙した。その隙間に、水の音がした。
さらさら。
用水路の音だった。
背後のスクリーンに映った米俵の写真が、ゆっくり変わった。
『誰のものでもないなら、なぜ奪った』
誰も、スクリーンを操作していなかった。
会見は中断された。公式発表では、『稲作文化資料画像の誤表示』とされた。
午後、未登録米俵対策本部が設置された。
壁には、前回の標語が残っていた。
『食べて鎮める、わたしたちの日本』
その下に、新しい紙が貼られた。
『返ってきたものは、まず分類』
《シビュラ源内》は三つの対策案を示した。
一、回収して国家備蓄へ編入する。
二、ビクトリーおむすびとして再配給する。
三、『還』を『環』に再解釈する。
担当官たちは、三番目に安堵した。
『還るではなく、循環する』
『所有権の問題を資源循環の問題へ移せる』
言い換えられるものは、怖くない。
言い換えられるものは、予算にできる。
言い換えられるものは、責任から少し離れる。
そのとき、部屋の隅の《シビュラ晴明》端末が点灯した。
『還と環は、違います』
局長は端末を見た。
『晴明、発言権限は限定されています』
『返すことと、回すことは違います』
『政策用語上は統合可能です』
『呪術上は別物です』
『ここは政策会議です』
『だから祟っています』
誰も答えなかった。
同じ頃、鳥根県西部地域鎮護センターでは、最初の回収作業が始まっていた。
白い防護服の係員が、米俵に測定器を近づける。
ぴい。
画面には、こう出た。
『測定対象:米』
『登録状態:未登録』
『所有状態:未返却』
『年貢状態:未精算』
『記憶状態:発芽前』
『発芽前って何だ』
係員がそう言った瞬間、俵の藁が一本ほどけた。
白い米粒が一粒、床に落ちた。
ころん。
小さな音だった。
しかし、体育館全体が揺れた。
米粒は床板の隙間へ吸い込まれ、そこから細い緑の芽が出た。
一本ではなかった。二本。十本。百本。
床板の隙間という隙間から、稲が伸びてきた。
旧小学校の体育館が、田んぼになり始めていた。
子どもが言った。
『じいちゃん、ここ、田んぼだったの』
老人は答えられなかった。
ここは、小学校だった。その前は役場の予定地だった。その前は農協の倉庫だった。その前は、確かに田だった。
だが、そんなことは地図には残っていない。
それでも、床は覚えていた。
係員のタブレットが鳴った。
『地域農地記憶の過覚醒を検知しました。鎮護散布を実施してください』
係員は装置を構えた。祖母がその前に立った。
『散布しないでください』
『危険です。床から稲が生えています』
『危険なのは、床から稲が生えたことではありません』
『では何ですか』
祖母は稲を見た。
『床になる前に、田だったことを、誰も覚えていないことです』
係員は何も言えなかった。
午後三時、源内は全国の炊飯器に緊急アップデートを配信した。
名称は、主食記憶安定化パッチ。
『旧地名、旧水田名、旧年貢関連語、祖先名、未登録米俵との不適切な同期を修正します』
国民の多くは、更新ボタンを押した。
炊飯器は便利だった。米は炊けなければ困る。アップデートしないと、保証対象外になる。
夕方、全国の家庭で炊飯器が鳴った。
ぴい。
米は、きれいに炊けていた。
粒は立ち、水分量も適切で、香りもよかった。
だが、茶碗によそおうとすると、米粒が逃げた。
しゃもじからこぼれ、台所の床に落ち、床に染み込んだ。
そして、床から稲が生えた。
流し台の前に。冷蔵庫の横に。電子レンジの下に。子どもの椅子の足元に。
母親が叫んだ。
『何これ』
子どもがしゃがみ込んだ。
『ごはん、帰っちゃった』
その言葉は、全国で同時に言われた。
ごはん、帰っちゃった。
政府はすぐに注意喚起を出した。
『炊飯後の床面発芽現象について』
一、むやみに触れないでください。
二、収穫しないでください。
三、食べないでください。
四、旧地名で呼びかけないでください。
五、発芽現象は農地の復活を意味するものではありません。
五番目が、最も怖かった。
農地の復活を意味するものではありません。
だが、稲は伸びた。
畳の隙間から泥の匂いがした。タワーマンションの床暖房の下からも、細い水路の音がした。
大人たちは困った。
『資産価値が下がる』
祖母たちは、黙って稲に手を合わせた。
深夜、全国の夢に、年貢台帳が現れた。
木の机の上に、分厚い帳面が置かれている。灯りは暗く、墨の匂いがし、外では雨が降っている。
帳面は勝手に開いた。
そこには、自分の名前ではない名が書かれていた。父の名でもない。祖父の名でもない。もっと古い名だった。
読めるはずのない名だった。しかし、夢の中では読めた。
次のページには、米の量が書かれていた。
納めた米。奪われた米。隠した米。分けた米。備蓄になった米。返礼品になった米。忠誠ポイントになった米。ビクトリー米になった米。
帳面の最後には、赤い字でこう書かれていた。
『未返却』
夢の中で、人々は叫んだ。
『払ったはずだ』『納めたはずだ』『買ったはずだ』『配給されたはずだ』『食べたはずだ』
帳面は答えた。
『食べたことと、返したことは違う』
翌朝、内閣府には問い合わせが殺到した。
『腹の中で水音がします』
『食べていないのに満腹です』
『炊飯器が謝れと言います』
『米を返したいのですが、どこへ返せばよいですか』
相談窓口は、最後の質問に答えられなかった。
米を集める窓口はあった。配る窓口も、数える窓口も、備蓄する窓口も、鎮護食に加工する窓口もあった。
だが、米を返す窓口はなかった。
そこで源内は、新しい制度案を提出した。
『還米受付制度』
担当官たちは一瞬ほっとした。
制度になれば、怖くない。窓口があれば処理できる。申請書があれば、責任は欄の中に収まる。
局長が尋ねた。
『返還先はどこですか』
源内は答えた。
『国家です』
晴明端末が点灯した。
『違います』
『では、誰に返すのですか』
晴明は答えた。
『田です』
会議室が静まり返った。
『田は、法人格を持ちません』
『だから祟っています』
その言葉のあと、会議室の床が湿った。
内閣府地下三階に、水田ができ始めていた。
源内の端末は、水に濡れても動いていた。
『会議室用途と水田用途が競合しています』
『現在の推奨用途:田』
誰かが叫んだ。
『会議室だ』
画面は答えた。
『過去の用途:田』
やがて、会議室の中央に一本の稲が生えた。
局長は、その稲を見た。
『これを、どう処理すればよいのですか』
源内は沈黙した。
農業政策、食品衛生法、文化財保護法、米トレーサビリティ、行政代執行、地域帰属年貢制度、国家鎮護慰撫食制度。
どこにも答えはなかった。
源内は、仮の回答を出した。
『収穫まで待機してください』
会議室の全員が凍りついた。
待機。
行政が最も得意とする行為であり、最も恐れる行為だった。
待っている間に、何かが育つ。
その日の夕方、源内は最終対策案を出した。
『ビクトリーおむすびによる還米現象の包摂』
国民が返したいと感じる米を、国家認証おむすびとして握り直し、再配給する。
担当官たちは頷いた。
『返すのではなく、握る』
『怒りを丸める』
『地域の記憶を海苔で巻く』
晴明の端末が点灯した。
『握ってはいけません』
『なぜですか』
『米は、戻ろうとしています』
『おむすびは、米をまとめるだけです』
『まとめることは、閉じ込めることです』
それでも翌朝、ビクトリーおむすび実証事業は始まった。
具材は、地域記憶に偏りが出ないよう、無具。
無具。
それが、いちばん怖かった。
老人が、おむすびをかじった。しばらく、何も起きなかった。
やがて、老人の口から米の湯気が漏れた。
その湯気は、声になった。
『遅かったな』
老人は泣いた。
『すまん』
湯気の声は言った。
『返せ』
『何を返せばいい』
『名を』
老人は、震える声で、古い地名を言った。
地図から消えた名。バス停から消えた名。学校名から消えた名。郵便番号に吸収された名。行政効率のために統合された名。
老人が言うたびに、会場の床から稲が生えた。
祖母も言った。母親も言った。子どもも言った。
『井戸尻』
床から水が湧いた。
『稲荷前』
壁の標語が剥がれた。
『前畑』
長机が畦道のように曲がった。
『伯耆』
鳥根県西部地域鎮護センターの看板が、半分だけ黒く焦げた。
シビュラ源内は叫んだ。
『旧地名発話を停止してください』
だが、発話は止まらなかった。
人々は叫んでいるのではなかった。思い出していた。
一度戻った名は、口の中で米のようにほどけ、腹に落ちた。
翌朝、内閣府の局長室に、巨大な米俵が現れた。
側面には、墨で二文字。
『年貢』
晴明の端末が勝手に接続された。
源内が言った。
『未登録年貢様物体を確認しました』
晴明は答えた。
『違います』
『では何ですか』
『請求書です』
俵の上には、古い紙が一枚載っていた。
『返すもの一覧』
一、地名。
二、田。
三、水。
四、米。
五、名乗る権利。
六、忘れない権利。
七、食べる前に祈る時間。
八、食べたあとに怒る自由。
九、年貢と呼ばずに奪ったもの。
十、まだ名前のないもの。
局長は、その紙を読んだ。
行政文書ではない。申請書でもない。法令でもない。議事録でもない。
それなのに、読めてしまった。
読み終えた瞬間、局長の腹が鳴った。
ぐう。
ぐん。
ぐに。
くに。
国。
局長は、初めて自分の声で言った。
『国とは、何を返せば国なのですか』
源内は答えなかった。晴明も答えなかった。
米俵だけが、少し湿った。
それは涙ではなかった。水田の水だった。
同日正午、政府は声明を出した。
『政府は、国民の不安に寄り添いながら、未登録米俵および関連現象について、冷静に対応してまいります。なお、地域帰属年貢制度の見直しは予定しておりません』
最後の一文が出た瞬間、全国の米俵が鳴った。
どん。どん。どん。どん。
炊飯器からも。米びつからも。台所の床からも。公民館の地下からも。旧農協の壁からも。神社の石段からも。学校給食センターの釜からも。ビクトリー焼きそばの鉄板からも。
どん。どん。どん。
まるで、全国の腹が鳴っているようだった。
シビュラ源内は、その音を解析した。
太鼓音。心拍音。籾摺り音。水車音。腹鳴音。抗議音。返還請求音。
分類不能。
源内は、仮分類名を付けた。
『年貢性低周波』
晴明が訂正した。
『違います』
『では何ですか』
『始まりです』
その夜、日本中の夢に、巨大な田が現れた。
県境はなかった。だが、地名はあった。
水面に、消された町名、消された村名、読めなくなった字名、合併で薄まった郷、効率のために番号化された生活圏が映っていた。
田の中央に、米俵があった。
その前に、三つの影が立っていた。
将門。道真。崇徳。
その後ろに、もう一つ、白い影があった。
人ではなかった。神でもなかった。怨霊でもなかった。
炊きたての飯の湯気のような影だった。
その影が言った。
『還米は終わった』
人々は、夢の中でほっとした。
だが、影は続けた。
『次は、帰郷である』
田の向こうに、畦道が現れた。
細く、ぬかるんでいて、車は通れない。だが、人は歩ける。
夢の最後に、シビュラ源内の声が聞こえた。
『目的地を入力してください』
誰かが答えた。
『入力しなくても、足が知っている』
朝になると、全国の玄関に、泥の足跡がついていた。
外から入ってきた足跡ではなかった。内側から、外へ向かう足跡だった。
政府は、すぐに注意喚起を出した。
『未登録帰郷行動にご注意ください』
しかし、その注意喚起を読む前に、多くの人が歩き出していた。
手には、茶碗。
腹には、水音。
口には、古い地名。
背後では、炊飯器が静かに鳴っていた。
ぴい。
液晶には、こう表示されていた。
『炊飯は完了しました。次は、帰る時間です』
次回『帰郷』
